8 あの日②
***
走って足音をたてる訳には行かない。けれども出来うる限りの早さで図書室に向かう。もうホームルームは始まっている。
あの日から、それが私の日課になった。
ホームルームはサボっても単位には関係ないと知っていたし、遅刻欠席がほとんどないので進学に対しても影響はない。
市井先生を準備室から見かけたあの日。それ以来先生の姿を眺めるのが日課になっていた。まだ担任を持たない先生は、大抵その時間机に向かって事務作業をしている。
窓に面しているわけではないので、私の方から見えるのは横顔だけで、しかも気づかれるわけにはいかないので正面から覗くことも出来ず、結局図書室から斜めに眺めるだけになる。
準備室からならもっとよく見えるのに。そう思っても堂々と見る度胸はない。だいたい、何故ここまでして先生を見に来ているのか、それすら自分でもわかっていないのに、そんな大胆さを発揮出来るはずもない。
誰もいなくて静かな図書室は思いの外快適だ。私は一番窓側の席に陣取って適当に持ってきた小説を開く。ここならきっと先生に私の姿は見えない。
時折背伸びして教務室を眺める。
缶コーヒーいつも飲んでるな。あ、今日は眼鏡外してる。結構格好いいんだなんて、自分だけの発見に悦に浸る。
普段固く閉ざされている外皮をじわじわと剥がして、中にある甘み溢れる果実を食べたときのような恍惚感を味わうために。
気をつけてはいても時折目が合って。照れたように会釈してくる先生はきっと、私があのときの生徒だって分かっている。私も会釈を返す。知らず微笑みながら。
冬休みの間、部活にきても先生はいなかった。確か運動系の部活の副顧問をやっているはずだからグラウンドに出ているのだろう。それを見に行くことはなかった。
私は、私だけが知っている先生を大切にしていた。皆が知る先生には興味などない。
などといってもそれは建前に違いなかった。いつの間にか欲求は膨らんでいて、教務室以外の先生の姿も目に焼き付けたいと思うようになっていた。けれども私だけは皆が知らない教務室でリラックスしている先生の姿を知っている。それで十分だとも思っていた。
これはきっと、私たちの年頃の女の子がかかる流行病に違いないのだ。一番身近にいる年上の異性。普段は堅く、いかにも教師然とした先生が見せた余りに子供っぽい行動。そのギャップにきっと勘違いをしてしまった。親近感を持ってしまった。
見えないことは分かっているのに、部活の最中ですら私は窓際の定位置を誰かに譲ることはなかった。
「作倉さん、何でいつも一人でそんな隅っこにいるの」
部長の澤田君にいぶかしむように聞かれても。
行動を起こしたのは私からじゃない。
「地図ってどこにあるか分かりますか」
先生からだ。
準備室から教務室を初めて見たあの日からすでに半年が経とうとしていた。
ホームルームがまだ終わらない、しんと静まり返る図書室の中。今日は教務室に目当ての姿が見えず、それでも何となく諦めきれずにいつもの場所に腰を下ろそうとしたときに壁際の理科年表の並びの雑さが目に入って、一冊を手に取ったら止まらなくなった。
「埃すごい」
けほけほと時折咳を漏らしながら作業に集中してしまった。ホームルームをサボってまでここに来た意味がなくなってしまうのが不安だったのかもしれない。変なところで生真面目な自分がおかしい。
重い便覧を抱え、脇に退かし、棚の埃をティッシュで拭き取る。今度は順番を揃えながら抜き出した書籍を元に戻していく。
整理整頓は、始めるまでは億劫でも片づいていくにつれて達成感を伴って楽しくなってくる。たまにはこういう日があってもいいかと割り切れてきた頃、背中から声をかけられた。
初めて、まともに先生の声を耳にした。
いつも図書室から見ていたから、きっと勘違いしているんだ。初めてまともに対峙した先生は、少し困ったように微笑んでいた。私は床に置いた本を取ろうとしゃがみ込んだ、そのままの姿勢で先生を見上げていた。
「確か書庫の方にあったと……」
思いますと続けようとしたが、そちらを見ず私に視線を向けたままの先生に気がついた。きっと書庫の位置を知らないのだ。
「すいません、忙しいですよね」
苦笑と共に顔を背け目を泳がせる先生は、私が最後まで言わなかったせいで迷惑がっていると思たのだろう。慌てて本と棚にしまい立ち上がる。まだ順番がめちゃくちゃだったけれどもう気にならない。スカートの埃を叩きながら
「こちらです」
先に立ってカウンターの方へ向かった。後から先生の足音がコツコツと追いかけてくる。その規則正しい音色に、私の心拍は乱れ駆け足になっていく。
初めて言葉を交わした。もっともこの程度のものが、会話といえるのかどうかは分からない。しかし今まで姿を見るだけだった人と言葉を交わすというのは思っていたよりも緊張した。
たった十五分のエスケープ。束の間の時間だけれど、
本に囲まれたこの空間に一人きりでいつも先生を見ていた。ただ、見ているだけだった。それが今、こんなに近くに存在を感じている。
書庫を兼ねる準備室は外光を遮るために薄暗い。けれども地図は図書室からの光で十分見られる位置にある。電気をつけようか迷ったけれど、扉を大きく開けて明かりを採るにとどめた。
先生は私の前を通り過ぎて地図の棚の前に立つ。遠目に見ていたよりも体は大きい。ああ、そう言えば運動部の指導をしているんだっけ。スーツ越しに見る背中は思っていたよりもがっしりとしている、とそんな風に先生をまじまじと眺めてしまっていたのに気づき、照れくさくなって指遊びを始める。
「君は二年生? 名前、聞いてもいいですか」
「三年の佐倉、です」
先生は当然のことながら私の名前を知らなかった。それどころかこちらを見もしないで発せられた問いには、正直落胆をされられた。しかし当然だとも納得できた。何度かは気づいていたかもしれないけれど、基本的には私が勝手に先生を眺めていただけなのだ。先生が私を知らなくても仕方がない。
何を期待していたのだろう。ただ見ていただけなのに、本人を前にすると何かよこしまな気持ちが生まれてしまうらしい。自嘲が漏れ、それに気づいて慌てて表情を引き締めたとき、先生がゆっくりと顔を上げた。
蛍光灯の無機質さのせいかもしれない。明る過ぎず差し込んでくる薄い光の中、先生の肌はまるで無機物のように滑らかで色がなかった。
綺麗だった。これがというものがあるのではない。若いけれど取り立てて美形というのでもない。どちらかと言えば親しみやすさを覚える柔和な造形。けれどもその一瞬、息を飲むほどに魅了された。そして思った。
嘘、みたい。
自覚するのが遅すぎる。私は先生に惹かれている。毎日たかが十五分、一方的な視線を送って、それで満足していたなんて。目の前にしたら、体温を感じたくなる。そんなことに気づいていなかったなんて。
無意識に近かった。その頬に触れてみたいと指を差し出して、しかしたどり着く前に慌てて背中に隠す。
独りよがりの行動は迷惑なだけ。それくらい分かっている。相手は教師なのだし、叶うはずのない気持ちをぶつけて玉砕する惨めさを味わいたいとは思わない。そもそも、伝えなくてもいいのだ。私はまだ、窓に切り取られる先生の姿を垣間見るだけで満足なのだから。
けれどもそう自分を納得させられるだけの根拠は呆気なく覆された。
こちらからは絶対に触れられないと思った骨張った大きな手が、私の頬を掠めていく。
「すいません」
そんな他愛もない言葉なのに、先生の表情がそれをとても意味深なものにする。男に免疫がないわけではない。だから分かってしまった。
先生は今、私と同じように私に触れたいと思っている。
カチャリと扉の開く音と、一瞬の間。それから慌てたように走り去る足音。目が覚めたように先生が私の頬を掠めた後下ろしもしなかった手を自分の髪に絡めた。
「すいません」
もう一度放たれたその言葉は、先程とは全く逆の響きを含んでいた。戸惑いとか、後悔とか、そういったものだと思う。
「案内助かりました。ありがとうございました」
結局地図に目を通すことは殆どなく、先生は図書室を足早に後にした。取り残された私は軽い虚脱感を覚えながら書庫の扉を閉め、のろのろと年鑑の整理の続きを始める。
馬鹿みたいって思った。
触れた手に大した意味なんてない。頬に埃がついてたとか、きっとそんな程度のことだった。分かっている。私の勘にはきっと多大に願望が織り込まれていた。先生の気持ちが私と同じだったのなら、たとえ誰に見られていたとしても逃げたりなんかしなかった。だからきっと、先生にとって今の行動は何の意味のないことだったのだ。
涙が出るほどの失望はない。ただ段々と人が増え始めた図書室の中、私は分厚い本を持ってしゃがみ込んだまま動けなくなってしまっただけだ。
その翌日から、時折人の視線を強く感じるようになった。
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