ウブなネンネ

 父が帰った後に洋子には色々と事情を説明した。

 つまらない些細なことから、父と母のことまで。


 まずはつまらないことから話した。私は中学の三年生までは自分の名前がヒビキだと思っていた。本当に些細な事なんだけど、私の戸籍上の本名はヤマザキキョウだ。だけど、漢字が響だからと父が「ヒビキだからひーちゃん」とずっと呼んでいた。母はその辺はまともな人だったと記憶しているが、二人は私が小学校に上がり少ししてから別れてしまった。

 中学で名簿と違うとかは単に間違いだと思っていたが、高校受験の時の書類で自分の戸籍上の名前が違うことに気づいた。父にそのことを問い詰めると、バイクでも型式名称と販売名が違うことがあるとかなんとか言われ、中学生だった私はすごく腹を立てたことを覚えている。今、バイクと交差した後の人生を歩いている私には、古いミ○キーのような乾いた笑い声で「ハハッ」と笑って、面白い冗談だなってくらいには受け入れられる。

 だけど、中学生の私はバイク馬鹿な父について嫌悪感を抱いた。

 バイクは好きだったが、バイク乗りだと言って自分のことを特別扱いしている父の言動が嫌いになった。


 そしてここからは家庭の事情だけど、私の恋愛観にも繋がることかもしれない。

 父と母は私が小学校の頃に離婚した。通常ならこういう時に子供は母側についていくものなんだと思う、特に女の子なら。

 父と母は離婚の詳細を私に話していなかったから、父と暮らすと言った小学生の私のことを二人ともさぞかし不思議に思ったことだろう。だけど、私は大声で喧嘩する二人の声を聴くことがあったり、父の携帯の母とのメールを盗み見してたりして、事の真相を知っていた。


 離婚という形のピリオドが打たれる数年前、母が浮気をしていたのだ。その時は二人の間には小さな私がいて、二人はやりなおそうと固く誓って継続を選択した。

 しばらく二人は上手くいっていたのだけど、一度喉元を過ぎてしまえば元通りになれたものだと思って奔放に過ごす母と、ずっと我慢をしつつ疑問を抱いていた父の間には認識の違いがあった。時間が経つにつれて、父は私が本当に自分の娘なのか? 母が一人で出かける度にまた浮気をしているのではないのかなどと、考えたくないことを考えてしまい、また一方でそんなことを思う自分が悪いのだと自己嫌悪にもなり、父の心は安定しなくなった。

 浮気をした側とされた側、単純にそれだけではなかったのだろう。もって生まれた性格も影響していたのだと思う。浮気をしたのが父だったなら、もしかしたら違っていたかもしれない。だが母にとっては終わったことを蒸し返される日々、父は父で母のしたことが自分にもたらす気持ちへの配慮の無さを感じる、そんなことが浮き彫りにされて、お互いの間の深まった溝は数年後に二人に別れを決意させた。


 世の中では男は浮気をする生き物だと言われている。

 だけど私は男も女も関係ないと思っている。父のメールに出てくる漢字の意味を調べる度に、女性である母のしていたことが嫌な行為として幼い私の頭に刷り込まれた。女性の嫌な面を男性視点で自ら学習した。だから私は男性の方が信用出来るのかもしれない。宗則やヒロシと一緒にお酒を飲んだりするのに抵抗がなかったのは私の根底にそういう気持ちがあったから。


「だからひーちゃんなんだ」と洋子。離婚のことには触れなかった。

「つまらない理由でしょ」と私。


 洋子が、以前私が彼女にそうしたように、私の頭に腕を回して胸元に引き寄せる。どちらかというと痩せて見える洋子の胸は意外とボリュームがあり、身体も思ったより肉付きがよかった。


 気が付くと洋子の胸の中で泣いている私。私はいつから泣いていたんだろう。最初から? 途中から?

 ご隠居が死にそうな時にだって出なかった涙。


 きっと、バイクが私を強くしてしまったんだ。

 バイクを通して知り合った仲間が、バイクを通して知った苦労が、バイクに乗っている時間が、私を強くしてしまった。

 先に頭で考えちゃうんだ。怒りを選択していいのか? 単純に悲しんでいいのか? こんなときは喜ぶべきなんじゃないのか? って。


 今はまだ強い私だけど、今日は自分の為に泣けた。初めて誰かに話せた。ずっと誰かに話したかった。そんな自分の感情に気付いて涙が出た。

 これからは人の為に泣けるようになりたい。


 洋子が私に感情を運んできてくれたみたい。

 好きだよ、洋子。今日だけは。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る