第5話 視線
紅蓮の朝は一杯の水を飲むところから始まる。
毎朝10㎞のロードワークに、砂利の上での拳立てふせ(腕立て伏せを拳を握ってやるトレーニング。拳を鍛える効果がある)500回、腹筋500回、スクワット500回のウォーミングアップを終えた後、再び一杯の水を飲み、麻縄を巻いた樹木への打撃の稽古を1時間。それが終わってようやく本番、仮想敵とのシャドートレーニングを始める。
シャドートレーニングとはイメージの中で敵の姿を思い浮かべ、その影(シャドー)と戦うことで、対人戦の感覚だけでなく、格闘家として必要な想像力を磨くことのできる重要な練習法である。一流の格闘家がこれを行った場合、挙動を追うだけでまるでその格闘家が思い浮かべている敵の姿がそこにあるような錯覚に陥るという。
それが紅蓮ともなると、
「ひゃぁ!? ドラゴン!? って、あれ?」
通りかかった新人女中の獣人種、リラが悲鳴を上げて尻もちをつく。
だが、よく見るとそこにいるのは紅蓮一人である。ドラゴンの姿はどこにもない。そのはずなのに、紅蓮が動くたびに、まるでそこに本当にいるかのようにリアルにリラの目にドラゴンの姿が映った。
紅蓮がドラゴンのテイルスイングを飛んで躱し、空中で放った彼の蹴りがドラゴンの首を掻き切ったその瞬間、リラの目に映っていたドラゴンは霞のように消えてしいまった。
「? ああ、すまない。驚かせてしまったな」
「い、いえ。あの、今のは一体」
口をパクパクさせながら訊ねるリラ。あまりの出来事に犬耳と尻尾がしゅんと垂れてしまっている。
「鷹の階級に上がれば魔獣と戦う機会もあるらしい。だから今のうちにそういった相手との戦い方を身に着けておこうと思ったんだ」
「はあ……。とすると、今のは幻覚魔法でドラゴンの姿を作っていたのですか?」
「幻覚魔法? 俺には魔法は使えないが」
「はえ?」
困惑するリラ。
だが、確かに今さっきまでドラゴンの姿がそこにあったはずだ。
それによく見ると、庭のあちこちに戦場のような跡があり、紅蓮の体のいたるところに怪我や血の跡がある。
(……どういうことなのです?)
理解を超えた状況に頭がついていかない。もしかして、自分の学がないためにこの状況が呑み込めないのだろうか?
「どうにも集中し過ぎると周りが見えなくなってな。俺の悪い癖だ。今度からは気を付けよう」
「???」
噛み合わない紅蓮の言葉に、結局リラはその日一日頭を悩ませることとなった。
~~~~~~~~
「見られている気がする?」
「ああ」
午後は山の中でのロードワークと滝行。親指だけを使った逆立ちで1km歩く。最初は町の中でやっていたが、あまりに目立つのでやめてほしいとミーシアに怒られたため現在では庭の中をぐるぐると回り続けている。ちなみにたまたま通りかかってその姿を見てリラが本気でドン引きしていたことを紅蓮は知らない。
そんな感じで午後の練習が一区切りつき、柔軟体操をしていたところ、ミーシアがタオルと水を持ってきてくれた。そして、冒頭の会話に戻る。
「ミーシアにはなにもおかしなことはなかったか?」
「私の方は特に何もなかったわよ。というか、視線とか私に言われてもわからないから」
「む、そうか」
紅蓮は思案する。恐らく視線の相手は昨日感じたものと同一だろう。最初はバーラットを付け狙っているのかと思っていたが、それであれば紅蓮を執拗に監視する必要はない。
(とすると、相手が狙っているのは俺か?)
「心当たりはないの?」
「…………………………」
「……ああ、ごめんなさい。恨み買うようなことばっかりだものね。貴方」
魔闘士というのは良くも悪くも目立つ。奴隷でありながら人の称賛を受け、場合によっては並みの平民よりもいい暮らしをしている者もいる。そのため魔闘士に集まるのは憧憬だけでない。嫉妬や逆恨みもそれ相応に集まってくる。ましてや紅蓮はそのスタイルから魔闘士の中でも特に目立つ存在のためなおさらだ。
「とにかく、俺はいいがミーシアが狙われることもあるかもしれない。くれぐれも気を付けてくれ」
「私みたいな奴隷さらってどうするっていうのよ。ま、忠告だけは聞いておくわ。ありがとう」
そう言ってさらりと髪と尻尾を揺らしながらミーシアは立ち去ろうとして、「ああ、そうだった」と立ち止まる。
「これ、あなたに手紙よ」
「果たし状か?」
「なんでそうなるのよ……。食事のお誘いよ。ちょっと意外な相手から」
手紙を受け取る。几帳面に封をされた封筒の宛名には「セルウィン・マグニエル」と書かれていた。
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