第3話

 薄っすらと目を開けると、もう何十年も見ている天井のシミが視界に入った。朦朧とする意識の中で、ゆっくりと頭を上げて部屋を見回した。いつにも増して、気怠い。頭の上の床を手で撫でる。なかなか、スマホの感触が伝わってこない。

 いつも以上に頭が冴えないのは、きっと昨夜見た夢のせいだ。あまりにも、リアルな夢を見た。思わず吹き出してしまう。夜中に突然子供がやってきて、一億円で十年時間を戻すと言い出したのだ。時間を戻すという異世界転生並みの現実逃避だ。願望が、とうとう夢にまで現れるようになってしまった。

「あ! やべっ! 仕事!」

 布団に手をついて、起き上がろうとした時、クシャッという音と共に、右手に違和感を覚えた。右手に視線を向けると、息が止まり瞳孔が開いたのが分かった。

 右手の下に、数枚の一万円札が散らばっている。大慌てでスマホを探すと、テーブルの上に置いてあった。もう確認するまでもなかったのだが、念の為にスマホの画面を見た。四月二日と画面に表示されているが、何年なのか分からない。スマホを操作し、愕然とした。

「・・・本当に、十年戻ってやがる」

 もう疑いようがない。懐かしむように、昔使っていた古いスマホをいじる。それから、部屋の中も念の為確認する。もしかしたら、時間を戻した連中が盗撮や盗聴をして、監視しているのかもしれない。しかし、すぐに思い直して諦めた。時間を戻せる奴らが、わざわざ機械に頼るとも思えない。部屋の中は、驚く程変わっていない。時間が戻った実感がまるでなかった。そこでようやく、洗面所へと駆け込み鏡を覗いた。そこには、見覚えのある若いイケメンがいた。そう、十年前の俺だ。シャツを脱いで鏡を見ると、引き締まった体が眩しかった。ストレスで暴飲暴食を繰り返し、ニ十キロほど太ってしまった醜い体ではない。顔の皺も白髪もない。すると、腹の奥の方がむず痒くなってきて、我慢できずに爆笑した。こんな奇跡が本当に現実で起こるものなのか。この奇跡の代償が『十年で一億円の返済』だ。

 俺は、未来の出来事を知っている。未来予知なんていう曖昧なものではなく、未来知識だ。まずは、記憶が薄れる前に、未来の出来事を紙に書き記しておく。完璧な未来設計図を描きておこう。

 大学で使用しているノートをテーブルに広げた。ペン先を紙に置いた時に、突然部屋にチャイムの音が鳴り響いた。大袈裟に体が反応して、反射的に玄関へと顔を向けた。暫く、茫然としていると、何度もチャイムを鳴らされた。息を飲んで、玄関ドアへと忍び寄る。のぞき穴に片目を持っていくと、そこには女性が立っていた。小さな男の子ではなく、心底安心した。やはり、なにかの手違いだったと言われたら堪らない。ゆっくりとドアを開けた。

「もう! 寝てたの? おはよう、道明」

 若い女性が、少し膨れた後に、満面の笑みを浮かべた。彼女の顔を見て、思わず息を飲んだ。驚く程可愛い若い女性だ。茫然と見とれてしまっていた。

「ん? なに? 中に入れてよ」

「な、中に入れる?」

「部屋の中! ・・・もしかして、浮気でもしてたの?」

「い、いや、してないしてない! 部屋の中ね! あ、はい、どうぞ」

 浮気を疑われても言い訳のしようのない程、驚き戸惑ってしまった。そもそも、この子は、誰なんだろう。まるで、記憶にない。こんなにも可愛い子を忘れるはずがない。しかし、学生当時の彼女の事を思い出そうにも、ほとんどの顔が出てこない。それもそのはずだ、当時は彼女をとっかえひっかえしていた。元カノの事なんか、いちいち覚えていない。

「ねえ、今日は買い物に行くんだから、早くして。約束、覚えてる?」

「あ、はい、買い物ね。覚えてます」

 十年前の約束なんか、覚えている訳がない。彼女は、万年床の布団の上に座り、ジッと俺の事を見てきた。

「どうして、敬語なの? 怪しいなあ」

「え? ああ、ごめん。寝ぼけてるだけだよ」

 なんとか、冷静を装って、彼女のそばに歩み寄る。こんなにも可愛い子が、俺の部屋にいるなんて、合成のようだ。まるで、現実味がない。先ほどからずっと、心臓が激しく脈を打っている。女の子と会話する事が、久し振り過ぎて口が上手く回らない。身振り手振りを交えてなんとか説明すると、彼女は次第に笑い出した。説得が通じたというよりも、俺のテンパり具合に可笑しくなってきた様子だ。

「もう分かったから、早くして」

 笑った顔から覗く八重歯が、彼女の可愛らしさの演出に一役買っている。とにかく買い物に付き合う為に、早く着替えなければならない。すると、彼女が俺の足元に座り直し、ズボンを脱がせてくれた。こんな贅沢な経験をしていたとは、自分の事ながら許せない。俺を見上げる彼女を見つめていると、彼女がパンツまでも下ろし始めた。

「え? え? え? な、なに?」

「なに? じゃないよ! 今日は買い物に行きたいの! 急いでるの!」

 下ろされたパンツを履き直そうとすると、彼女に止められた。

「だから、早くして! いつも、してからじゃないと、なにもやる気でないって言ってるじゃん!」

 俺は仁王立ちのまま、彼女を見下ろしている。本当に俺の人生に、こんな夢のような出来事があったのだろうか。

 色々とやる事は、沢山ある。十年で一億円を稼がなければならない。だけど、折角だから、今はこの瞬間を楽しもう。まだまだ、時間的猶予は残されているのだから。

 まずは、俺の下で懸命に動いている彼女の名前を、思い出す必要がありそうだ。

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