「気持ちわりぃ」

 カクリは、照史から手を離し明人へと近づいた。

 解放された照史は、今何が起こっていたのかわからず、汚部屋を見回している。


「お兄ちゃんねちゃったの? お母さんも」

「あぁ。だが、すぐに目を覚ます。問題は無い」


 カクリは簡単にそう答え、明人の腕に手を置く。


「2回も自身のみの力で匣を抜き取る気か明人よ。そのようなことをすれば、お主の体はどうなるというのだ」


 明人は今立ち膝で、女性は彼の手に支えられている状態で座っている。

 カクリは背伸びをして彼の頭に手を伸ばした。


「──入れぬか。明人、大丈夫か?」


 そう呼びかけるカクリに、照史は抱きついた。不安げに眉を下げ、泣くのを我慢しているように見える。


「安心するが良い。2人は大丈夫だ。だから、そのような顔をするでない」


 照史の頭を優しく撫で、優しく抱き締め返す。

 背中に回された手に安心したのか、照史は抱きつきながら小さく頷いた。




 それから数分後、明人の手から力が抜けたのか、女性は床に倒れ込んだ。

 カクリは覗き込むように女性に近づくと、その目は虚ろで何も見ていない。匣の抜き取りは成功したらしい。


 明人はゆっくりと手を下げ、女性を見下ろしている。


「明人よ。どうだったのだ?」


 明人の手には何も握られていない。いつもは、空の小瓶を手に持ち記憶の中へと入る。


 今回も前回も手には何も握っていなかった。


「抜き取ったのではないのかい?」


 彼の様子にカクリは不思議に思ったらしく、首を傾げながらそう問いかける。だが、その言葉に返答はなく、彼はただただ女性を見下ろしているだけだった。


 照史は何かを感じとったのか、カクリの後ろへと隠れてしまった。


「照史? どうしたのだ?」

「お兄ちゃん──じゃない」

「なに?」


 照史の言葉にカクリは首を傾げ、明人へまた目線を戻した。

 再度見た彼からは、黒く渦巻くが感じ取れてしまい、カクリは冷や汗を流し、ゴクンと唾を飲む。


「明人──どうしたのだ?」


 カクリの声がようやく届いたらしく、明人は下げていた顔をゆっくりと上げ、カクリの方に目線を送った。


 その瞳はいつもの漆黒ではなく、血のように赤く染まっていた──


「あ、きと? どうしたのだ?」


 右目だけ赤色に染っており、逆に五芒星は黒く浮き出ている。

 どうしてこのようになってしまったのか、カクリには検討がつかないらしく困惑するばかりだった。


「カクリ」

「な、んだ……」


 明人がカクリを呼ぶ声にも重みがあり、緊張気味に返答する。だが、次の言葉はカクリの想像していたものではなかったため、気が抜けてしまった。


「────気持ちわりぃ」

「───ん?」


 次に明人が何を言うのか、カクリはすぐに動き出せるように構えながら聞いていたが、それ意味の無い行動だったらしく、抜けた声を出してしまう。


 彼の言葉はいつも通りで、最初の重みは一切なく、普段の〈らしい言葉〉だった。

 それは照史も同じだったらしく、お互いに目を合わせた。


「うっわ。なんだこれ。右目だけ視界がめっちゃ赤。はぁ? 気持ちわりぃんだけどなんだこれふざけんなよ」


 よく分からない言葉を次から次へと吐く明人に対し、カクリはただただ困惑するだけだった。

 いつの間にか、明人を包んでいた黒く渦巻く物もなくなっており、いつもの彼に戻っていた。右目だけを除いて。


「明人よ。匣はどうなったのだ?」


 恐る恐るカクリが問いかけると、明人は右手をポケットに入れる。そこから、黒く染った液体が入った小瓶が2つ、姿を現した。


「まさか、手に持たずに抜いていたなど……」

「どこにあっても同じだと思ったんだよ。いちいち手に持ち直してからやるのもめんどくせぇ」


 明人がそう言うと、片目を前髪で隠した。


「これ、右目の血管が切れて、目の中で爆発起きてねぇよな? それとも、色素が薄く、血管が見えてるだけか? それか、今この場てアレルギー反応──のわけねぇか。おい、お前との契約は消えてねぇだろうな」

「安心するが良い。五芒星は黒色になっているが残っていたぞ」

「それなら問題ねぇわ。視界がうぜぇけど」


「よっこいしょ」と明人は立ち上がり、体を左右に曲げたり、伸びをしている。

 首を回すと、コキコキと音が鳴った。


「とりあえず今回は終わった。あとは、こいつを預けるか」


 明人は、カクリの近くで震えている照史に目線を向けた。

 いつもの彼に戻ったのがわかったらしく、照史はカクリから離れ、足にしがみついた。


「お兄ちゃん。大丈夫?」

「問題ねぇわ。それより、お前のパパに会いに行くぞ」

「パパに会えるの?」

「多分な」


 そう言うと、彼はいきなり部屋の中を物色し始めた。

 最初は何をしているのわからず、唖然として見ているだけだった照史だが、カクリに近づきそっと問いかけた。


「お兄ちゃん何してるの?」

「手がかりを探しているのだろう」

「てがかり?」


 首を傾げる照史に、カクリは分かりやすく言い直す。


「お主のパパとやらの物を探しているのだろう」


 そんな会話をしていると、明人は小さな声で「あった」と呟く。


 彼が手にしている物は、賃貸借契約書だった──

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