誰かの役に。

2018年4月25日に練習で書いたショートショート。





 小さな時から不器用な人間だった。何をしても上手くいかなかったし、上手くいったと思っても、他者と比べられれば評価は決して芳しくないことがほとんどだった。


 幼稚園からずっとそれが続いて、中学まで惨めで惨めで仕方が無かった自分のことが、高校生になったある日、突然何とも思わなくなった。きっかけが何だったのか、私には分からない。体育の授業だったのかもしれないし、文化祭のことだったかもしれないし、普通に勉強のことだったかもしれないけれど、とにかく私は、私自身に対して、一切の興味を感じることがなくなった。


 自分に可能性を見出せなくなった、と言い換えることができるかもしれない。


 新鮮味に欠けてつまらないという言葉が人の口から出るように、全てにおいて変化の無い空間に人を閉じ込めると早々に気が狂ってしまうのと同じように。


 足掻いても足掻いても、全く変わることの無い自分に、私は絶望したのだろう。


 こんな話、きっと傍から聞いたら酷い話だなんて思われるかもしれないけれど、当人である私からすれば、意外と気楽なものだと言いたい。自尊心がなくなると、心に掛かる負担がほとんどと言っていいほど綺麗に無くなる。誰からも期待されていないし、私自身も期待していない。その状況を心が受け入れることで、世の中は急速にモノクロになる。痛い色、派手な色がなくなって、穏やかになるのだ。


 いいや、世界は色を失わない。私が色を拒絶するのだ。


 しかしそうなっても尚、私は大学へ進学した。灰色になってしまった、風前の灯火のようなやる気の炎に、不本意ながら薪をくべたのだ。


 自分に興味がなくなるということは、世の中の凡そ全てのものに興味がなくなるのと同意義であり、するとそんなやつに就職なんてできたものではなく、かといって熱心に勉強もできるはずがない。だから私は金さえ払えば誰でも入れる、俗に言うFラン大学というところに、親によって無理やり入学させられたのである。


 入学してから半年、私は同じような毎日をずっと繰り返していた。その「毎日」さえも私の記憶には定着せず、それなのに、新鮮だとも思わなかった。


 でも今日は、その「毎日」とは少し異なっていたのだ。


 講義が午前中で終わり、私はいつものように駅までの静かな細い道を歩いていると、途中で男性とすれ違った。この道は駅とは少しだけ遠回りになる代わりに、人通りがほぼないので珍しいことだった。もしかしたら、初めてのことかもしれない。


 だが、それが何だというのか。私は、特に足を緩めることなくいつも通りを続けた。


 しかし。


「すまん、ちょっといいか」


 ビクっと、全身が電気ショックでも喰らったみたいに反応する。


 私に自分から進んで話しかけてくる人なんて、ここ数年出会ったことがないのだ。


「は、はい」


 恐る恐る振り返ると、おそらく、先ほどすれ違った男性だろうという人物が、切羽詰ったような落ち着かない様子で立っていた。


「ちょっと手を貸してくれないか。人が倒れてるんだ」


「え、いや、その、ちょっと……」


「俺、スマホの充電切れてて、救急車を呼ぶことさえできない。頼む、携帯だけでいいから貸してくれないか」


 男性の表情は真剣そのもので、とても嘘をついているようには見えず、私が誰かに頼られているこの現実の方が、むしろよっぽど嘘のように思えた。私がうろたえていると「早くしてくれ」と男性が声を張ったので、私はほとんど思考停止状態で流されるまま、彼にスマホを手渡した。


 男性はハキハキとした口調で現状を伝えながら、どこかへ急いで向かっている。おそらく倒れている人のところへ行こうとしているのだろう。


 私のスマホを彼が持っている以上、自分もそれに同行しなければならないだろう。おそらく、彼もそれを望んでいるはずだ。


 望んでいる……? 私が同行することを?


 私は首を横に振って思考を打ち切り、慌てて彼の後を追った。


 細い路地に入って何度か角を曲がり、老いた女性が呻き声を上げながら地面にうつぶせで倒れている場所に出た。


「救急車を呼びましたから、もう少しの辛抱ですよ!」


 男性は駆け寄って大声で言うも、女性は「うぅ」としか漏らさない。


 見るからにただ事ではなく、危険な状態だということが素人でも分かった。


 私は困惑して、キョロキョロと視線が泳ぐ。動悸が激しくなり、自分までもがここで倒れてしまいそうだった。


 だって、こんなところに遭遇した経験なんてないし、私が何かできることなんて一切ないのだから。


 今すぐ来た道を戻ってさっさと帰りたい、そう思って後ろを振り返ったところで気付く。


 ここ、救急車が入れるほど道幅が無い。せいぜいバイクで精一杯だ。


 女性を大きな通りまで運ぶか、もしくは誰かがここまで救急隊を案内するしかない。今ここで自由なのは私だ。女性を一人にしてしまうのは何かあったときにマズイ。


 もう考えている暇なんて無かった。患者の運び方なんて知らないし知っていてもできないと思った私は、来た道を脱兎の如く駆けた。後ろから男性が何かを叫んだような気がしたが、私は振り向かずに走った。


 ちょうど大きな通りに出たタイミングで救急車も到着し、私は無我夢中で彼らを女性の元へ案内した。救急隊の手際よい行動で女性は運ばれていった。


 頭の中が真っ白のまま、救急車がサイレンを唸らせながらどんどん遠く小さくなっていく。私はそれを呆然と眺めていた。男性が私のスマホを持ったまま救急車乗り込んでしまったからだ。


 


 しばらくして、私はいつもの様に帰り道を歩いていると、男性と一人すれ違った。


「あの、すいません」


「……はい?」


 私は多少驚きながらも振り向くと、あのときの男性が立っていた。


 彼はポケットから丁寧に何かを取り出して、それを私に差し出した。


「これ、すいませんでした。お返しします」


「あ……私のスマホ……」


「あの人、助かったみたいです。何もかも、貴方のおかげでした。スマホが無ければ駄目したし……あの時、救急車が道に入れないことに気付いたんですよね。俺、全然わからなくて……」


 私は、彼が何を言っているのか分からなかった。


 私のおかげ……?


「いや、私、そんな大層なことはしてないと思うんですけど」


「何を言ってるんですか」男性は優しく笑った。「あの人も、お礼を貴方にお礼を言いたいといっていました。貴方がいなければ助からなかった。だから、俺からも、ありがとうございました」


 そう言って男性が頭を下げた途端、私は目の前がぼやけて何も見えなくなった。


 目頭が熱い。


 そうか、私、誰かの役に立てたんだ。私だって、何かをすることができるんだ。


 私は、男性が戸惑って慌てふためいているの無視して、ただただ気の済むままに、その場で泣きじゃくった。

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