第9話 不死なる神バルドルの死
これはラグナロクの前、バルドルがまだ生きていた頃の話。
「う、うわあ!」
バルドルは毎晩、不吉な夢を見ていた。そして決まって、自身の叫び声で目覚めるのだ。バルドルを心配した神々が集まり、議論したが、誰一人としてその夢の意味を解明することはできなかった。バルドルの父である主神オーディンは、夢の解明のために旅に出る。
「オーディン様、到着しました」
オーディンは巨人の女に案内させ、死者の世界ニヴルヘイムへ行き着く。すると、死者たちが黄金の飾りと蜜酒を並べ、
「予言者よ、これは何か」
オーディンは死した予言者を呼び出し、問うた。
「オーディン様、これはあなたの息子、バルドル様を迎える準備でございます」
予言者はうやうやしく答えた。
* * *
バルドルの生命が危険に晒されていることを知った神々は、あらゆる死の原因を考え、また、その原因となる物の名を挙げる。そして母親のフリッグが、この世の全ての生物や無生物、すなわち森羅万象と契約を交わした。『バルドルを傷つけてはならない』と。
「もちろんでございます」
「私たちも、喜んで従います」
火も、水も、雷も、金属や石も誓った。大地、樹木、そして病も、全ての動物や虫までもが悦服した。フリッグが契約を終え、ようやく神々が安堵したころ、誰かが言った。
「契約が守られているか、試してみなければならない」
一人が試しに、石を投げつけてみた。石は契約を守り、ぶつかっても力を出さなかった。むしろ、バルドルはその石がぶつかったことにすら気づかなかったのだ。それを見た神々は笑い、全ての存在がバルドルの不死を祝い、喜んだ。
石を投げても、矢で射ても、剣で切りかかっても、どのような攻撃もバルドルを傷つけることはなかった。すると、神々は次第に大胆になり、まるで競技のように、バルドルに怪我をさせられないことを楽しむようになった。
だが、ロキだけは別だった。ロキは他者の不幸が、苦しみが、何よりの楽しみだった。ある時は勝利の神が公平に勝利を与えていないことを責め、またある時は婚姻の女神の不倫行為を暴き、その神格を貶めて喜ぶ。それがロキだった。
ロキはバルドルが他の神と幸せそうにしているのを見ると、バルドルを苦しめて、殺したくてたまらなくなった。毎日毎日、宴のように騒ぐ神々が面白くなかった。そんなある日、ロキは閃いてしまう。
ロキは老女に擬態し、フリッグの宮殿を訪れると、バルドルを祝福するような言葉を並べた。そして、知ってしまった。バルドルの『契約』には欠陥がある――ヴァルハラの西に生えていた、小さなヤドリギだけは若すぎて契約ができなかった、ということを。フリッグは老女があまりに熱心に話を聞くので、余計なヒントを与えてしまったのだ。
その直後、ロキが聞いた通りの場所へ行くと、まさしくそこに、樫の木に寄生するヤドリギを見つけた。その実の光沢は仄かに揺らめき、セイズを連想させる。葉や枝の緑色は薄明の下では大人しく見えるが、明光の下では、どこか異質なものに見えた。
ロキは手頃な大きさの枝を選び、活力を与える。枝は一本の槍ほどの長さになった。ロキはその枝の皮を剥ぎ、先端を尖らせ、磨き上げると、バルドルの居る広場へと急ぐ。
* * *
「ふ、ふふ、ふひ……」
ロキはこの時点で笑いを抑えられなくなっていた。広場へ行くと、神々は相変わらず『競技』を楽しんでいる。この中に、バルドルの不死を疑う者は誰一人として存在しない。
辺りを見回すと、バルドルの弟ヘズを見つけた。ヘズは盲目なので、いつものように皆から少し離れて手探りしながら動いていた。誰にも気に留められていないヘズの姿を見て、ロキは喜びに震えた。
「君は仲間に入らないのかい?」
一人の『老女』が、ヘズに話しかけた。
「僕は目が見えないから、兄さんがどこに居るか分からないんだ。皆と楽しむことはできないよ」
ヘズが声の主の位置を探るように顔を動かしながら言った。
「君は彼の弟だろう? 弟を無視するなんて、悪い兄さんだね」
「しょうがないよ。兄さんは誰よりも賢く、美しい。全てを持っている、選ばれた者なんだから」
蠢くような神々の笑い声が、ヘズの言葉をかき消す。
「槍が面白い所に当たったようだね。さあ、君もやってみるといいよ、ヘズ」
「でも、僕は何も持ってないよ?」
「それならこの槍を使うといい。君も皆と一緒に、バルドルを祝福しようじゃないか」
老女は尖らせたヤドリギをヘズに握らせて、言う。
「彼がどこに立っているのか、教えてあげるよ。君の後ろで手を取って手伝ってあげる。君も楽しんでいいんだよ、君だって、望まれて生まれてきたんだから。皆と一緒に、幸せになって、いいんだよ」
老女の眼の色が炎のように揺らめく。ヘズは笑みを浮かべながら、少し震えた。ヘズがその言葉に従ったのはなぜだったのか、それはすぐ後に明らかとなるが、一体何が老女――ロキの異常な欲望をかきたてているのか、それは誰にも分らなかった。
「ふっ、ヘズ、こっちだよ……ふふっ」
ロキの擬態が解ける。だが、ヘズは自身の背後に居る者の正体に気づいていない。ヘズはロキに従い、バルドルの方を向き、狙いを定める。そして――
「さあ、そこだ! 行けっ!」
ヘズは無言で槍を投げる。ヤドリギの槍はヘズの手を離れると異様な加速をし、見事バルドルに命中し、その胸を刺し貫いた。
「よし、死ね! バルドル! 死ね!」
ロキがそう叫ぶと、槍の体内に埋まっている部分が、爆発するように枝分かれする。
「ぐっ……」
その瞬間、全ての物音が消え失せた。バルドルの臓器が、血液が、不完全な不死を嘲笑するかのようにまき散らされる。
神々は崩れ落ちるバルドルの肉体をただ見つめた。そしてお互いを見つめ合い、最後にヘズとロキの二人を見つめた。誰がバルドルに死をもたらしたかは、明らかだった。
ロキは、その視線から逃げるように、近くにあった影と同化して消えた。一方ヘズは、その視線に気づくことすらできなかった。
* * *
その後、ある神がニヴルヘイムへ行き、冥界の支配者ヘルに神々の深い悲しみを伝えた。慎重に、誠実に言葉を選び、バルドルを蘇らせてくれるよう頼んだ。
ヘルはロキが女に擬態している間に産まれた子であるが、ロキとは違い、思いやり深い性格であった。ヘルは正しいものを信じ、正しく生きたものを決して無下にしない。
ヘルはしばらく考えたのち、ある条件を出した。
「全ての世界の、全てのものが、バルドルのために嘆き、涙するのなら、彼を蘇らせましょう」
続けて、こうも言った。
「ただし、もし一人でも涙を流さないものが居たら、その願いは叶えられません」
もちろん、ありとあらゆるものが泣いた。フリッグと契約をした森羅万象はもちろん、バルドルを殺したヤドリギですら、契約ができなかったことを後悔し、謝罪し、涙を流した。
子供も、大人も、全ての者がバルドルのために泣いた。――ただ一人を除いて。
その、ただ一人の、巨人の女だけは、いくら頼み込もうと決して一粒の涙も落とさなかった。
こうして、バルドルの復活は失敗に終わった。神々はなぜバルドルが死ななければならなかったのか、その運命を理解できなかった。たが、ひとつだけ『唯一泣かなかった巨人の女がロキである』ということは、もはや誰もが理解していた。
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