言語統制
2018年7月4日に練習で書いたショートショート。
天井は高く、床も広い。穢れを知らない純白の空間。
巨大な円筒の形をした開放的な部屋にはキーボードを叩く微かな音だけが響いており、それ以外に不純物は一切存在していなかった。天井は一面全てが照明で、壁にも等間隔に設置されている。従って、この空間には影になる部分がほとんどなかった。
何もかもが洗練され、洗い落とされ、無駄が無い。
もし無駄があった場合には、きっと即座に切り捨てられるだろう。
それはまるで、現代における監視社会――言語統制を体現しているようにも思えた。
イオタは背筋を九十度に伸ばして椅子に座り、中央に置かれたデスクで三つのディスプレイと対峙していた。それらは恐ろしい速度でスクロールされていくスクリプトと、大量の単語が羅列している辞書とを映し出している。床の下で常時稼動している巨大なスーパーコンピューターが行なった演算結果を出力しているのだ。
突然、ディスプレイに「殴る」という文字が表示される。
次いで、その「殴る」という単語が持つ意味によって起こりうる全ての現象がリストアップされた。中にはリアルレンダリングで再現された3DCG映像もあるなか、イオタはそれら一つ一つにしっかりと目を通していく。
やがて全てを確認し終えたイオタは、深い息を吐くと同時に呟いた。
「これは……削除だ」
削除するかを問う選択肢が現れて、イオタはイエスをクリックする。
すると警告文が表示され、それもイエスを選択すると、最終確認が出てくる。それに対してイエスを選択することで、削除を実行することが出来るのだ。
イオタはこの執拗な警告文にうんざりしたことは一度もなかった。それぐらいの確認が必要な作業なのだと、重々理解しているからだ。
とうとう最後のイエスにカーソルを合わせ、クリックする。
その途端、ディスプレイに表示された辞書に書いてある「殴る」という単語がデリートされ、空いたスペースが順に詰められていった。
たった今この瞬間から、この国の人間は「殴る」という単語と、そしてそれが持つ意味についての一切を、脳の認識から除外させられたのだ。
唐突に、ディスプレイに付属しているスピーカーからピーピーと電子音が鳴り響く。
それは勤務終了の合図だった。
イオタはその部屋を後にして帰宅の準備を始める。イオタが勤めている会社は政府直属の監視会社であり、今後の未来を大きく担っているといえる超巨大企業だ。
白を基調としているのはあの部屋だけでなく、会社全体がホワイトカラーだった。
そんな真っ白な会社も、夕日色には染まる。
「イオタくん」
橙色のエントランスで、背後から声を掛けられる。その声色は平坦で事務的だ。
「はい」イオタは振り向く。「あ、シグマ先生」
「お疲れ様。今日もご苦労」シグマは無表情だ。
「お疲れ様です」
シグマという男は、この国の最高指導者で「非情な指導者」という半ば不名誉な名で一時期では呼ばれていた。イオタの現在の職はシグマ直々による指名であるため、イオタは彼にとてもつもない感謝の意を抱いていた。……最近までは。
「今日はもう、ゆっくり休んでくれたまえ」
「ありがとうございます」
イオタは一礼した後シグマに背中を向け、扉の方へ歩みだす。
「イオタくん」
「なんでしょう」イオタは足を止めてもう一度振り向いた。
「最近、変わったことはなかったかい?」彼の表情に変化は無い。
「変わったこと……?」
「いや、なければいいんだ。では」
シグマはそう言って踵を返し、どこかへ去っていく。その背中を眺めながら、イオタは密かに汗を伝わせていた。
「で、今日は何の単語を削除したんだ?」
「『騙す』と、後は……『殴る』」
「そいつはまた大した単語を消したな」
そう言った彼は、イオタの自宅に居候している謎の人物で、名をオメガという。
「アンタに会わなかったら、僕も今頃どんどん馬鹿になっていた」
「本当の馬鹿はシグマの野郎だがな」オメガはどこからか煙草を取り出して火をつけた。「『悪』の単語を消せば、本当に平和が訪れるとマジで思ってんだから、感心するぜ」
「核戦争が起こる前と比べて、今の社会はどう見える?」
「……酷いもんだ。確かにあの頃は社会全体が悪意に満ち溢れていたが、だからと言って人間から『悪』という概念を取ってはいけない。……それは絶対に駄目なことだ」
オメガは大きく息を吐いた。イオタの目の前を煙が占領し、それをしっしと手で払う。
「なぜ駄目なんだ?」
「そんなもんも分からないのか」オメガは鼻で笑い、煙草を吹かした。「窓の外を見てみな」
今まで椅子に座っていたが、オメガもイオタも立ち上がり、窓辺に立つ。
「で、何があると?」
「あれを見ろ」オメガは指を差した。「もう単語を消した影響が出ている」
そういった先では、小さな男の子と女の子がなにやらじゃれ合っているようだ。
「遊んでいるだけじゃないか」
「お前の目は節穴か?」
腹が立ったが、落ち着いてもう一度目を凝らしてよく見てみた。
「なっ!? あれは……」
「気が付いたか」
あれは、じゃれ合いなどではなかった。男の子は先ほどから女の子の顔面に何度も拳をぶつけているし、女の子も負けじと同じようにやり返していた。
要は、加減の無い殴り合いだ。
しばらく眺めていると、二人の足取りがおぼつかなくなっているのが確認できた。
「つまり、あれは……どうなってるんだ?」
「『殴る』という単語が存在しなくなった彼らにとって、あの行為は、おそらく『触る』だ。彼らの中では『触っている』……つまり触るだけなら『悪』ではないわけだ」
「なんてことだ……」
イオタは唖然と口を開くことしかできなかった。
「『善』と『悪』は表裏一体……。『悪』を消せば、同時に『善』も消える。『善悪』の判断がつかなくなった人間はやがて、獣か、機械のようになるだけだ」
オメガはおもむろに窓を開けて、吸殻を外へ投げ捨てた。
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