「何もしなくていいですよ」
朱里は美術室から勢いよく飛び出し、がむしゃらに走り続けていた。
先程の出来事を忘れようと必死に走る。息を切らし、汗を額から滲ませながらも。
「なんで、どうして。違うのに!!」
忘れたくても忘れられない。美術室での光景が頭の中を占め、彼女は掠れ声で叫ぶ。何度も何度も叫び、全てを吐き出そうとする。
それでも一度起きてしまった出来事を無かった事にはできず、吐き出す事さえも許されない。
涙を浮かべ、耳を塞ぎながら走り続けていた朱里だが足がもつれてしまい、道の真ん中で転んでしまった。
手の平や肘、膝などが擦りむけてしまい血が滲み出ている。
ゆっくりと立ち上がり、震える膝に手を置いた。肩を上下に動かし、息を整えている。痛みなど感じている余裕などない。今はただ、現実から逃げた。その一心で再度走り出そうと前に顔を向ける。だが、目の前の光景に目を開き困惑の声が零れた。
「ここは……。なんで、私はここに……」
朱里がいる場所は、以前李津と一緒に来た林の前だった。
風が吹くと聞こえる自然の声は、今の取り乱している彼女の心を落ち着かせる。
息を整え、風と自然の声で冷静を取り戻すと、次の疑問が頭を覆い尽くす。なぜここに来たのか、なぜこんな所まで走ってきたのか。
無意識のうちに彼女は、噂の小屋がある林へと辿り着いていたのだ。
「なんで。……なんか、気になる」
目の前に広がる林に吸い込まれるように、朱里は足をゆっくりと前へ出し、そのまま木々達に飲み込まれるように姿を消してしまった。
☆
林の中に入って数十分後、古い小屋が見えてきた。
「なんで? 前回はこんなに早く見えてこなかったのに……」
小屋は、周りに立ち並んでいる背の高い木によって覆い隠されているように建てられていた。
小屋に少しずつ近付き、彼女は戸惑いながらも意を決してドアを開いた。すると、今回は真ん中にある木製の椅子に一人の男性が座っていた。
「お待ちしておりました。ソファーへどうぞ」
「あ……」
前回もこの小屋に居た男性、
片方の目は前髪で隠れ、人を安心させるような優しい笑みを浮かべながら朱里を見据え座っている。
「改めまして自己紹介させていただきます。私の名前は
朱里は前回同様ソファーに腰を下ろすと、見計らうように彼は自己紹介を始めた。
「きょっ、きょうがいさん?」
普段あまり聞かない苗字なため、確認するように聞き返す。
「竹冠の”
「そうなんですか。珍しい苗字ですね」
「よく言われます」と口にし目を閉じる。次に目を開けた時には真剣な眼差しに切り替わっており、明人は力強い視線を送る。
「さて、貴方が今回ここに来たのは、何かご用事があるという事でしょうか?」
いきなり本題に移り変わり、朱里は明人からの質問に答える事が出来ず顔を下げてしまった。
意図せずに辿り着いていたため、なんと説明したらいいのか分からない。目を泳がせ、言葉を詰まらせる。
「あっ、えっと……」
「匣を開けに来たのではないのですか?」
「…………すいません。私、いつの間にかここに辿り着いていて。好んで来たわけではなかったんです」
再度すいませんと頭を下げ謝る朱里だったが、明人は気にする様子もなく顔を上げさせた。
「安心してください、貴方がここに来たのは何か道標のようなものを感じたからなのだと思います。それに、噂がどのように伝わっているかは存じませんが、ここに辿り着ける人は限られているのです」
「そうなんですか? ですが、私は前回も……」
「それは貴方がお持ちだったからですよ。固く閉ざされた、
─────ゾクッ
その時の明人の表情は異様なほど綺麗で、それでいて恐ろしかった。今にも朱里を取り込もうとしているような雰囲気に、思わず体を震わせてしまう。
「驚かしてすいません」
明人は申し訳ないと言うような顔に一瞬で切り替わり、先程の獲物を狙っているような鋭い目線は気のせいだったのか思ってしまう。
優し気な笑みに戻った明人に、朱里は安堵の息を吐く。だが、まだ手は震えており右手で左手を包み込んだ。
「では、今回は貴方の匣を開けてもよろしいのでしょうか? 開けるとしたら、前回もご説明したように貴方の記憶をいただきますが……」
その言葉に、朱里は眉を顰めた。”記憶を頂く”と言われても、それをすぐに理解する事は出来ない。すぐに返答できず、明人を見続けていた。そんな彼女を促すように再度、問いかけた。
「どうしますか? 匣、開けてみますか?」
笑みは消えず、明人は相手の反応を楽しむような目を浮かべ返答を待つ。
「…………悩んでいますね。では、聞き方を変えましょうか」
「え?」
「貴方の匣、開けてみませんか?」
先程は全てを朱里に託すような聞き方だったが、今度は勧めるような口調に変えた。
まるで、”問題ない”と言っているような言葉に、彼女は自然と体に入っていた力が抜ける。
明人の言葉を信じ、朱里は決意を固め首を縦に振った。
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
彼は立ち上がり、奥のドアを開け姿を消す。
明人の背中を追って見ていた朱里だったが、姿を消してしまった事により、ソファーに座り直す。すると、当たり前のように今まで姿を現さなかったカクリが明人とすれ違いざまに姿を現し彼女の隣に座った。
朱里はカクリに会うのが初めてだったため、いきなり現れた美少年に驚いている。
「あの……」
「なんだい?」
声まで鈴の音みたいに綺麗で、思わず顔をほころばせる。
「貴方もここに住んでいるの?」
「だったら?」
「いえ、何となくです……」
見た目はすごく綺麗なのだが、言葉が素っ気ない。朱里はもっと話したかったが会話が思いつかず、何も発する事なく項垂れてしまった。
「本当に開けるつもりなのかい?」
「──え?」
朱里が次の会話を考えていると、カクリがいきなり話しかけた。
「開けるのは私ではない、自身で決めたのであれば良かろう。だが、明人の雰囲気に呑まれたと感じているのなら、やめておいた方がいい」
カクリの言葉を聞き、天井に目線をあげる。どのように答えようか先ほどの会話を思い出し、言葉を口にした。
「──これは、私自身が弱いから。意気地無しだからこうなってしまったの。だから、もし匣を開けて変わるんだったら変えたい。記憶がなくなっても」
天井を見上げていた彼女は、決意を口にしながらカクリに向き直す。その目にはもう迷いはなく、”変えたい”という気持ちが見て取れた。
その目を見て、カクリはしばらく黙っていたがその後すぐに小さく「そうか」と応え、顔を背けた。
「あの、一体……」
「お話は済みましたか?」
いつの間に明人が戻ってきており、彼女の横に立っていた。その事に驚き少し肩をビクつかせ、朱里は彼の方を向く。明人の手には眠り草が入っている小瓶が握られていた。
「お話がお済みでしたら、早速開けてもよろしいですか?」
「はっ、はい! あの、私は何をすればよろしいのでしょうか」
「貴方は何もしなくて良いですよ」
「え?」
朱里は明人に何か言おうとしたが、それより先に体から力が抜け、ソファーへと横になる。
「な……、ねむい……」
何が起きたのか分からないまま、彼女は重たい瞼を閉じ、夢の中へと入っていった。
☆
「さて、さっさと匣を開けて昼寝の続きでもするか。おいカクリ、今回は手短にしろよ。俺だって立て続けにこんなんやってんだからヘトヘトなんだよ」
「努力はしよう。しかし、期待はしないでくれないかい」
「たくっ、言葉だけじゃなくて実行しろよ」
「まさかそのような言葉が、明人の口から出てくるとはな。これは驚いた」
明人は小さく舌打ちをし、朱里の頭に手を添えた。そして、空いている手で右目にかかっていた前髪を横へとずらし、その中に隠れていた五芒星を露にした。
そのまま左目は閉じ、五芒星が刻まれている右目だけを開けたまま、夢の中へと入っていく。
カクリは人間の姿から狐の姿に戻し、明人の右肩に乗り、こちらは両目共閉じた。
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