第13話 忘れられた幻想

 残ったのは、疲弊したような静寂。これは血で始まり、血で終わった物語。かつてオーディンと、多くの戦士によって賑わっていたヴァルハラは今、耳鳴りのような静けさの中、フレイアの存在だけを認めている。


「はぁ……」


 フレイアは消耗しきっていたが、その表情は安らかだ。そして、フレイアの体が黄金の光を帯びる。自身の神性を否定し、ロキを殺した。フレイアは『愛』の器としての資格を剥奪され、この世から排除されるのだ。


「ふふ」


 フレイアは両腕を広げ、踊り始めた。足元にはゲートに似た虹色の輪が現れる。右に回ったと思えば左に回ったり、重心を波状に移動しながら円を描くように動いたり、そのたびに虹色の輪は鼓動するように光を増す。


「エリス・サズン・イディシ……」


 指先や足先から、編み物を解くように消えてゆくフレイア。だが、それでもフレイアが慌てる様子はない。落ち着いた口調で、ささやくように、リーヴが何かを感じていた、あの呪文を唱え始める。


「イヌアール・ウィガンドゥン」


 フレイアの髪の一本一本が、生命を得たかのように動き出す。いつの間にか、周囲には正体の分からない倍音が響いていた。続けて、フレイアは別の呪文を唱え始める。


「ベン・ジ・ベナ・ブルート……」


 その倍音に反応するように、周囲のあらゆるものが動き出す。空を覆っていた得体の知れない暗黒は消えてゆき、崩れた天井や床は時が逆行するかのように再生してゆく。


「ソーセ・ゲリミダ・シン」


 これこそがフレイアの最期のセイズ。崩さぬよう、壊さぬように、この世の摂理を、真理を、復元しているのだ。


「ああ――」


 とうとう手足を失い、動くことができなくなったフレイア。残された胴体や頭部も、すでに半分以上も消えている。そして――


「リーヴさん、どうか、生きて」


 フレイアは満足げに微笑みながら、消えた。


               *   *   *


「はあ、どうしようかな」


 リーヴは寝転がり、ぼんやりと雲を眺めながらつぶやく。ここはかつてアルビダに乗せられた船『バルドルの棺』の上だ。


「今日こそ陸を探そうかな」


 そう言いながらも無気力に海を漂い、すでに何度目かの朝を迎えている。リーヴはなぜ自身がここに居るのか分かっていない。ヴァルハラでのことは覚えている。もちろん他のことも忘れたわけではないが、気づいたらここで目覚め、そして間違いなく生きているのだ。


「とりあえず、パン食べよ」


 相変わらず干からびたパンは何度でも現れる。だが、世界は大きく変わった。ゲートが消えたのだ。そして異なる時空に分断されていた空が、海が、元に戻っている。


「海も広くなってる気がするし、月が出たってことは空も戻ってるよね……」


 もはや抵抗感のなくなったパンにかぶりつきながら、一人で喋っているリーヴ。その時だった。


「え?」


 波が妙な音を立てた。リーヴは恐る恐る、音のした方から離れるように移動する。その時。


「きゃああ!」


 ざざっ。柱のような波が発生し、船に乗り上げてきた。よく見ると、その中には何かの影がある。悲鳴を上げ、尻餅をつくリーヴ。


「ああ……ちょっと寝すぎたな、こりゃ」

「あれ?」


 波が引くと、そこには見慣れた人物が片膝を立てて座っていた。


「全身が固くなってるよ……」

「ア、アルビ、ダ?」

「ん? ああ、リーヴか。その様子だと、終わったんだね?」


 アルビダは腕や首を回しながら、ゆっくりと立ち上がる。


「そうなの! でも、フレイアが……」

「大丈夫さ。『愛』は簡単に死んだりしない。世界中探せば、どこかには居るはずだよ」


 そう言って腕を組み、どこか遠くを見るアルビダ。


「そ、そうだよね……え、っていうか、アルビダはなんで生きてるの?」

「なんで、って、今のあんたなら分かるだろう? よく見てごらんよ」


 リーヴはそう言われ、アルビダの頭の天辺から足の爪先までを、何度も往復するように見る。そして何往復目かでやっと、その周囲にある『空気』に気づき、目を見開いた。


「あっ……もしかして、ラーン? ヨトゥンヘイム出身のラーンだよね? アルビダって、ラーンの分身だったんだ!」

「そういうこと」


 アルビダは腰に手を当て、小さくポーズをとって見せた。海の女神であるラーンの神性はまさしく『海』。アルビダは海に対する連想から生まれた眷属、言わばラーンの分身体である。


「それで? あんた、なんでまだこんなところに居るんだい? 完全ではないにしろ、世界は元に戻ったんだよ?」

「実は、操縦の仕方が分からなくて……」

「しょうがないねえ、じゃ、ひとまず近くの島に寄ってみるか」


 アルビダは船尾に向かい、髪をかき上げると舵輪を握った。船は自由を取り戻したかのように、するすると動き出す。波も風も、海に関わる全てがアルビダの意思に従っている。


「うわぁ、動き出した」


 雲ひとつない青空に、爽やかな潮風。リーヴは胸に手を当て、何かを思っている様子だ。


「何だろう、これ……胸が締め付けられる感じというか、でも、なんだか嬉しいの」

「ふふ。リーヴ、それはね、『夢』って言うんだよ。『願い』よりももっと大きく、そして幸せなものさ」


 アルビダは少し嘘をついた。神々にとっての『夢』とは、幾度となく繰り返す、生と死の循環――その不完全で有限な永遠を楽しみ、そこに幸せを見出そうとする心のことだ。


「あたしも夢を見て、そして叶えてるから生きていられるんだ」

「そっか……私、この夢を叶えたいな」


 だが、特にセイズ魔術の神髄に触れた者にとって、全てはうつつであり、全ては夢である。つまり、この世界の持つ曖昧さと明瞭さ、幻想と現実の境界を見失い、夢を感じることができなくなるのだ。アルビダは、リーヴにはあくまで人間であってほしいと願い、あえて人間の言う『夢』を教えた。


「いいねえ、あたしもその夢に付き合ってやるよ――さあ、行くよ!」

「うん! フレイアを探しに!」


               *   *   *


 ここはリーヴたちが上陸する予定の島。草花の生い茂る丘の上に、石を積み上げて作った質素な家がひとつ。近くには川が流れ、時折、小魚の跳ねる音が聞こえる。


「……兄さんだね? おかえり」

「おお、よく分かったな」


 その家に静かに入ってきた男は、中で食事の準備をしている男に向かって微笑んだ。


「ふふ、僕が兄さんの音を聞き間違えるわけないよ。たとえ足音を消していてもね」

「良い耳だな、羨ましいよ。ほら、魚を取ってきたぞ」

「いいね。今日は僕が捌いてみよう」


 弟のほうは盲目のようだが、まるで見えているかのように道具を手に取り、調理をし始めた。


「そういえば少し前、誰かが外に食べ物を置いて行ったよ。今テーブルの上にあるやつ。あの音はおじいさんかな? 僕たちのことを知ってるみたいだった」

「ラグナロクの生き残りかもな。まあ、ありがたく頂くとしよう」


 兄のほうはテーブルに置かれた果実を手に取り、異常がないことを確認すると、静かに戻した。


「そうだね。ところで、世界は今どうなっているんだい?」

「詳しいことはまだ分からないな。世界の仕組みが変わって、俺たちがあの場所から出られて……もしかしたら、母上がやってくれたのかもしれない」


 二人は異母兄弟であった。故に、親から与えられるものの格差に苦しみ、すれ違うこともあった。だが、二人は決して憎み合う関係ではなかった。互いに死んで同じ場所へ行き、同じように過ごしているうち、分かり合うことができたのだ。


「母上って、フレイア様のことかい? それなら確かに説明がつくけど……また恐ろしいことが起きないか、僕は怖いよ」

「大丈夫だよ、きっとロキが死んだからこうなったんだろ? 俺はもう死んだりしない。確かに、何が起きるかは分からないけど――」


 ここに居る者たちは明らかに生きているように見える。それは現実なのか、それとも極限的な明瞭さを持った幻想なのか。この世の何者であってもこの事象を証明することはできないだろう。だが、ひとつだけ確かなことがある。


「でも安心しろ。何があっても俺がお前の目になってやるからな、ヘズ」

「ありがとう、バルドル兄さん」


 今、このときから、全てが始まるということだ。

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