第8話 死せる者たちの宮殿

 目の前にあるのは、一瞬床が無いと錯覚するような透明の橋。木の根のような手すりは所々崩れており、渡れるのか怪しい。足元には申し訳程度の地面が存在するが、上も下も、視界のほとんどは切って張り付けたような黒に覆われている。少し手を伸ばせば、その暗黒に溶け込んでしまいそうだ。


「私たちは、あそこに向かわなければなりません」


 フレイアの指さす方向に、闇に抵抗するかのように光り輝いているものが見える。それ以外には何も見えない。空も地面も、全てがその存在を失っている。


「なにこれ……落ちたりしない、よね?」

「私の後ろを歩いてくだされば大丈夫です。手すりは掴まない方が良いですよ、あまりあてになりませんから」


 わずかに光を反射している透明な橋を、何の迷いもなく歩くフレイア。よく見ると橋は木の枝のようにあちこちへ分かれ、どこか別の場所に繋がっているらしい。


「ここです」


 ふいに、フレイアが立ち止まる。光り輝いているものは頭上に近づいたが、目の前に何かあるようには見えない。あるのは壁のように立つ暗黒だけだ。


「エリス・サズン・イディシ……」


 フレイアが何かを唱え始めた。呪文のようにも、歌のようにも聞こえるその声が響くと、目の前の暗黒が軋むような音を立てる。


「あれ、この言葉……」


 リーヴは記憶の中に何かを感じたようだが、その正体は分からなかった。暗黒の壁はひとしきり軋むと、フレイアの言葉ひとつひとつに反応するように、少しずつ剥がれ落ちてゆく。


「ハプト・バンドン・イヌアール・ウィガンドゥン」


 フレイアが唱え終わると同時に、隠されていたものが明らかになる。それは仄かに黄金の光を放つ扉だった。


「うわぁ」


 リーヴは数歩退いて建物を見る。屋根には盾のようなものが並べられていて、壁には無数の切れ込みがある。やや無骨で、攻撃的にも見えるが、リーヴはこれを宮殿であろうと直感した。


「さあ、中へ」


 内部は思ったよりも暗かった。天井はほとんどが崩れ落ちていたが、その向こうには暗黒が木の枝のように広がっていて、この暗黒が単なる闇ではないことを示していた。その暗黒の隙間から漏れた光が、安っぽい布切れのように床まで垂れ下がっている。


「ここは?」

「強き戦士たちが死後に集う場所ですよ。私たちは、ここで戦士を選別していたのです」

「選別? あっ、ヴァルハラか!」


 リーヴは興味深そうに辺りを見回しているが、フレイアの表情は暗い。


「ここの扉の数がいくつあるか知っていますか?」

「扉の数は、ええと……540」

「そう、あなたはこの場所を誰よりも良く知っているのです」


 リーヴの表情が曇る。心なしか、周囲の空気が張りつめている。


「まだ思い出しませんか? ここで起きたことを」

「えっ?」

「ここで、オーディンは死んだのです」


 フレイアの言葉に、リーヴが目を見開く。


「オーディン! 確かにここに居た! ラグナロクの時、ここで何かをやってて、それで、フェンリルに……」


 フェンリルはある男と巨人の女の間に生まれたが、神々に災いをもたらすとして地中深くに封じられた狼だ。その狼が、この場所で、この世界の主であるオーディンを殺した。そのことをリーヴは知っている。


「フェン、リル、に、飲み込まれ、て――あっ」


 突然、リーヴが固まったように動かなくなる。表情を失った顔つきで、どこか、ここではない何かを見ている。


「ああ、フレイア……ごめん」


 ぴしっ。空間全体に、稲妻が空を切り裂くような衝撃が走る。それが単なる錯覚なのかどうかは、フレイアには分からなかった。


「そう、私が、そうだったんだ。私が」


 再び、稲妻が走るような衝撃。リーヴは小さく肩を震わせる。


「私が――ロキだったんだ」


 今度は時が止まったかのような減圧。この空間にある全ての生命、物質が、呼吸を止めたかのような静けさが生まれる。


「フレイア、本当に、ごめんね」


 リーヴが涙を流しながらフレイアの方を見る。フレイアの表情は、迷っているようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。


「うわああぁ!」

「リーヴさん……」


 リーヴの体が黒いものに包まれる。それは炎のように見えるが、実際にリーヴの肌を焼いている様子はない。リーヴの叫び声が、次第に低く、別人のような声に変わっていく。


「あ、ああ……」

「ようやく、正体を現しましたね――」


 『黒い炎』が収まると、そこには明らかにリーヴではない者が立っていた。紫黒の肌と、吊り上がった目が特徴的な男。この男こそが――


「ロキ!」


 フレイアが目を見開いて、叫んだ。

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