第4話 パート ツー 執着

人の緊張感というのは以外と耳に入って来る。待ち続けた末にやっと目的地までついた時の解放感。他人の高鳴る声は自分の胸へと通じ、膨張させる。そこに集まる者達は個人を影響し、それがまたみんなへと共鳴するのだ。

信濃由美は息を深く吸って天井を見上げた。しばらくしてから吐き出し、妙に長く待ってから浅い息を繰り返す。じんじんと迫って来る肺の痛みは緊張感を固く自分の底へ縛り付けてくれる。もうそろそろか。これ以上本来の意味を無くした深呼吸をすると、歌い始めてすぐに息切れになってしまう。そうだ、これぐらいにしておこう。他のアーティストはコンサート直前に麻薬を取ったりすると聞いたが、それはさすがに引ける。今は軽いチョーキングゲームで十分だ。

「本番はじまります!配置についてください!」

明るいスタッフの声が鳴り響く。新人バンド「ブルーバード」、総員四名。日本ツアー最終ステージが今始まる。


由美は歌い出し、喉を通して心を解放した。


最後だという事もあって、今回はコンサート翌日に握手会が行われた。長い間立ったまま、手と笑顔を灯した顔が痛くなった後までも続く。アーティストにとってはありがたみと解放の時間でもありながら、由美にとっては苦痛の時間でもある。特に変なファンが出現すると余計疲れる。由美にとってはなおさらだった。ストーカー被害が日本の誰よりも多く、最近のストレスの源にもなっていた。そしてまた...ザ オタクみたいな奴が手を取った後離さない。スムーズに流れるはずの行列が気まずく動かない。しかも手を握ったままこっちを真剣に見つめている。ちぇ。どうせなら隣の長身イケメンにやって欲しいのに、どうしていつもこう、産まれてから運動したことのない奴なのだろうか。列の奥から文句の声が聞こえてくる。警備の人はまだかよ!

「おい。彼女も迷惑してんだからはなせよ。とっととどっか行け」

よーしいいぞイケメン君。そのままこいつを追い出してくれ。後でサインでもあげるからささ。手をやっと離してくれる。ずっと気まずく横の適当な物を眺めていたけど、やっと前を向いた。

「大好きなんだ」

囁くみたいな小さな声だった。もっと力を込めて言えないくらいに、私をただ見つめる事に集中しすぎている。周りからの視線が加わり、私の反応を一斉に待った。

まじかよ。

「やめてください」

はっきりと言った。それは確かに正しい応答だったが、一瞬しくじったと思ってしまった。しかし、その考えはすぐに過ぎ去り、無音の歓声がその場を浴びた。

周りの視線をやっと感じ始めた男は真っ赤に染まり、プレッシャーに押し出されそうになっていた。それでも私の顔から眼を放す事が出来なかった。立ち止まったまま時間が過ぎ、そこにいる間周りから恨みを買い続けた。

「やめてください!」

強く言うと同時に、合図が部屋中に響いた。それを合図にする予定はなかったが、十分の人がその命令を待っていればそれは関係ない。その瞬間、その指示を待っている人は十分にいた。

男を目掛けてファンの列が一斉に崩れた。リードが切れた狂犬のように怒りと、上手に隠した恐怖を敵に向けながら、その一人の男に飛び掛かった。軽く弾ける血の音。脳内で何かが切れたファン達を、乱闘が食っていく。拳が振り回され、初めから少なかった抵抗が全て消えた時でもその殴打は止まなかった。

リンチが終わると同時に、別の何かが始まった。

私は走り出した。何故走り出したのかははっきりとは解らなかった。ただ、逃げないといけない気がした。他に選択肢が思い当たらない。後ろにあったドアを抜け、廊下へと他のメンバーも引き込んだ。ドラムの東が横へと追いつき、腕を取り一緒に走りだした。角を曲がると警備員が二人歩いてきていた。心配など微塵もないような、故意とゆっくりとした足取りだった。両方ともバトンを手に持ち、近づいてきていた。

「おい!もっと早くしろ!」

東が横で叫んだ。しかし、東や、他のみんなが気づけない事に私は気付いた。警備員に顔を向けると眼が合ってしまう。

二人とも私を見ている。

体格の良い東の少し後ろへと下がったら警備員が通るのを待った。その時でも妙に見られている感じがしてならない。出口の点灯がやっと眼に反射した頃、後ろで柔らかい肉がバトンでへし叩かれる音を置き去りにした。

「おい、由美、大丈夫か?」

外で車にもたれかかってしまった。荒い息が汗と共に、乱れた神経を裏切った。

「一応警察呼んだけど、さっきのは何だったんだ?」

「ねえ、帰ろう」

「いや、別に大丈夫だろ」

「お願い。帰った方がいいと思うの」

「...分かったよ」

全員はバンドようのヴァンに乗り、ビル内の修羅場から逃げていった。

車が走り出してまだ間もなかったが、車内は茫然とした空気で沈黙に落ちた。疲れが血管を一気に充満し、みんなが席にもたれかかった。後ろにはベースの千里が座っていた。ロングヘアーが綺麗な、おしとやかな女性だった。その向こうにはギターの松下が横たわってくつろいでいる。運転席には東が不安そうに座っていた。やがて高速道路に乗るエンジンの高鳴りがみんなの耳に響いては、外の雑音に埋もれていく。とっくの昔に上がっている太陽の光が都会を毛布の用に包んでいた。


事務所は六本木にある高層ビルの六階だった。床から天井まで伸びる窓の下には高級車が期待以上に走る道路が堂々と置かれてある。マネージャーとスタッフ数人いるが、みんながここで暮らせるようになっていた。

「それにしてもさっきのは何だったんだよ。あと、俺達がいなくなって良かったのか?警察が質問とか聞きにくるだろ」

松下がテレビを付けながらつぶやいた。ニュースキャスターはふと誰かから資料をもらい、松下に答えるように話はじめた。だが、思っていたほど情報が少なく、みんなの求めていた安心は微妙な距離感で届かなかった。

「私マネージャーに電話してみる」

いきなり思い出したみたいに言った。電話を取り出し、ふと考えてみると名前を忘れているマネージャーにかけた。そこにいるみんなの神経をからかうようにチャイムが鳴り止まない。「今だ!これ以上でないものか!」と思った瞬間、携帯は時間制限をきり、機械の声が用を尋ねた。いつもなら五秒以内に電話にでる人に連絡が付かないと大変不安を煽る。外を見ながら聞いていた東は、通り過ぎるポルシェを見送った。そのせいか、少し後ろを走る三台の黒いベンツが、高層ビルの地下駐車場に入っていく事に気付かなかった。東はコンサートでの出来事を分析しようとした。知っている事とは、一人のファンが由美に見とれていたこと。その男が他のファンに襲われた事。警備員が他人事のようにたいしてなにもしなかった事。東のなかでは何かが引っ掛かっていた。

「おい。どうしてあの時他の誰も逃げなかったんだ?」

外で花火が鳴る音がした。

いや、正確に言うと下の階で打ち上げ花火をしている感じだった。銃と親しみのない日本人だからこそ、戸惑ってしまう。「まさか」と思い、何もなかったかの用に生きていく。だが六階にいたのは普通の日本人じゃなかった。疑心感が神経の中で動いている。最初に指揮を取ったのは東だった。

「ソファーをドアの前に置け!」

戸惑う事なくみんなは動き出した。複数あったソファーと椅子でドアを塞ぐバリケードを騒々しく組み立てる。それでもうるさい中、迫って来る複数の足音と怒鳴り声は地震並みに響いた。


ドアのハンドルがくるりと回り、誰かが押すストレスに耐えるドアの軋む音がした。みんなはなるべく静かに警察をまた呼び、隠れた。外の連中は一段と騒がしくなり、ドアに重く突っ込んでくる。今はまだ大丈夫だったが、激突が次々と重なっていく内に、バリケードの安定感が崩れていった。このままだと入って来るのは時間の問題だった。そうなってはもう遅い。目の横から松下が動き出すのが見えた。


心臓のバクバク鳴る音が気になってしまうゆえに、大好きなみんなが傷つけられる事をどうしても避けたい気持ちで松下は動いてしまったのだ。

「うっ。どうしてこんなことするんだろう」

ドン!ドアが叩かれる衝突にビクンとする。その時ふと横を振り向いてみる。由美が膝を抱えながらクローゼットの中で頭を下げてうつむいている。深呼吸などしても無駄。松下の心の奥で干からびた記憶が動き出した。なんだかずっとそこにあって、なかったような。正体が未知の少女が一人、走馬灯の一区切りがリピートで頭の中を駆け巡る。自分を忘れていく。脳内の王座に一人の少女。誰だ?気になってしまう。気になって、気になって、気になってしょうがない!

執着心。

松下が罵声を上げてバリケードに突っ込んだ。カチッ。機関銃がにやりとほくそ笑む。ライフルの弾丸が椅子を粉々にしてから松下に穴をずらりと撃ち抜く。少女の腹にも穴が一つ。

由美ができる限りの力で叫んでも、冷たい機会の燃える手先には敵わなかった。

「行くぞ!」

東が由美の前に立ち、抱き上げた。まだ弾丸がぶち込まれるなか、東は向かいの窓を目掛けて全力で走った。息を吸い込みスライドでガラスの破片に切られながら空へと落ちていく。東が狙っていた灌木の中心から二十センチぐらい外れたが、コンクリートに叩かれずに済んだ。それでも由美の風景は霞んでいった。瞬きすればもう目が開かなくなるんじゃないかと思い、必死に意識を灯そうとする。東が風に踊らされる草木みたいに揺らめいている。何かを叫んでいるようだ。もうだめ。東が黒い煙幕に覆いかぶされていく。

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