泥舟

 通知音は激しい雨音にかき消されていたので、バイブを切っていたなら着信には気づけなかっただろう。私は表示された名前を見て、いっそ本当に気付かないでおけば良かったと思った。

「もしもし」

 私はベランダに突っ立ったまま電話に出た。雨の音が会話音声全てをかき消してくれれば僥倖だ。

「ごめんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな」

 願いに反して、その言葉は異常なまでにはっきりと聞こえた。その声には、いつものように微量の申し訳なさと大量の愉悦とが含まれていた。



 モコはご丁寧にも家の前で待っていた。

 こちらに気づくと、目の前の車のトランクを開けて指差して見せる。横たわった大きな袋の端から綺麗な女の顔がのぞいていた。思わずモコの方を見ると、にへへ、と恥ずかしげに笑っている。あまり長いこと見たい表情でもなかったので黙って運転席に乗り込むことにした。車内には死体から微かに香ったのと似た、朝の花のような匂いが漂っていた。

 高速へと向かう道路の混雑ぷりを眺めていたら、ついにやってくれたな、という思いが今更湧き出してきた。




 最初に「片付け」を手伝ったのは、確か幼稚園児の頃だった。

 幼い時分から内気で会話も下手で友達も出来なかった私は、いつものように一人園庭の隅っこで石を弄んでいた。その時後方から、ざく、ざくという音が聞こえた。

 振り返ると、倉庫の陰に何やら作業している人影があった。近づいて観察すると、どうやら違う組の女の子らしい。知らない人間に話しかける恐怖と、何をやっているのか知りたいという好奇心が私の頭の中で数秒戦って、結局後者が勝った。

「なにしてんの?」

 振り返ったその顔は、日に焼けて美しかった。

「わけてる」

「なにを?」

「アリんこ」

 その子はにぃと笑うと、今しがた作業していた地面をスコップで指し示した。散らばった黒い粒のような何かの正体を私はすぐに悟って、しばらく黙っていた。命を奪う行為への憎しみや恐怖は湧いていなかった。ただ、このまま散らばしておくのは何となく嫌だな、というおさない倫理感が、自分の中にあった。

 亡くなった飼い犬を泣きながら庭に埋める従兄弟を、その時思い出していた気がする。

「うめよう」

 唐突に提案した私の顔を、モコは黒い眼で不思議そうに見上げた。言葉を続けられなかった私は、その手からスコップを奪って穴を掘り始めた。蟻の残骸を砂の下に隠してゆく私を見て、モコも両手で砂をえぐり始めた。そうして遊びの時間が終わるまで、二人とも黙って作業を続けた。

 ——それが最初の出会いだった。思い出すたびに後悔しないでは居られない。その時自分が声をかけなければ、あんな提案をしなければ、十数年後の今死体処理に付き合わされることも無かったのだから。

 モコはその後も生き物をばらし続けた。蟻はやがてバッタになり、カマキリになり、セミになった。卒園の頃には、モコが殺し私が片付けるというおままごとのような役割分担がすっかり身に付いてしまっていた。

 小学生になっても、中学生になっても、高校生になってもモコは相変わらず私と同じ学校の別のクラスにいて、命を奪い続けていた。私もしばらくは以前と変わらずじっと付き添っていた。彼女の興味は次第に、構造を解体することよりも命を奪うことそのものに向けられてゆくようだった。成長するにつれ、私の中ではモコの行為への嫌悪感が表れて徐々に増していった。しかし異常さに気付いた頃にはもう協働関係を止めるには遅すぎたし、こんな形の繋がりでも捨てきれない程には、私は孤独だった。

 私は徐々に大きくなってゆく死骸を傍らで埋め続けた。感触は硬い外殻から濡れた鱗になり、ぬめった肌になり、やがて和毛になった。モコの横顔はますます美しくなっていった。最後の方には、私は自分から『片付け』に志願しなくなっていた。放っておけば、モコの方から「手伝って欲しい」と頼まれる事に気付いたから。後先考えず散らかされた遺骸を埋めるのは嫌だったが、そうなる過程を直視するよりはマシだった。

 そして、その関係は大学生になっても続き、結果がこのザマである。




「何か車多いね」

 モコの何気ない呟きで私は現実に戻された。見回すと、たしかに高速道路は大型トラックや乗用車の群でやや混雑している。雨は相変わらず激しく窓へ叩きつけて、忙しなく左右に動くワイパーがかろうじて視界を保ち続けていた。

 助手席を見ると、穏やかな顔でスマホをいじるモコがいた。事情を知らない人間が見たら、行先の名所を調べる観光客にでも見えたかもしれない。声をかける理由も無かったのでこちらは運転に集中することにした。

 そういえば先程までの道中、運転代わろうか、なんて提案は一回もなかった。殺人は平気でする割に無免許運転はやりたくないらしい。

 ETCを通り抜けたとき、不意にモコが口を開いた。

「彼女、私のこと好きだったぽい」

 どうやらトランクの死体の生前を話しているらしいと理解して、私はわざと大きく舌打ちをした。

「……これから埋める人がどんな人だったとか、別に知りたくないんだけど」

「何処が好きなんだろって思ってたら、『顔』だって。直球すぎて笑えるよね〜」

 私は黙ってラジオの音量を上げた。呑気なスムースジャズが車内を満たしたのを無視してモコは話し続けた。今トランクの中で死んでいる女が、どんなに自分に夢中だったか。どんな顔を自分へ見せてくれたか。どんな所へ誘ってくれてどんなモノを自分に買ってくれたか。常々どんな傷を負って自分に会いに来たのか。好きな女の凄惨な意図を知って喜ぶ程に——どんなに、その人生に絶望していたのか。

 私の意思によらず、その声はアンサンブルの隙間を抜け耳へ流れ込んできた。

「……でね、今から殺すよって言ったら羚子れいこちゃん、笑ってさ——」

 そう聞こえた時、私はいそいで意識を音楽へと集中させた。これから犠牲者になる者が、愛しい殺人鬼をどう受け入れたかの詳細など、絶対に聞きたくなかった。フロントミラーには楽しそうな、艶然と笑うその顔が写っていて、私はまた舌打ちをした。雨音がラジオでも誤魔化せないほど強くなり始めていた。



 目的地の山へと着いたのは出発して一時間後のことだった。雨はもう止んでいたが、地面は相応に泥濘んでいる。私は周囲に誰もいないのを確認してからトランクを開け、一応死体の脈を確かめた。冷えた肌からは何の鼓動も感じられなかった。奥を探るとシャベルが二本置いてあって、少しだけ可笑しくなった。どうせ一本しか、私しか使わないだろうに。

 モコは死体の方を見るでもなく、足元の水溜りや草花を靴の先でいじっている。湿ってやわらかくなった土は掘りやすいが、人ひとり入る穴を掘るには流石に時間がかかる。ひと掻きごとにその窪みへと雨水が溜まっていくのが見えて、私はなるたけ急いだ。来る時より雨は弱まっているとはいえ、もたもたしていたら池が出来てしまう。それに普段人気のない山とはいえ、誰かが来ないとも限らない。

「そんなに急がなくても」

 モコはこちらの作業を見ながら笑って言った。

「誰か来たらどうすんの」

「その時はその時じゃん」

「その時はあたしも捕まるんだけど?手伝ってよ」

 意外にも素直にシャベルを持って来たので少し驚いた。流石に人間の処理となると、その大変さが理解できるのだろうか。

 やがて穴は、人一人分入れても十分余るほどの大きさになった。私は死体をトランクから引きずり出そうとしたが、流石に一人では持ち上がらなかった。

「そっちの端持って」

 モコは言われた通り頭の方を持つと、少しはにかんだ。

羚子れいこちゃん、死んでもちょっと重いんだね」

「……」

 知るか、と言いそうになるのを我慢して死体を穴へ放り込もうとした時、横から手が伸びて来て制止した。

「ちょっと埋めるの待って」

「……早いとこ埋めないと」

「すぐ済むからさ」

 モコは手早く袋を開けると、眠っている彼女の顔をしばらく眺めていた。

「きれいな顔してる。眠り姫みたい」

「そりゃ、……」

 好きな女に殺されたら誰だってそんな顔になるだろう、と言いそうになって、我慢した。彼女は確かに微睡んでいるように見えた。その眠りをキスで覚ますのは、たとえ彼女のいとしい殺害者であっても不可能だが。

「……早くして」

 私は空の方を見ながら急かした。雷の音が少しずつ大きくなってきていた。

 返事もせず動きもしないので見ると、モコは何が楽しいのかまだ死体の顔を見ていた。そうして眺めていたと思うと、死体の顔に自分の顔を近付けて、穏やかにささやいた。雨滴の狭間を縫って、その言葉は聞くつもりのなかったこちらの耳にも届いていた。

「ごめんね」

 そう聞こえた瞬間、これまでモコと過ごした時間、押し付けられてなお私が断ち切ることの出来なかったあの時間が、急速に脳内を流れ去っていった。死骸をつくるモコの、ひどく綺麗な顔が目に焼き付いていた。私は全身を駆ける急速な熱に任せてシャベルを握ると、モコの背中へと勢い良く振り下ろしていた。ぎゃっという間抜けな声を上げて彼女は死体の上に倒れた。その震える背に向かって私自身が何度も振り下ろして、そのたび彼女の身体がみしりと音を立てて、呆気なく動かなくなるのを、私は空からただ眺めていた。

 もうひとつの死骸を穴へと蹴り入れてやると、ふたつは寄り添い合うように重なって丸くなった。モコは垂れた眼でこちらを見上げていた。その眼はもうあの純然たる光を失って、別の種の美しさを讃えていた。薄汚れた艶やかな唇が光っていて、私は手を伸ばして触れようとしたが、届かなかった。雨音は一層強くなってきていた。(了)

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雨について:短編集 油女猫作 @Batter_cat

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