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 周りを取り囲む山々は、すっかり赤や黄色に染まっている。

 展望台へ続く階段を上る。軽く息は切れるが、苦しさを感じるほどではない。

 階段を上りきった所には四阿あずまやがあり、ここからは施設全体が見渡せるようになっている。山の斜面を切り拓いた土地に、角砂糖のような白い建物が点在している。これがバンガローで、一棟につき女性の入所者が一人、暮らしている。斜面の一番下にある長方形の建物が管理棟だ。そこでは医師や看護師が、私たちの腕から発せられるバイタル情報に目を光らせている。彼らは、私たち患者の身に異変が生じれば即座に駆けつける。だがそれは、私たちを助けるためなどではない。私たちの死をいち早く確認し、遺体をバンガローから速やかに運び出すためだ。そしてさっさと前の家主の痕跡を拭い去り、新たな住人を迎え入れる。だから、酒を飲んだ程度で生じるバイタル変動などでは飛んでこない。心臓が停まりでもしない限り、恐らく彼らはやって来ない。彼らが欲しいのは、私たちの〈死〉だけだ。

 もちろん、そんなことを彼らはおくびにも出さない。施設にとって私たち患者は高い入所費を払い続ける〈太客〉なのだから。私たちは、現代医療に匙を投げられた身としてはなかなか豪勢な生活を約束されている。他の入所者はどうか知らないが、私個人に関して言えば、今までの人生で一番豊かな暮らしぶりである。

 木々が風を受け、そよそよと音を立てる。

「平和だね」カガミさんが目を瞑る。「もう既に天国にいるみたい」

「なに勝手に天国行こうとしてるんですか」私は言う。「カガミさんは地獄の可能性の方が高いでしょ」

「失礼な。品行方正な深窓令嬢を捕まえて何を言うか」

 彼女が品行方正はともかく深窓の令嬢というのは本当だ。聞けば、実家は私でも知っている百貨店の創業家で、幼い頃からそれはそれは珠のように育てられたのだという。尤も、こうした類いのお嬢様の常として、カガミさんもまた外界の良からぬ〈自由〉を欲し、それを巧みに入手する術を覚えた。

 私が今なめているこのウイスキーも、その成果の一つだ。味と風味を似せた擬似酒だが、微量といえどアルコールを含み、酒であることに違いはない。健康に及ぼす影響もゼロではなく、いくら回復の見込みがないといえど入所者が口にするのは論外だ。もちろん、施設側もこうしたものの持ち込みを一切認めていない。では何故カガミさんの手元に擬似酒があるのかといえば、彼女の〈じいや〉が密かに運んでくるのだ。

「違反の片棒担がされてじいやかわいそう」

「あたしの専属になった時点で相応の覚悟は出来てるわよ」

「あれ、カガミさん。顔に何か付いてません?」

「美しい目と鼻は元々付いてるよ」

「こめかみのとこ」私は自分の同じ箇所を指す。「何です、それ?」

「じいやが付けろってうるさいんだよ」

「斬新なアクセサリーですね」

「〈Departure〉に人格情報を送るための機械なんだって」言いながらカガミさんは、小さく白い碁石のような物体を人差し指で叩く。「今この瞬間にもあたしの頭の中がどっかのサーバにコピーされてる」

「へえ」私は曖昧な声を漏らす。

 Departureなるシステムについては、私も耳にしたことがある。というか、気になって調べた。肉体が死を迎える直前に意識をサーバに移し、生き続けられる装置。死にゆく者の魂を苦しみから解放し、家族や友人らとの穏やかな別れを目的として作られたものだ。それはまるで、旅立つ者を空港で見送るような別れだという。

 魂をサーバに移すに当たっては、その拠り所の下準備が必要となる。カガミさんのこめかみに貼り付いた白い碁石がまさにそれを担う。まず人格情報を送り、元の肉体に入っている脳と同じ神経系をサーバの中に構築しておく。間取りから家具、本棚の並びまですっかり同じ自分の部屋を作っておくイメージだ。肉体が滅ぶ直前、この〈空の脳〉と同期を始める。主観となる意識は〈空の脳〉へと移っていき、やがて完全に移行する。肉体は抜け殻となる。人類が長い間続けてきた慣習により、一応ここで〈死んだ〉と見做される。

 後は痛みも苦しみもない余生が待っている。サーバ容量の都合で四十九日間と期限は切られているが、久々に帰省した実家でも三日目からは普通に家事を手伝わされたことを考えれば充分過ぎる時間だ。画像処理された生前の健康な姿を身に纏い、家族と穏やかな時間を過ごしたり方々に別れの挨拶をしたりする。

 そうして四十九日後、本当の死が訪れる。当人も周りの人々も、もちろん寂しさはあるものの、元気な姿で言葉を交わすことで概ね爽やかに別れられるそうだ。公式サイトにはそう書かれていた。

「嫌いそうだね、こういうの」

「まあ、何と言うか……」言葉が出ない。相手に水を向ける。「カガミさんは好きなんですか?」

 答える代わりに彼女は私の手からスキットルを抜き取る。

 曖昧な返事しか出来なかったのは、コンピュータ上に意識を移すということに対して抵抗を感じたというのも確かにある。だがそれ以上に、彼女の周りでその準備が始まったという事実そのものが、私の気持ちを揺さぶった。無論、カガミさんもそれは同じに違いない。

「そんな顔するなよ」酒を呷ったカガミさんが言う。「念のためだって。別に終わりが見えてきたからじゃないよ。こうやって隠れて飲んだりしてるから、じいやが心配したんだ」

 私は両手で頬を左右に引っ張り上げる。表情を押し延べるように。

 カガミさんが笑う。

「あたしが死ぬのがそんなに悲しい?」

「酒が飲めなくなるのが嫌なんです」

「彼氏に頼めよ」

「あらゆる嗜好品と無縁の人なんですよ」

「つまんない男」

「そういう清いところに惹かれたんです」

「それで自分も身綺麗になったつもりか?」カガミさんは鼻を鳴らす。「ダメダメ。あんたは所詮〈こっち側〉の住人だよ」

「カガミさんが引きずり込んだんでしょう」

「いや、あんたには元々素質があった。あたしは飽くまできっかけを与えただけ」

 入所して間もない私の前に酒をちらつかせたのはカガミさんだ。ファーストコンタクトは彼女の方からだった。施設では数少ない同年代ということもあって、私たちはすぐに打ち解け合った。もう二度と口に出来ないと諦めていたアルコールに心を惹かれたこともないではないが、彼女が私の胸の隙間に身を滑り込ませてきたのは確かである。

 カガミさんが呟く。

「あたしもあんたも、地獄の住人」

「天国行きは絶望的ですね」

 私は手を出したが、カガミさんはスキットルの蓋を閉める。

「今日はもうおしまい」

 そう言う彼女の頬はいくらか紅い。私も顔が火照っている。冷たい秋の風を、心地よく感じる程度には。

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