第10話 セイズという魔術の神髄
バルドルを殺し、主神オーディンまでをも殺した男、ロキ。この世の敵とも言えるその男が、今ここヴァルハラの、フレイアの目の前に居る。
「ああ、感謝するよ、フレイア……俺は自分でも破れない繭に囚われていた。完璧すぎたんだ。俺が何者であるかも分からなくなるほどにな」
そう言って、ロキは口角を吊り上げた。しかしフレイアは、そこに感謝の意が含まれていないことを明確に理解している。
「お前もそう思うだろ? あの擬態は本当に完璧だった! なにせ、わざわざ木屑から本物の人間を創り出して、記憶と能力まで分割して――」
「ロキ、私はそんな話がしたくてお前を戻したのではありません」
フレイアは無表情で言った。
「なんだよ、つれない奴だなあ。俺がお前に何かしたか?」
「お前は――バルドルを殺した」
「何をそんなに恨んでる? いや、そうか。さてはお前、関係を持ったな?」
フレイアは目尻を吊り上げ、ロキをその視界に閉じ込めるかのように睨む。
「お前は確かオーディンともそういう関係だったからな。ガキの方にまで手を出しててもおかしくはない……まあ、残念だったな。二人ともセイズなんて女々しいもんに入れ込むより、俺みたいに替え玉でも用意しておけば死ななくて済んだのにさ」
そう言って、ロキは肩をすくめ、両手のひらを上に向けた。
「いいえ、オーディンは死んでいません」
「はあ? 何を言ってる。気でも狂ってるんじゃないか?」
嘲笑するように両目を上に向けるロキに対し、フレイアはため息をつく。
「狂っているのはお前の方ですよ。この音が聞こえないなんて」
その言葉に、ロキが一瞬、真顔になる。そしてしばらく空を見つめると。
「あれはなんだ……カラスか?」
視線の先、遠くの空に、二羽のカラスが飛んでいることにロキは気付いた。奇妙なのは、その存在に気付くまで、不自然なほどはっきりと聞こえているはずの羽音が聞こえなかったことだ。
「そういえば、オーディンはいつもカラスを飛ばしてたな。ちょうど二羽だ。いや、だがおかしい。さっきまで何も感じなかったぞ! まさかセイズか?」
「そう、セイズです」
フレイアは肯定したが、ロキの反応は大したものではなかった。
「はあ、あんなくだらんペットをわざわざ隠しておくとはな。どういう趣味してんだか」
「あのカラスの名は、フギンとムニン。オーディンの知能と記憶そのものから生まれた眷属です」
「何だと?」
ロキが眉間にしわを寄せる。神の一部から産まれたものは、その神が死ねば共に消えるはずである。それが今も生きているということは、つまり――
「いや、それもおかしい。さてはあのカラスこそがセイズで創った幻影だな! 俺は確かにあの時、フェンリルを使ってオーディンを殺した!」
「お前はセイズという魔術のことを何も理解していないようですね」
フレイアはまた、ため息をついた。
「セイズは単なる幻惑の魔法ではない。その神髄は、世界を惑わし、現実に起きた事実に干渉し、書き換えることにあるのです」
「ほう。だったらなぜ、そのセイズでラグナロクを止めなかった?」
「お前のせいです」
フレイアがロキの言葉を遮るように話し始めた。
オーディンは当初、ラグナロクを阻止するため『大いなるセイズ』を準備していた。これは多くの者が知っていたことだったが、当然『ロキにだけは知られてはならない』という暗黙の了解があった。だが、あの日、ロキは真っ先にオーディンを殺しに来た。これは全くの偶然だった。
偶然とはいえ、ロキに計画を壊されたオーディンは、自身の命に関わるセイズを使うしかなかった。オーディンは世界を惑わし『オーディンが死んだという現実』を書き換えて自身を蘇生し、同時に『オーディンが死んだという幻想』を、現実であると思い込ませる。その結果、オーディンの統治力は失われ、世界は形を保てなくなった。
「今のオーディンの力ではこの『現実』を破れない。そのために私はラグナロクを逃れたのです。お前の存在が、その命が、どれだけ罪深いか分かりましたか!」
怒りのこもったその語尾は、ほとんど叫びに近かった。
「罪? 功績の間違いだろ。秩序は混沌の一部に過ぎない。お前らは自分たちが『生かす側』『与える側』であって、この世界そのものを生かすか殺すかまで決められると思ってるようだが、それは大間違いさ。俺は世界をあるべき姿に導いてるだけだ!」
「お前こそ、自身を『殺す側』『奪う側』の、混沌の代行者であると思い込んでいるだけでしょう……いいえ、やはり、何を言っても無駄なようですね」
そう言って一呼吸置くと、フレイアは静かに、眼の色を変えた。
「ロキ――死になさい」
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