3 あの日①
***
初めて声をかけられたのは図書室でだった。
「地図ってどこにあるか分かりますか」
赴任してまだ二年目の先生は、たまたまそこにいた私を図書委員か何かと勘違いしていたらしい。何の気無しに見た棚の並びが余りにも乱雑だったのが気になって、つい何冊も抱えながら整理を始めてしまったせいだ。
「確か書庫の方にあったと……」
委員ではなかったが図書室を部室にしている文芸部の部員だった私は一般の生徒よりは詳しくて、だから自然と書庫に案内した。
貸し出しカウンターの後ろにある書庫は、扉に小さな窓がついてはいたものの、本の傷みを最小限に押さえるために、窓という窓にカーテンが引かれていた。
そのとき何故図書室に他の生徒や司書の先生がいなかったのかといえば、私が授業後の退屈なホームルームを抜け出してきていたからだった。私は本に囲まれたこの空間で一人きりの静かな時間を過ごすのが好きだった。たかが十五分ほどの、束の間の時間だったけれど、それは大切な時間だった。
「君は二年生? 名前、聞いてもいいですか」
先生は礼を言うと、並ぶ数冊の中から一つを手に取りパラパラとめくりながら尋ねた。手持ちぶさたな私は胸の前で手遊びをするように両手の指をせわしなく絡めながらそれに答えた。
「三年の佐倉、です」
私の言葉にゆっくりと顔を上げる、その仕草に胸が高鳴る。
ばかげている。男に免疫がないわけでもないのに。
けれども思い出した今でも同じように鼓動が跳ねる。あのときの先生は、薄い光の中、まるで生気を感じさせない人形のようだった。作りもののような美しさを湛えていた。
これがというものはない。部位を見れば取り立ててなんだと言うこともない平凡な顔。けれどもその一瞬、息をのむほどに魅了された。
嘘、みたい。
そう思ったのは目を奪われる表情のせいだけではなかった。
その象牙のような肌に思わず指を伸ばしかけ、しかしたどり着く前に気づき慌てて背中に組み直した。
なにをしているの。
自分でも分からない。ただの衝動。好きだ嫌いだなんて感情を排した、ただ純粋な欲望。
こちらからは絶対に触れられないと思った骨張った大きな手が私の手と入れ替わるようにのばされ頬を掠めていったから。
「すいません」
そんな他愛もない一言が、確かに私だけに向かって放たれた。
馬鹿みたいって思った。
そこに大した意味なんてない。直前まで普段ろくに整頓されていない棚の本を抱えていたのだ。埃がついていたとか、きっとそんな程度のこと。そんなこと分かっていたのに、あのときから、そして今も私はこうして先生に振り回されている。
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