4-2
初めからただならぬ雰囲気は察していた。検診でもないのに本部棟へ呼び出され、予定していた面会日でもないのに彼の姿があれば、嫌でも何事かと勘ぐってしまう。
脱走の件がバレたのか。そう考えていた私は、一分後の私からするとかなり呑気だった。尤も、一分後の私が絶望に打ちひしがれ、真っ青になりながら唇をブルブル震わせたかといえば、そういうわけでもない。
ある程度の心づもりは出来ていた。だからショックも最小限だった。
「どうか残りの時間を、有意義に使って下さい」担当医はそう言った。
カガミさんも同じ口調で同じことを言われたのだろうか、と私はぼんやり考えた。
隣では一時は結婚まで考えた恋人が俯いている。泪は出ていないようだが悄然としている。
「あの、一つ良いですか?」私は医師に問う。そしてこめかみの端末を示す。「死んでから機械に切り替わる時って、どんな感じなんですか?」
質問というより皮肉。私から〈死〉を取り上げようという技術に対するせめてもの抵抗だ。
医師はじっとこちらを見返してくる。真意を探るようでもあるし、好意的に捉えれば言葉に詰まっているようにも見える。
やがて相手は口を開く。
「飽くまで移植後の人格の証言ですが」彼は咳払いをし、「一度深い眠りに落ち、それから目が覚めたとのことです。特に苦痛はなかった、と」
口調が穏やかになる。私が怯えていると勘違いしたようだ。
「だからどうかご安心を。夜眠って、朝起きる。いつも繰り返しているのと同じことが起こるだけですから」
さも見てきたように、医師は言った。
医師から告げられた内容を、ほぼそのまま三人にも告げた。脳天気を煮詰めたような彼らもさすがにショックを受けたようだったが、鬱陶しいぐらいの湿っぽい反応は見せなかった。贔屓の野球チームが優勝を逃した、ぐらいの哀しみに、傍目には見えた。
「なので、これからの練習は一曲に絞りたい」私は言う。〈なので〉の前には〈残り時間がない〉が省略されている。
「一曲に」リーダーが繰り返す。
「何にするの?」優男が訊ねる。
「『Waiting for you at hell』」大男が呟く。お前が言うなよ!
かくして私たちの目指すべき〈ゴール〉も明確な姿を現した。
『Waiting for you at hell』は私たちにとって色々と特別な曲だ。
まず、唯一世の中に〈商品〉として流通した曲である。それも配信ではなく、ライブ会場でのCD(自分たちでシコシコ焼いた)の手売りという形で。ネットに載せれば、或いはもっと広く世の中の人に曲を認知されたのかもしれない。だが、私たちはその手段を取らなかった。何かポリシーがあったわけではない。歌詞の内容が公序良俗コードに引っ掛かったのである。もしPCの画面に出てきた警告を無視してあの曲をアップしていたら、たぶん一日も経たないうちに私たちは前科持ちになっていたことだろう。そんな経緯があるから、この曲は私たちのライブにわざわざ足を運んだ物好きの間でしか知られていない。
その問題の歌詞も、特別な理由の一つだ。私たちの他の曲に比べて異質なのだ。他の曲は、言うなればラブソングである(異論はあるだろうが認めない)。だが、この曲だけは〈他人〉に対する〈己〉の気持ちを歌ったものではない。歌詞にもタイトルにも〈you〉とあるが、これは〈もう一人の私〉を指す。ここに書かれた言葉は、自分に向けて発せられたものなのだ。私が私のために書いた、最初で最後の曲。この曲を書いた時、私は既に音楽の道を行くことに限界を感じ、心の半分は静岡に帰っていた。〈音楽じゃない世界=地獄〉に行く自分から、今までの自分に対するメッセージ。今読み返しても、潔い労いなどとはほど遠く、未練たっぷりの断末魔の叫びにしか思えない。だが、だからこそ、人生の最後に歌う意味がある気がした。
この曲が特別な理由をもう一つ。リフが殺人的に難しい。全盛期の私でさえ指が取れるかと思ったほどだ。これは私のせいではない。作曲者であるリーダーの意地悪だ。好意的に捉えれば、バンドを去ろうとする私にもう一度音楽の楽しさを思い出させようとしていることになるが、恐らくは単に歪んだサディズムを発露しただけだろう。この性格の歪みが、時を超え尚も私を苦しめることになった。文字通り〈殺人的〉に。
練習の序盤から、弦を押さえるのもままならなくなってきた。中途半端に振動を抑制された弦は、ピックが当たると乾いた情けない音を立てた。
「お前、大丈夫か?」大丈夫ではないとわかっていながらもリーダーは訊ねてくる。他に適当な日本語が存在しないのだから仕方がない。「今日はもうやめとこうぜ」
「冗談じゃない」私は乾いた唇の切れ目から声を出す。「もう何度も練習の機会なんてない」
「けどよ、これじゃ本番前にお前……」
「死んじゃうんじゃね?」リーダーが濁した分を優男がわざわざ言葉にする。まあ、こいつらに下手な気を遣われても気持ちが悪い。こういう時、優男の性格は救いになる。「ソロのところは俺に任せなよ。何と言ってもこっちは現役だからね」
こちらが鳴らしたい音を、優男はいとも簡単に鳴らしてのける。前言撤回。こいつのデリカシーのなさは万死に値する。
私は、しかし一歩も譲らない。ボーカルもギターソロも、昔ライブでやっていた頃と同じように私が担当する。そうしなければ意味がないのだ。私が、ステージを下りようとする私のために書いた曲なのだから。
「大丈夫。次は行ける」
私の言葉に、リーダーは渋々といった感じで頷いた。
肩越しに、ドラムの向こうに座る大男と目が合う。彼は深く頷くと、スティックを叩いてカウントを始めた。
ギターが泣いている。
そんな風に歌ったのは、ビートルズだったか。
イヤホン越しに聞こえるリフは、ギターを通して発せられる〈叫び〉だった。かつては私も、そんな風に叫ぶ方法を持っていた。
CDが終わる。私は再び再生ボタンを押し、同じ曲をリピートする。
このCDには一曲しか入っていない。元の持ち主も、同じように繰り返し繰り返し聴いたのだろうか。
歌詞が飛び始める。初めは一文字二文字だったのが、フレーズ単位に、やがて同じ箇所で引っ掛かりスクラッチのようになる。私がポータブルプレーヤーをバシバシ叩くと、「やめろ」とリーダーに取り上げられた。
「古いんだから大切に扱え。壊れるだろうが」
「壊れてんだよ、既に」
「もうシミュレーションはいいだろ」
私の耳からイヤホンが引っこ抜かれる。
「やっぱり緊張する?」優男がニヤニヤしながら訊いてくる。「安心しなよ。いざとなったらフォローしてあげるから」
演奏は、必ずしも仕上がったとは言い難い。草臥れた蝿が飛ぶような辿々しい調子で、ようやく最後まで弾き通せたのが昨日のことだった。不安がないと言えば嘘になる。だが、それがむしろ覚悟にも通じる。
大男が煙草を咥え、ライターを擦る。それを全員で制止する。ここで火災報知器が鳴りでもしたら元も子もない。
「鍵は?」優男が思い出したように問う。「まさか、ここまで来て開いてないなんてことないよね?」
「抜かりはない」私はポケットからキーホルダーを取り出す。今朝、事務室から盗み出したものだ。プラスチックのプレートには〈屋上〉と手書きされた札が収まっている。
「そろそろ行くか」
リーダーの言葉に、私たちは頷く。
それぞれの楽器と機材を担ぎ、薄暗い階段をゾロゾロと上り始める。この感じ、前にも味わったことがあると思ったら、ライブハウスのステージに上がる時のそれだった。
私はもう一度、ステージに上がろうとしている。
同じ仲間たちと、同じ白塗りのメイクで。
〈本当の私〉が、地獄の底から這い上がろうとしている。
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