第11話 愛の女神が死ねと叫ぶ

「お前は死ななければならない。この世で唯一、価値のない命!」

「ふっ、お前は俺と死ぬつもりなんだろうが……」


 女神フレイアの本質、すなわち神性は『愛』である。愛とは自身を含まない無償の気遣い。許し、受け入れ、与える。それが愛である。だがフレイアは今、自らの神性を否定している。そして神性を失った神が行き着くのは『消滅』である。


「死ぬのはお前だけだよ。他人の力でしか戦えない無能が」


 次の瞬間、場は沈黙に支配される。ロキとフレイアはその場から動かず、黙って睨み合っている。だが、何もしていないわけではない。互いに、相手をどう殺すか、また、そのための魔法を準備しているのだ。


「来いっ、レーヴァテイン!」


 先に動いたのはロキのほうだった。ロキがフレイアに向かって走りながら手を差し出す。次の瞬間、そこには黒い剣が収まっていた。刀身は広く、分厚いが、切れ味はその現実を無視している。それがこの破滅の剣、レーヴァテインだ。


「死ね!」


 ロキが叫びながらレーヴァテインを振り上げる。黒い刀身が溶岩のように発光し、炎を伴いながらフレイアに迫ってくる。だが、フレイアはその場から動かない。


「顕在せよ、勝利の剣」


 鋭い金属音が響く。フレイアを守るように、一本の剣が浮いていた。刀身は細く、ルーン文字がぎっしりと刻まれている。これこそが勝利の剣。フレイアの双子の兄、ユングヴィが持っていた物だ。勝利の剣は一瞬、太陽のような光を放つと、ロキの持つレーヴァテインを容易く弾き返した。


「まさか物まで呼び出せるとは。小賢しい」


 ロキは素早くフレイアの背後に回り込み、再び斬りかかる。だが、勝利の剣は意思を持っているかのように飛び寄り、フレイアが振り向くよりも早く、ロキの攻撃を防いだ。


「賢者を導く勝利の剣か……だが、本来の力は出し切れてないようだな。お前の知能が足りないからか?」


 フレイアは何も答えない。ロキも返事を待たず、次々に攻撃を仕掛ける。かん、かん。剣がぶつかり合う度、互いを威嚇するかのようにレーヴァテインは炎を、勝利の剣は光を放つ。そして何十、何百かの打ち合いが続いたのち、ふいに、ロキの体勢が崩れる。


「うっ」


 勝利の剣による攻撃を受け止め続けた衝撃で、ロキの重心が狂っていたのだ。その一瞬の隙を突き、勝利の剣がロキの首を捉えた――かのように見えたが。


「くく、やはりお前の知能じゃ分からなかったか! 死ね!」


 斬られたはずのそれは炎となって消えた。ロキはレーヴァテインから溢れた炎を自身に擬態させていたのだ。ロキは勝利の剣が追いつくよりも早く、フレイアの胸に剣を突き出す。


「ぐっ、はっ……」


 だが、苦悶の声を上げたのはロキのほうだった。フレイアはロキの攻撃を避け、ロキの腹に二回、拳をめり込ませた。


「知能がないのはお前のほうです。私はセイズで身体機能を強化している。お前の愚策も見えていますし、お前の剣を避けることも容易。そんなくだらない知能で、よくも偉そうに生きていられましたね。汚い命が」

「ぐうっ」


 続けて、ロキの顔面にも拳を叩きつけた。と同時に、周囲の空気が、空間が、ロキを攻撃し始める。物理的に何かをしているわけではない。フレイアの放つ怒りや憎悪が、空間に存在する温度、水分、光、そして時までをも捻じ曲げ、ロキの魂を握っているのだ。


「それ、で、勝ったつもり、か?」

「いいえ」


 呼吸を荒くしているロキと、それを見下すフレイア。


「お前にはもっと苦しんでもらわなければ」


 そう言って、フレイアはロキの頭上に何かを呼び出す。


「何だ……?」


 反射的に飛び退いたロキの目の前に、赤黒いものが水っぽい音を立てて落ちてくる。それは、臓器だった。細断された胃や腸などが散らばり、ロキにまとわりつくような異臭を放っている。


「これはお前の息子、ナリを解体した後に残った『クズ』ですよ」

「ナリ、だと?」

「知らなかったのですか? お前を捕えるために使った鎖は、この臓器を撚り合わせて作ったのです」


 ロキはバルドルを殺した後、バルドルを殺し、また、それを責めた神々を侮辱した罪で捕らわれ、洞穴に幽閉されていた。岩に縛り付けられたロキの頭上には、あらゆる生物を溶かす毒液を吐く蛇がおり、ロキの妻シギュンはその毒液を少しでも防ごうと、必死に器で受け止めていたのだ。


「ついでに言うと、シギュンの献身も刑罰のうちです。お前がすぐに死んでは困りますからね」


 その結果、ラグナロクの開始によりこの世の全ての戒めが解けるまで、ロキは毒液による拷問に耐え続けることとなった。


「お前、よくも……だが、その程度は想定済みだ。そんなもんで俺が動揺するとでも思ったか」

「それだけではありません」


 突然、散らばった臓器の山が痙攣するように動き出す。


「その中には私が選び抜いた『病』が詰めてあるのです」


 これはのちにウイルスと呼ばれるものである。大量のウイルスが空気に触れて活性化し、ロキの口や鼻から侵入しようとしているのだ。


「病は炎で清められる。この程度、何になる」


 ロキは臓器をレーヴァテインで切り裂き、燃やしてゆく。だが、その動きの中に僅かなためらいがあることを、フレイアは見逃していなかった。


「へえ、切り殺すのですね、『息子』を」

「……ふん。愛の女神ふぜいに、ここまで追いつめられるとはな。だが、これで終わりだ。レーヴァテイン、杖になれ」


 レーヴァテインが溶けるように伸び、速やかに杖の形状になる。


「オーディンは『ルーン魔術の王』だとか呼ばれていたが、オーディンにできることは俺にだってできる」


 杖となったレーヴァテインの先端が仄かに光る。ロキが床に向かってその先端を動かすと、光はインクのように尾を引き、その筆跡をなぞった。


「結局、あいつは俺以下だから死んだんだ」


 ふわっ。フレイアを守っていた勝利の剣が霧のように消えた。


「死者の呼び出しを妨害するルーンを描いた」

「そうですか」


 フレイアは興味なさそうに答えると、飛びつくようにロキに殴りかかる。それをレーヴァテインで受け止めるロキ。右から、左から、フレイアは素早く動き回り、あらゆる方向から殴打を繰り出す。剣であった時と同様、レーヴァテインは攻撃を防ぐたびに炎を吹き出すが、フレイアは一切のダメージを受けていない。


「炎に耐性があるのか? くっ、馬鹿みてえな力だな……だが」


 ふいに、フレイアの動きが止まる。ロキが親指と人差し指で三角形を作り、フレイアの足元に向けていた。収束のシジルだ。


「拘束のルーンを『収束』させて強化した。これでお前は無力だ」


 ロキが空に杖を突き立て、ルーンを描き出す。再び、光がインクのように尾を引き、紙に染み込んだかのように空中に筆跡を残す。


「お前はこれで殺してやる。ふふ、これが何だか、分かるだろ?」

「神なる槍……」


 オーディンが生み出した最後のルーン魔術。一度投げれば決して的を外さず、その穂先は万物を穿つという『神なる槍』。発動が難しく、あまりにも威力が高すぎるため、オーディン本人ですら実際の戦闘で使用したことはなかった。


「あいつほどの威力は出せないが、お前をここで殺すのには十分だ。お前は見るからに力を消耗してる。ほとんど魔法を使ってないのがその証拠さ。強がっていても、お前に勝ち目はないんだよ」


 フレイアは心臓を貫きそうなほどの威圧感を放ちながらロキを睨みつけているが、拘束のルーンが解ける気配はまだない。その光景と、ルーンを刻む小さな刺激が、ロキの脳裏に閃光を走らせる。


「それにしても、よく考えたらおかしな話だ。オーディンの愛人とはいえ、仮にも主神であるあいつと平等に兵を分けあい、同等の権限で使役できるなんて」


 ロキが神なる槍のルーンを描き終える。ルーンがより一層光を放ち、徐々に姿を変えてゆく。


「そういえば、あいつの妻のフリッグとかいう奴も、ラグナロクの時には居なかったな。予知能力があるって噂だったからか……」


 そしてついに、神なる槍が生まれる。ルーンの刻まれた穂先が、投槍とは思えぬほど長い柄が、ゆっくりと黄金の光を放ち、フレイアのほうを向く。――ひゅん。一瞬の間の後、空を切る音が響く。その一閃が、ロキの思考を繋げた。


「いや、待て、お前は『オーディンを救うために逃げた』と言ったな。こうなると分かっていたのか? とすると、オーディンの妻フリッグとは、まさか――」

「私です」

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