自業自得の地獄

2018年6月13日に練習で書いたショートショート。





 一人娘の愛美の部屋には、遺書だけが残されていた。


 父子家庭で生活が苦しいこと、貧困をネタに高校で嫌がらせを受けていること、仕事で忙しいお父さんにそれを相談できなくて申し訳なかったこと。


 シンプルな便箋に達筆で綴られたそれは、綺麗に三つ折にされて机の上にポツンと置かれていた。


「こんなに丁寧な字が書けたんだな……」


 私は驚いた。それは、愛美を生んですぐに亡くなってしまった妻の書く字と、凡そ区別もつかないほど筆跡が似ていたのだ。


 仕事帰りのスーツ姿のまま、私は懐中電灯を持って家を飛び出した。遺書には、明日になったら近くの森を探してください、とある。その森に関しては大体の見当が付いていた。


 私はオンボロの中古車に乗り込んで、アクセルを踏み込む。


 早くしなければ、本当に間に合わない……。


 真っ赤に焼けた西の空が徐々に色を失っているのが分かる。それを見るたびに、ハンドルを握る私の両手には汗が滲んでいった。




 三十分ほどして目的地に着き、車を道路の左端に止めた。この付近は人も車も全く通らないし、街灯が並ぶ間隔も随分と疎らだった。だから、漂う不気味さは尋常ではなかった。


 ……しかし、それが何だというのだ。


 懐中電灯を右手に車から降り、左手に広がる森の方へ体を向ける。


 日が落ちて黒いシルエットと化した森の中へ、私は足を踏み入れた。


 頭上を覆う葉のせいで、ほんの数メートル先でさえも暗闇に包まれているが、如何せん地面の凹凸が激しく、懐中電灯は足元を照らすために使うしかなかった。でなければ一歩歩くごとに転びそうになるだろう。


「愛美ー!」


 声を張っても、返って来る言葉は無い。音は木に吸収されて、聞こえてくるのは葉のさざめきや虫の鳴き声ばかりだ。


 足元を照らし、歩き、叫ぶ。この繰り返しは、そろそろ中年の肩書きが付く私にとっては相当酷なものだった。既に息が上がっており、体力の衰えを実感していた。


 それでも疲れを抑えて足を動かす。


 しかし、しばらく歩いたところでふと気になり、後ろを振り返ってみた。


 目は暗順応しており、うっすらと木の幹や葉が見えるだけだ。首だけを動かして辺りを見渡してみても、その景色は変わらなかった。


 ここからでは、道路沿いの街灯の明かりさえも見えないのだろうか……?


「まずいな……」


 焦りはしたが、すぐに自分の身のことなどどうでもよいと考え直し、首を戻そうとする。


 途端。


 ――ザッ。


 明らかに不自然な音――まるで人が枯葉を踏みしめたような音――が正面から、それも割と近いところから聞こえた。


 咄嗟に懐中電灯で前方を照らす。少し先にある枝が微かに揺れていた。


「愛美!?」


 叫んで、何度も足をつまずきそうになりながら駆け寄り、辺りを懐中電灯で照らしてみた。しかし、人の姿はどこにも見当たらない。


「愛美! いるんだろう? 出てきてくれないか! 父さんと一緒に帰ろう!」


 返事は無い。


「頼む、答えてくれ! 愛美がいなくなったら、父さんは……父さんは……っ!」


 叫んでも、応えはやはりなかった。穴の開いた風船のように、一気に力が抜けていく。


 もう、駄目なのだろうか。間に合わなかったのだろうか。


 そんなネガティブな思考が頭を埋め尽くしていく。


 ああ……もう。


『ヤメテ』


「――!?」


 体が反射的に強張った。


 誰の声だ? どこから聞こえた? 


 それすらも、分からない。


 忙しなく懐中電灯を動かしてみても、見えるのは枝や葉っぱだけ。


 背後に強烈な気配を感じ、勢い良く振り返るも、やはり誰もいない。


『ユルサナイ』


 まただ。声の発生位置が全く分からない。全方位にスピーカーがあるような、そんな感覚に近かった。


「な、何だ! 誰だ!」


 私の声に対しては何も言ってこない。私に話しかけているわけではないのか?


 すると少し先に、白い衣服を纏った女性がぼんやりと現れた。


 彼女は私に背を向けて、どこかへ歩いていく。


「ま、待ってくれ!」


 私は彼女を追った。走って追った。彼女の移動速度は速かったのだ。


 随分と走った後に、私は急に気が付いた。


 なぜ、暗闇の中で人がいると分かる?


 どうして、懐中電灯の光を向けなくても、彼女が見えるのか。


「……いや、ありえない」


 そんな不可解なことがあってたまるかと、私の頭は目に見えたものの存在を拒んだ。


 けれども、首を左に回して見えた光景の方が、よっぽど目を疑うものだった。


 誰かが、首を吊っていた。見たところ、十台の女子。制服姿。


「ま、なみ……?」


 脳が現実を拒もうとする。だが、拒みきれていない。じわじわと、それが、首を吊っている少女が自分の娘であるという認識が、頭の中に広がっていく。


「そんな、嘘だ……」


「嘘じゃありません」


 突然、後ろから声を掛けられた。


 もう訳が分からないまま振り向くと、そこには先ほどの女性が立っていた。


 それは、死んだはずの妻だった。


 私が、この手で殺したはずの、妻だ。


「なんで……」


「愛美は始め迷っていたけれど、私が真実を話したら、簡単に首を通したわ。貴方が私を殺したことを伝えたら、すぐに人が変わったようになってしまった……。けれど、後悔は無い。貴方の元で暮らすより、私と一緒に上で暮らしたほうが、よっぽど幸せだもの」


「なぜ……なぜ生きている!?」


「いいえ、生きていません。私はあの時……貴方の浮気が発覚した日に、貴方に首を絞められて、確かにこの世を去りました。


 ……貴方にはもう、大切なものなんて一つもない。この事実だけで、私は満足です。どうか、地獄に堕ちてくださいますよう」


 そう言って妻は消えた。森に私と、娘の亡骸を残して。


 悲しかった。けれど、涙が流れているのかどうか、私には分からなかった。


 視界が歪み、だんだん白く、塗りつぶされていった。

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