雨について:短編集

油女猫作

粒子

朝から降り続いていた雨はとっくの昔に止んでしまった。

しかしながら、空に居座る黒々とした雲、湿り気を含んだ空気、グラウンドの水溜り、その他多くの痕跡は残ったままだった。

何もしていないのに全身がダルいのもその痕跡の1つなのだと思うと、かなり腹が立つ。


チャイムが鳴って今日の授業はおしまいになった。帰りの挨拶もそこそこに真っ先にドアを開ける。

教室から玄関までの廊下、階段、玄関のマットもすのこも皆平等に濡れていて、ひどく博愛的でいらついてしまう。

降りかかってくる辛い物事を既に自身のアイデンティティの一部として捉えてしまっている。そんな人間にとって、『悩みは人と共有すれば薄れる』などと言うのは、より以上の苦痛があれば痛みも薄れるなどと言って地獄に突き落とすようなものだ。

平等だから良いってわけじゃないだろと言い聞かせてやりたい。他ならぬ雨に対して。

自分の具合が悪いのは低気圧のせいで、雨はその産物に過ぎないことは重々承知している。だが、低気圧が目に見えない以上、それの顕現とも言える雨に対して八つ当たりをせざるを得ない。



玄関を出てまっすぐ進むと、馬鹿でかいグラウンドがある。

田舎の、しかも丘の上の土地であるから、それならばと一帯を丸々買い取って整地したのだろう。野球部とサッカー部が同時に練習してもまだ余るくらいには広い。

学校の周囲は割と土の露出が多いのだが、さすがにその土をそのまま使うわけにもいかないのだろう、普通の砂が敷かれている。当然、水はけは至極悪い。


特にグラウンドの真ん中あたりには沢山水溜りができていた。

やけに綺麗に空が写っているので近づいて見ると、水は、踏まれて砂が溶けて汚くなることもなく、ほとんど落ちてきたままの状態を保っているらしかった。

運動部は室内で練習しているようだし、帰宅部の人間は端っこを通ってまっすぐ校門に向かうので、当然と言えば当然だった。


風すら吹かず、水面はまったく鏡のように振る舞っている。自分の仏頂面が無駄に鮮明に写されているのを見ると、また腹が立ってきた。

長靴の右足でもって水溜りの底をぐりぐりと踏みにじってみると、砂の粒がバラバラになって水を黄土色に染めていった。数秒後、あれだけ澄んで見えた水はただの泥水と化していた。


一応覗き込んでみたが、自分の仏頂面はもう映らなかった。その代わりに輪郭の曖昧な影のみがそこにあった。


ゆるやかに渦を描いて回るカーキ色は、不思議と汚いとは思えなかった。


水に突っ込んだままの足をずるずると擦って、隣の少し大きな水溜りに繋げるように溝を作ると、砂混じりの水は隣へと流れ込んで自分の領域を広げていく。

細かな砂の粒子は水路と隣の池の境目あたりで踊っていて、見ていて愉快だ。

さらに隣の水溜りへと溝を引こうと思って足を引きずりつつ、何気なく顔を上げる。と、同じクラスの殆ど話すことも無い知り合いが目の前に立っていた。私は思わず身を引いた。


「何してんの」不思議さと呆れを含んだ声で彼女が言った。

「あー……」予想外の人からの予想外の質問にうまく言葉が出てこず目を泳がせていると、彼女の方から歩み寄ってきた。水溜りなど意にも介さずスニーカーで踏んづけて。

スカートに泥飛んでるよ、と伝えようとしたが、彼女の顔が真ん前に来たので口を僅かにぱくぱくさせるしか出来なかった。

「めちゃくちゃ楽しそうにしてたじゃん」にやりと彼女が笑って、私の両肩に手を置いた。ちょっとだけ背の高い彼女がそのまま体重を凭れかけてきて、バランスを崩しそうになって慌てて後ろに数歩下がる。柔らかくなった地面に私と彼女の足跡がくっきりと残っているのが見えた。

ごめんごめん、と彼女は軽く言って、先ほどの水溜りのふちに身体を戻した。私が溝を引こうとしていた所に彼女は片足を差し出して、やっていい?というふうにこちらを見た。私が頷くと彼女はうんうんと頷き返して、派手に音を立てながら足で地を擦った。水がまた流れ込んで、先ほどの粒子の踊りを繰り返すのを、私と彼女はじっと眺めた。

なるほどね、と彼女が感心したように言って、今度は溝の幅を広げはじめた。器用に足を動かして整えると、水溜り同士は元からひとつだったかのようになった。派手な改造に思わず私が笑うと、作業を続けながら彼女も笑った。


そのまま私と彼女とは地を削ったり、時には埋めたりして開拓をつづけた。

曇ったまま、夕と夜との境目が分かりづらくなった空が、それでも気付く程度には暗くなってきて、やっと止めた。

もう家に帰らなければならなかった。

私はそれでも続けようとする彼女と別れてひとり校門を出た。振り返ると、彼女がこちらへ手を振っていたので、私も大きく手を振り返した。低気圧が遠ざかっていったのか、先ほどの気分の悪さは跡形もなくなっていた。


彼女とは、結局知り合いから友達になるでもなく、次の日からはこれまで通り、彼女が彼女の友達と談笑しているのを私が眺めているくらいな関係だった。

ただ雨の日になると、彼女は時々こちらを向いて笑いかけてくるようだった。私は笑い返しながら、少し憂鬱さの晴れるような思いがするのであった。

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