第7話 ニヴルヘイムのような心
「リ――さん、リーヴさん――」
「んっ……」
フレイアの呼びかける声で、リーヴは目覚めた。周囲は深い霧に覆われていて、生き物の気配はない。背筋を撫でられるような妙な肌寒さと、眠りのような静寂だけが、この世界を支配している。
「ああ、着いたんだ。なんか、ニヴルヘイム、みたいだね」
「そうですね。次のゲートは向こうにあるようです。移動しましょう」
リーヴは重いものを転がすように、ゆっくりと体を起こした。フレイアはリーヴに手を差し出し、立ち上がらせる。そして二人は静かに歩き出した。
「うう、あれから、どうなったんだっけ? 怪鳥が消えて、アルビダが――」
「大丈夫ですよ。アルビダさんは、死にませんから」
「そ、そう、なんだ……」
リーヴが一瞬、うつろな目をした。二人の足音によって静寂は破られたが、周囲の空気はいまだ、何かを恐れているかのように張りつめている。
「あれ、日記がない」
「日記ですか? 見た覚えはありませんが……大切なものなのですか?」
「ううん、別にどうでもいいの! ほとんど同じことを一行くらいしか書いてなかったし」
そう言って、リーヴは笑った。
「……私ね、フレイアに出会うまで、いろんなゲートを通って、いろんな場所に行ったんだ。でも、私の過去も、この力のことも、私のことが分かるようなものは何も見つからなくて」
フレイアは黙ってリーヴの話を聞いている。足元の草を踏みつける音が、徐々に石の音に変わる。
「誰にも会えない日が100日くらい続くことも、何度かあったんだよ? それが、フレイアに出会って急に何か進み始めて……これもきっと、神族の性質なのかな!」
「ふふっ、そうかもしれませんね。確かに私たちは、人間より多くの願いを叶えることができます。でも……」
ふいに、フレイアの言葉が止まる。その時。
「あ、晴れてきたね」
霧が晴れた。そこは広場のようだった。地面は石畳で造られており、周囲には石で造られた建築物の残骸が並んでいる。
「あれ、この場所、知ってる」
「ああ……」
フレイアが、小さく声を漏らす。
「ここは……私の息子、バルドルが……殺された場所です」
フレイアが視線を下ろす。対して、リーヴは記憶を辿るように視線を上げた。
「バル、ドル?」
バルドルは、神々の中で最も賢く、最も美しいとされ、万人に愛された光の神である。ある日、彼が自身の死の予兆を見るようになると、フレイアは世界中を巡り、この世の全ての生物や無生物、すなわち森羅万象と契約を交わした。そして彼を傷つけてよい者が存在しなくなったことで、彼は実質的に不老不死となった――はずだった。
「私、その人のこと知ってる! 皆がバルドルと遊んでて、私もそこに居て、でも……」
バルドルの不老不死の契約には、重大な欠陥があった。それを知った『ある男』がバルドルの弟ヘズを騙し、バルドルを殺させたのだ。
「ヘズを騙した人、知ってるはずなのに、見てたはずなのに分からない! どうしてバルドルの胸は貫かれたの? そもそも、人間の私がなんでヘズの隣に立ってたの? 人間が住める世界じゃないのに……だとしたら、私は一体誰なの?」
リーヴが呼吸を荒くする。フレイアはしばらく黙ってそれを見ていた。それが混乱によるものなのか、あるいは他の要因によるものなのかを確かめているようだ。
「リーヴさん、謝罪させてください。この先へ行けば、リーヴさんの探し求めていたものが見つかるはずです。けれど、その『答え』はあなたを幸せにするものではない。申し訳ありません」
フレイアはうつむき気味に、少し小さな声で、そう言った。
「そ、それは、どういう……?」
「詳しくは言えません。ですが私は、あなたのことは、あなたの命だけは絶対に守ります。それだけは信じてください」
フレイアの眼の色が、また波のように揺らめいている。今のリーヴにはそれが幻惑の魔法『セイズ』を使っているサインであると分かった。だが、そんなものがなくても、リーヴの答えは決まっていた。リーヴはひとつ、深呼吸をする。
「大丈夫。そんなこと言わなくても、私はフレイアのことを信じてるよ。私が何者であろうと、フレイアの目的が何であろうと、私は全部受け入れる。それが私からフレイアへの愛。愛は見返りを求めたら死んでしまう、でしょ?」
「リーヴさん。ああ……ありがとうございます」
リーヴはセイズを破った。だが、それでも胸を張ってそう言うリーヴの眼の色を見て、フレイアは消え入りそうな声で感謝した。
「では――」
フレイアが両手を広げると、空気の塊が落ちてきたかのような風が吹く。そして目の前の地面が光り始めたかと思うと、見慣れた円形になり、虹色の文字が浮かぶ。ゲートだ。
「一緒に、行きましょう」
眉を落として言うフレイアに対し、リーヴは微笑みながら、頷いた。
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