夕立ち、小焼け、またあした。

ARuTo/あると

短編

 夏の夜明け。空を見上げる。


 東の空がまるでパレットで混ぜた水色と橙の絵具のように淡いグラデーションを描いていた。


 今日は友人と街巡りをする予定である。慣れない早起きをし、こんなにも朝早く身支度を済ませ、今こうして自転車のサドルに跨っているワケだ。


 早起きは三文さんもんの徳と言うがこれもあながち間違いではなかろう。遠方へ向かう通勤・通学者は毎日こうした空を飽きるほど見ているわけだが、僕にとってこの空はまた違う世界に見えて、ほんの小さな幸福を感じるのである。


 僕は勢いよくペダルを漕ぐと、早朝の涼しげな風を切りながら自転車を走らせた。


 ♢ ♢ ♢


 信号待ち。


 グリップを握った片方の手でピアノの鍵盤を叩くような指遊びしていると、道路を挟んだ向かい側に自転車に乗りながら手を振る友人の姿があった。信号が青になるが否や、その手を止める事なくそそくさとそいつはやってきて、


「おせーぞ優人ゆうと。朝っぱらから呼び出された俺の身にもなってくれよ」


 と言った。


 僕は語気を強める事なく、淡々と答えた。


「約束は昨日からしていただろ。大体、行きたいと言ったのは二美つぐみの方じゃないか。何故、こちらに非があるような言い方をするんだ」


「あれぇ〜そうだっけ?まあ、それはそれとしてぇ……早く行こうぜ!」


 二美は白々しい声を出しながらおどけてみせた。お調子者が取りの二美は会う度にふざけた奴だ、と思うのだが不思議と嫌気がさす事もなく、かれこれ幼稚園からの付き合いである。


 生茂る木々の脇道を通った。柵を越えた真下には玉川上水たまがわじょうすいが流れていて、濁る川底に対して水は綺麗だった。枝葉の隙間から射す木漏れ日を全身に浴びながら、目的もなく走らせる自転車が実に心地良い。


「そういや、何でこんな朝っぱらから行こうと思ったんだ?」


 前を走る二美に僕は声をかけた。


「そりゃ、暑くなるからに決まってんだろ。日中を走った日にゃ、そりゃもう熱中症で救急搬送だよ」


 二美は前方に顔を向けたまま冗談めかしてそう言う。


 意外だ。長い付き合いではあるがこやつに気遣いという三文字が存在するとは。案外、利口な奴なのかもしれん。


 二つほど横断歩道を越えた先で二美は右へ曲がった。僕も追従する形で曲がると二美は自転車を留めて、なにやら興奮した様子で橋の下を覗き込んだ。


「おい、優人見ろよ!こいがうじゃうじゃいるぜ!こりゃ〜凄いや」


 透き通る水面下には黒々した鯉がまるで編隊を組むようにゆったりと泳いでいた。近隣に住んでいるというのに、よくもまあこんなにはしゃげたもんだ。


「別に珍しいことじゃないだろ。なんなら年中見れる」


 僕は興味なさそうにして素っ気なく答えた。顔を見るに、二美にも何か言い分があるようだ。


「いくらなんでも年中は言い過ぎだな。それより、知ってるか?鯉は仲むつまじい様子からって名付けられた説があるんだぜ?」


 二美は得意げに鼻を鳴らした。全く、こいつは。妙な知識だけは豊富なようである。


「なるほどな。道理でが寄り付かない訳だ」


 川底を見やると、僕達の影に驚きでもしたのか、鯉は端々へ散らばっていった。


 二美は羞恥しゅうちして耳元を赤くした。そして、また言い返してきた。


「うっ、うるせぇなっ!鯉は寄り付かなくても、幸運は俺に寄り付いた事があるんだからな!」


 僕は「へぇ〜」と半ばあざ笑いながら、お手並み拝見とばかりにその幸運とやらを聞いた。すると二美は息を呑むような緊張感で呟いた。


「……川蝉かわせみを見た」


「え?聞き間違いか。せみじゃなくて?」


「何処をどう間違えたら蝉に聞こえるんだよ。鳥だよ鳥。水鳥の」


 にわかには信じ難かった。こんな山奥でもない都心の外れに、長いくちばしに青く美しい羽と橙の腹を備えたある種、非日常じみた鳥が存在していることなど。


 僕は疑念の目を向けながら聞いた。


「こんな泥水近くで見たってのか?あの川蝉を」


「だから、見間違えじゃないって。水面近くの垂れ下がった枝に確かにとまってた」


 川蝉。あれ程、煌びやかな姿をした鳥だ。山岳の上流にいるならまだしも、こんなにも身近な場所にいるなんてとても想像できない。


「どうだか……」


 僕は懐疑的かいぎてきな声を漏らしながらも、周囲の木々を見ようとした。が、辞めた。足早に自転車のスタンドを上げて、二美を待たず走りだした。


「ほら、こんなとこで寄り道してたら日が暮れちゃうぞ」


「あっ、おい待てよー!優人ぉー!」


 二美に一枚取られるのが嫌だったからだ。


 ♢♢♢


『今日の最高気温は36度。真夏日となるでしょう』


 テレビから天気予報の音声が聞こえてくる。


 街巡りをほどなく終えた昼下がり。僕達は昼食を取る為、一度それぞれの家に帰った。


 コンビニで買い食いするというのも一つの手ではあったが、いかんせん費用がかさむ。ならば弁当でよいではないかと思われるがこの真夏日だ。食中毒を起こす危険性がある。結果として母親が作り置きしておいた冷やし素麺そうめんを食すに至った。


 透明な器に入った麺を箸で丁寧にすする。氷塊はカランコロンとつゆの中で清涼せいりょうに響き、体温が冷やされるのと同時に安堵あんどした。彼の言った通り、この暑さで走れたものではないと痛感する。


 窓辺のカーテンがそよ風に揺れた。その隙間から素数蝉そすうぜみの大合唱が伝えられると、程なくして受話器が同じように合唱し始めた。慌てて席から立ち上がり、受話器を耳元にあてた。軽快な声音が早くも再開を合図した。


 ♢ ♢ ♢


 烏の声が遠く高く響き渡ると、いかんせん日暮れの合図と捉えてしまう。哀愁あいしゅうに浸ろうとこぐ脚を緩めると、不思議に思ったのか後方を走る二美が追い上げてきて、提案を持ちかけてきた。


「なあ優人。このまま終わるのもなんだか味気ないし、ちょっとしたご褒美タイムといかないか?」


 僕は怪訝けげんな表情で返答した。


「ご褒美タイム?」


「ああ。取り敢えず俺に着いてくればわかるから」


 そう言って二美は僕を抜き去り、帰路とは別の道へ走り出した。おいてかれまいと、僕もそれに続いた。


 舗装された歩道を抜け、八百屋を横切ると途端に香ばしい匂いが鼻孔をついた。出どころは橙のひさしがついた民家のようで二美もそこ指差して追従を促している。


 脇に自転車を留めていざ店前へと至ると、ひさしに書かれた【ふるさと】という文字が飛び込んできた。


「懐かしいな……小さい頃、よく買いに来た団子屋だ」


 思わず声に出して感嘆かんたんしてしまった。


「正確には駄菓子屋だけどね。優人は暫く来てなかったみたいだけど、俺は塾帰りとかにちょいちょい寄ってるから」


 二美は常連客とばかりに口角を上げた笑顔をみせ、「おじさん!みたらし二つ!」と元気よく店員に声を掛けた。団子が紙に包装される間、少しばかり世間話を持ちかける所は流石と言っていいだろう。


「はい。冷めないうちにね」


 温もりのある声音が届けられると、二美に二つの串団子が優しく手渡された。


 横断歩道を一つ越えた先には公園がある。僕達はそこで食べる事にした。手短なベンチに腰を下ろし、二美に感謝を述べた。


「ありがとな。奢って貰って……なんかすまない」


 既にほふほふと団子をほうばっていた二美は気にするなとばかりに僕の肩を軽く叩いた。


 食べ終えて、しばしの事。


 未だ公園の大樹には素数蝉が大合唱を繰り返している。それは夕暮れのひぐらしに主役を渡すまいとする頑固さのようにも聞こえた。


 手持ち無沙汰ぶさたに空を眺めていると突然、二美の携帯がピロロと鳴りだした。二美はズボンのポケットから携帯を取り出すと、忙しなく通話し始めた。悪い話でなければいいと願う。


「……ああ、わかったよ。それじゃ。……ごめん優人!俺、今日、塾あるのすっかり忘れてたわ!残念だけど、また今度な!」


 そう言って、さっさと自転車に跨るなり走り去ってしまった。


 全く、僕の好感度を上げた矢先にこれである。


 お調子者で何処か抜けている。そんな大親友。突然の終わりだが、奢って貰ったのだ。文句が言えないのもまた確か。


 団子の串を捨てようと、公園のゴミ箱を探した。すると、空から雨粒がぽつりぽつりと降り始めた。


 不運に拍車をかけるように、夕立ちに見舞われる始末である。前言撤回。やはり最悪だ。まるで僕が一人になるのを待っていたかのように、天は容赦なく雨粒を打ちつけ始めた。俗に言うゲリラ豪雨というやつだ。


 僕は頭を両手で覆いながら、急いで辺りを見回した。雨宿り出来そうな場所は皆無。


 こうなれば無理やりでも帰る他ないと、自転車に戻ろうとした。その時であった。公園の隅にある木の橋の上に、人影を見つけてしまったのだ。その風貌はどうにも不自然であり、無視する事のできない容姿を兼ね備えていた。


 長く艶やかな黒髪に紺色のセーラー服を着た少女。全身をずぶ濡れにして尚、立ち尽くしていたのである。


 身惚れたのか、それとも神秘的な雰囲気に惹かれたのか。気がつくと僕は、少女の目の前まで足を運んでしまっていた。


「……寒くないの?」


 僕がその第一声を放っていれば格好もついたんだろうが、それは少女から向けられたか細い声だった。突然の事で僕はしどろもどろに答えた。


「いや……寒くない。君こそ……」


「さむくない」


 僕が言い終えるのを待たずに、彼女は尻目で答えた。背丈は僕と対して変わらないのに同年代には見えなかった。降り頻る雨という状況下の中、少女の存在は非常に危ういものがあった。


「青くて橙色。見たことある……?」


 少女は顔を合わせる事なく、そんな抽象的な言葉を口にした。何処か遠くを見つめながら。その瞳は黒く透き通っていた。眼差しが僕を捉える事は無いのだと分かっていた。それでも僕はこの子の視線を追った。


 雨の粒子が一際大きい波紋を広げた時、


 僕は目を見開いた。


 曇天の隙間から差す遮光しゃこうがただ一点を照らしていた。小川に垂れ下がる枝葉に、宝石のような羽衣を着た、青くて橙色の鳥が鎮座していたのである。


 息をする事さえ忘れ、雨音も聞こえない。


 彼女の表情を一目見ようと振り向けば、そこに姿はない。


 天を仰げば、夕暮れと夜空の瀬戸際だった。


 〜完〜

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