箸墓
増田朋美
箸墓
箸墓
この地域は、なんでこんなに不便なんだろう。というのが、山岡真紀の正直な印象であった。こんなところ、来たって何もないじゃないか。回りは田んぼだらけだし、大きなビルディングやショッピングモールなどもない。日用品などの購入は、すべて通信販売に頼ることになる。
真紀はこんなところで、カフェを開こうとした、夫、信一郎の存在が、ひじょうにうっとうしく、またいやだなあと思うようになった。なんで、こんな辺鄙な町に来て、カフェなどしなければならないのか。そんなことを、夫に詰問しても、夫はしょうがないじゃないか、お母さんを一人で放置しておくわけにはいかんのだからさ、としか言わなかった。
まあ確かに、真紀の夫信一郎の母は、奈良県桜井市に住んでいる。信一郎は、大学入学をきっかけに、奈良から東京へやってきた。そして、訳合って都内のコンピューター会社に就職して、二人は知り合ったのだ。二人は結婚し、真紀は専業主婦になり、信一郎は会社に行って働く、という生活になった。真紀は、早く子供を持ちたかったが、二年間一緒に生活しても、それはできなかった。信一郎は、それでもいいよと言ってくれたけれど、真紀はなんだか申し訳ないという気持ちだった。
そして、今年の正月、信一郎の母が倒れたと、桜井市の親戚から電話があった。幸い、軽いものであり、特に後遺症が残ったということはなく、歩行に不自由な所は全くないのだが、くも膜下出血という重大な病気なので、再発したら大変なことになる。なので誰かがそばにいてやる必要があった。真紀は、信一郎の母を東京へ呼び出すことはできないかと提案したが、信一郎の母は、長年住み慣れた桜井市を離れたくないと言った。そういうわけで信一郎が会社を辞めて、桜井市内の空き家を買い取り、カフェを始めたのである。一人息子だった信一郎は、そうしなければいけないと言った。真紀も、彼の妻であるという以上、彼に従わないわけにはいかなかった。
そういうわけで、真紀は東京から奈良県桜井市にやってきたのであるが、本当にここは不便な所だった。東京のように電車がたくさん走っているわけではないし、走っているとしたら、桜井線というローカル線が走っているだけのことである。それに、観光スポットと言えば、古代の天皇にまつわる豪族の墓である、大きな丘のようなもの。つまるところ古墳が大量にあるだけで、それ以外に何かあるわけではなかった。
信一郎が始めたカフェは、桜井市に数ある古墳の中でも、特に有名なものである、「箸墓古墳」という古墳の近くにあった。被葬者は誰なのかちゃんとわかっていないようであるが、邪馬台国の女王として有名な、卑弥呼の墓だという説もあるらしい。地元の人たちは、それを信じているようだ。まだ、発掘もちゃんとしていないようなので、確定した証拠がつかめているわけではないのだが、女王卑弥呼の墓であれば、日本の歴史的に有名な人物の墳墓がここにあるとして、観光客を誘致できる、という魂胆が見え見えだからである。
信一郎は、その古墳の近くにあった古民家風の家を買い取り、「カフェはしはか」と名付けた。ほかの飲食店とは違って、せっかく、日本の歴史の漂う街なのであるから、なるべく和風のものを提供したい、という意味から抹茶ケーキとかアイスを提供する店になった。かと言って、外国人観光客も多いので、紅茶やコーヒーも提供した。それで、店の中にピアノなどの楽器を演奏するスペースを作り、演奏会も行えるようなカフェにしたいと、信一郎は言っていた。夫は、こんなことを考える人だっただろうか?と真紀は思う。そんなことを思うなんてちっとも知らなかった。ただ、真紀が知っている夫は、古いものが嫌いで、新しいものを平気で使いこなしてしまう、すごい人と言われていたはずだったのに。
ある日、カフェをオープンさせて数日後、真紀は、自動的にカフェのお給仕として信一郎の手伝いをしていたが、店が開店する前に、大きなトラックがやってきて、店の前で止まった。何だろうと思ったら、トラックの上には、グランドピアノが置かれている。
「こんにちは。桜井楽器です。注文されたピアノをお届けに参りました。」
と、トラックの運転手が、店の中に入ってきた。すると、厨房にいたはずの信一郎が出てきて、
「はい、ここにおいてください。」
と、店の隅にあった空きスペースを指さした。さすがに、運送会社は職人というだけあって、ピアノを手早く設置した。ピアノのメーカーは、ハイファーというところだという。どこのメーカーなのだか全くわからないメーカーであるけれど、音楽学校に通っている人であれば、有名であるらしい。
とにかく、夫の指示で、ハイファーのピアノはすぐに店の角に置かれた。
「ここで、演奏家を招いて演奏するだけではなく、駅ピアノのように自由に弾いてくれるような、そんな店ができたらそれでいいと思うんだ。」
と、新しいピアノを目の前にして、信一郎はにこやかに笑った。ピアノは明らかに新品ではなく、ところどころ塗装も剥げていて、ちょっと、古いといえば古いタイプのピアノである。まあ多分、それくらいしか資金がなかったということだろうが、信一郎が、私に何も相談もせずに、そういうことを勝手に進めてしまっているということが、ちょっとやるせないところでもあった。
「でも、駅ピアノのような形で使わせるのももったいないピアノね。」
と、真紀は、設置されたピアノを見て、そういうことを言う。何だか狭いこの店に大きなピアノがでんとおいてあって、まるで田んぼの中にでんとある、箸墓と似たような感じだった。
「それでな、日付はまだ決まらないが、ある人物にここへ来てもらって、こけら落とし公演をしてもらうつもりなんだ。俺よりも、ずっと演奏がうまくて、すごい奴だぜ。そのほうが、ここの評判もきっとよくなる。」
という信一郎に、真紀はなんでも決めちゃうのね、だけ言っておいた。
「それでは、あなたが決めたことだから、それはあなたが実行して。」
信一郎は、そういうところがあった。なぜか、一人で、なんでも決めてしまうところがある。真紀も意見は出すことは出すが、それを勝手にアレンジしてしまうことが多い。
「きっと、こういう古墳の町だからさ、新しいものにたいして、ちょっと偏見の多いかもしれないけど、きっと受け入れてくれるのではないかと思うんだよね。おふくろのところにも、時々顔出すよ。ああ、それは俺がやるから、真紀はこの店にいてくれればいい。」
なんでそう、自分でなんでもかんでも決めてしまうんだろうな、と真紀は思った。私には何も言わないで、お前はうちのことをしていればいいとか、店の中にいればいいという態度で接する。私が何か言えば、アレンジが加えられてしまう。友人たちは、そうやって旦那がなんでも決めてくれて、楽でいいじゃないなんていうことが多いが、冗談じゃない。ただ、旦那の言う通りにしていればいいっていう生活は、いかにつまらないものか。とても楽しいと言える生活ではなかった。今回のこけら落とし公演だって、何か意見を出させてもらえば、自分も楽しめるはずなのになと思うのだが、信一郎には、それに気が付くという頭はないらしい。
「で、こけら落としには誰を呼ぶの?」
と、真紀は、とりあえずそういってみる。
「おう、あのピアニストとしてやっている大学の同級生にやってもらおうかと思っているんだ。」
と、信一郎はいった。
「いやあ、大丈夫だよ。彼の演奏は天才的だからな。本当に素晴らしいから、お前もきっと感動するよ。」
「天才的ってどういう人なの?」
真紀が尋ねると、
「おう、世界一むずかしいピアノ曲と言われるゴドフスキーのピアノ曲を平気な顔で弾きこなすことが、できるやつだ。」
と、信一郎は言う。真紀は音大卒者ではなかったので、そういう作曲家のことは詳しくなかったが、信一郎がそういうことを言うのであれば、多分そうなんだろうと思った。
「で、そのピアニストさんは、奈良県に住んでいるの?」
「いや、静岡だ。」
と、信一郎は答えた。それではずいぶん遠いのね、と真紀が言うと、
「いやあ、新幹線と、桜井線を使えばすぐさ。それに奈良駅まで迎えに行ってやってもいいじゃないか。」
と、信一郎は言った。
「まあ、お前が心配することはないよ。俺が、彼にメール送ってお願いしておくし、そういうことは俺がちゃんとやるから。」
信一郎はそう、決め台詞を言ったが、真紀は自分も何か手伝えることはなかったのだろうか、と思った。なんで、信一郎は、こういう風になんでもかんでも一人で決めて、一人で動いてしまうんだろうか。そこがつまらないし、寂しかった。
「自分なんていらないじゃない。あたしが、いてもいなくても、あなたはなんでもできる。」
と、思わずつぶやこうと思ったが、それはやめておいた。
その数日後。こけら落とし公演の日がやってきた。信一郎は、電話を受けると、JR奈良駅に迎えに行くと言って、車で家を出ていった。
それから、一時間から二時間ほどたった後のことである。
「ほい、連れてきたよ。右城君。今日はぜひ、ファイファーのピアノで、ゴドフスキーのジャワ組曲を聞かせてくれよ。」
と、信一郎が、二人の人物を連れて戻ってきた。まあ、単独でこっちにやってくることも少ないと思うのだが、少々不思議な雰囲気のある人物だ。一人は、足が不自由なのか、車いすに乗っている。そしてもう一人は、黒い無地の着物に、黒い無地の袴をはき、黒い羽織をつけて正装していた。もちろん真紀は日本の正装というものはちゃんと知らない。でも、和服姿の似合う、本当にきれいな人で、どこか外国の映画俳優にでも似ている人物がいそうなほど、きれいだった。真紀は思わず、彼を見て、持っていたスプーンを落とした。
「紹介する。俺の同級生で、ピアニストの右城水穂さんだ。」
と、信一郎がそういうことを言った。
「今は、右城ではありません。確かに右城と名乗っていた時期もありましたが、今は磯野です。」
と、彼が答える。男性にしては、ややキーが高く、細い声である。
「でも、右城の名で演奏活動してたのは俺も知っているから、右城君と呼ばせてもらう。そしてこっちは。」
と、信一郎が言う前に、
「僕は付き添いの影山杉三です!」
と、車いすの人が、にこやかに笑った。
変な人を連れてくるものだなと、真紀は思った。でもこういってはいけないが、右城さんというピアニストの引き立て役のような気がする。その人が、本当にきれいな人であることを、杉三という人のおかげで、証明しているような感じだった。
それにしても、美しいというか、なまめかしい雰囲気を持っている、その右城さんという男性は、自分の夫とはえらい違いだった。よく、同年齢の友人から見ても、ずいぶんごつい人と、一緒になったね、とよく言われたものだ。それほど、信一郎は、長身だったし、ガタイも大きかった。信一郎がカフェを開きたいと言ったときに、こんな人がカフェのマスターになるのはちょっとねえ、と、友人が言っていたことがあった。もし、信一郎じゃなくて、この右城さんという人であったら、全然違う印象になりそうだ。
「右城さんっておっしゃいましたよね。」
と、真紀は、恐る恐る彼に尋ねてみる。
「あの主人とは、どういうご関係で?」
「ええ、単に、音楽学校で同じ授業を受けていただけのことですよ。専攻は僕はピアノで、彼は声楽で、違っていましたけど、彼とは一般教養科目で同じクラスだったんです。」
と、丁寧に答えてくれる彼に、真紀は、いつも自分の意見を無視してしまう夫とは、えらい違いだと驚いてしまった。
「そうなんですか。い、いや、あの、うちの主人とは、結構仲が良かったんでしょうかね?」
「ええ、まあ、同じクラスでしたから、時折、提出物を共有したりして、そういうことはありましたけど。正直、演奏のご依頼のメールをもらったときは、迷ったんですよ。本当に僕みたいな人が、こんなところで演奏してもいいのかなって。」
という、水穂さんは、信一郎からメールをもらったとき、二つ返事でやると言ってくれたわけではないということを示していた。
「そうなんですか。うちの主人、人のいうことをなかなか聞かないで、勝手にやってしまうところがあるものですから。結構迷われたんじゃないですか?本当に、すみません、勝手に主人が右城さんをこんなところに呼び出したりして。」
と、真紀が照れ笑い師ながらそういうことを言うと、信一郎が、おい、それを言うなよ、と真紀に言った。
「ずいぶん、ご夫婦仲が良いじゃないですか。」
と、水穂さんが言った。それを聞いて、真紀はどうしてですかと聞いてみる。
「だって、人の悪いところを口に出せるのは、お互い信頼しあってる証拠ですよね。僕にはそういう人はいませんので、うらやましいです。」
と、水穂さんは言った。ということは、独身なのだろうか?
「右城さんは、奥さんはいらっしゃらないのですか?」
と、真紀が聞くと、
「ええ、まあ、いたんですけどね、、、。」
ということは、もう先立たれてしまったのだろうか。そりゃそうだよな、ここまできれいな人が、妻を持たないとなれば、ちょっとおかしいことでもある。一見すると、ギリシャ彫刻のように、目の位置も鼻の位置も整っているのである。そんな人が、女のひとと一緒にならないはずがない。
「まあまあ、いいじゃないの。今回は、演奏でこっちまで来たんだから、演奏の打ち合わせしないとまずいんじゃないの?」
と杉ちゃんという人に言われて、真紀は話すのをやめた。本当はなんだかやめたくなかった。今の夫とは全然違う美しさを持った人と、もうちょっと距離を近づけたかった。
「おう、そうだな。じゃあ、14時にお客さんたちが来ると思うから、15時くらいから演奏を開始してくれ。曲は、ゴドフスキーのジャワ組曲。君の十八番はそれだったよね。」
と、信一郎が言った。水穂さんはええ、そう聞いていますと言った。
「ジャワ組曲、全曲弾いて一時間くらいになるかな。弾き終わったらアンコール曲として、何かやる?」
「そうですね、簡単なワルツでも弾けばいいですか?17時30分の電車で奈良駅に戻らなきゃいけないんです。それまでには終わりにしないと。出ないと、次の電車に、一時間以上待たなきゃいけなくなってしまいますから。そうなると、遅くなってしまいますし。」
という水穂さんに、真紀は桜井線の本数が、もうちょっと増えてくれればいいのになと思わずにはいられなかった。とにかく桜井線は一時間に一本程度しかない。東京での電車は、10分に一本はあったのに。この落差は、本当にあきれるというかなんというか、何とも言えない感情を生み出してしまうのだった。
「なんだ、それなら大丈夫だ、うちで夕食食べて、俺がホテルまで送っていくよ。わざわざ電車なんて使わなくても。」
と信一郎も言っているが、
「いえ、遅くても19時までには戻らないといけないので、それは遠慮します。」
と水穂さんは言った。それはつまらないなあ、ファンサービスとかそういうことはないのかと、真紀はちょっと不服そうな気持になった。
「遠慮なんてしなくていいのに。お前の演奏聞いたら、みんな、すごいすごいって言って、音大はどこかとか聞いてくると思うんだけど?」
信一郎はそういうことを言っているが、水穂さんは、いいえ、そんなことありませんと言って、何だかひどく遠慮しているようだった。どうしてそんなに、遠慮しているのだろうか、真紀には理由がわからなくて、ちょっと不思議だった。
「あの、何か。」
水穂さんが自分にそういっているのがわかって、真紀ははっとする。
「何か僕、おかしなところがありましたか?じっと見てるから。」
「いえ、そういうことじゃないんです。本当にすみません。ただ、今時なのに、なんで着物なのかなと思って。」
と、真紀がいうと、
「いや、こっちのほうが、着やすいし、のんびりできていいよ。」
と、杉三という人が笑いながら言うので、真紀はちょっとむっとした。
「黒大島が、どんな身分のひとでも着られる一番の着物なんだ。」
と、いう杉ちゃんに、真紀はそれ以上言えないなあという気がして、黙ってしまう。
「まあ、その話は置いておいて、もうすぐ14時になるな、お客さんがぼつぼつ来ると思うから、お前、このピアノのためにも、しっかり弾いてやってくれよ。」
と信一郎が、そういうことを言ったので打ち合わせはお開きになった。数分後、確かに、こんにちはと言って、お客さんが何人かやってくる。今日はピアノを聞かせてくれるそうだけど楽しみだななんて言いながら、お客さんたちは椅子に座った。真紀は、そのお客さんたちに、お茶を出すのに従事したので、それ以上水穂さんと話すことはなかった。
「それでは、15時になりましたので、演奏を開始いたします。今日の演奏は、ゴドフスキーのジャワ組曲です。12曲からなる大曲ですので、皆さんのんびりとした気持ちで演奏を聞いていただけたら嬉しいです。演奏者は、僕の大学の同級生の、右城水穂さんです。」
と、時計が15時を知らせると、信一郎はお客さんたちに言った。客席は満席である。お客さんたちは、水穂さんがたち上がってピアノの前に座ると、大拍手をした。
演奏が始まった。もちろん真紀は、ゴドフスキーのジャワ組曲なんて聞いたことはなく、生まれて初めて聞く曲であったが、美しいと言われるショパンやフォーレの曲とはえらい違いで、なんだか泥臭くて、労働歌に飾りをつけたような組曲だった。ギリシャ彫刻のような容姿をした人物が弾く曲とは、えらい違いと思われるほど、泥臭い曲であった。そんなのを演奏するなんて、なんてミスマッチなんだろうと真紀は思った。お客さんたちもそういう感じだったらしい。何だかハンサムな奴が演歌をうなっているように見えると、つぶやいているお客さんもいる。
組曲は、確かに12曲あって、それぞれが険しい難易度を持つ、大曲であった。12曲目は、たしかに、周りのひとを圧倒させる雰囲気があって、批評家の目からすると、素晴らしいのかもしれないが、このカフェで弾くにはちょっと重すぎるような気もした。そのジャワ組曲は、フォーレの即興曲や、ショパンのワルツのような美しい曲ではなかった。それはきっと、何か悲しいというか、重々しいものを持っているような気がした。モーツァルトみたいな軽さでもないし、かといって、ベートーベンのような崇高な曲でもなかった。それよりも、もっと人間的というか、今まさに悩み苦しんでいるような、そういう光景が浮かび上がってくる曲であった。
12曲目が終わると、お客さんたちも拍手したが、始まる前の拍手に比べると、ずいぶん小さいものであった。口では、良かったとかそういうことを言っていても、裏では、何か違うと感じ取ったに違いない。
水穂さんは、演奏し終わって、椅子から立ったが、その顔は紙よりも白く、もはや蒼白になっていた。
そして、フラフラと頭を下げて、ピアノから離れようとしたその瞬間、ひどく激しくせき込んで、ピアノの前に倒れこんでしまった。たちまちお客さんたちはキャッという声を上げる。その口元から、赤い液体が漏れていたのを見て、真紀もびっくりしてしまったが、それ以上に、お客さんたちを驚かせたのは、その着物の下に着ていた長じゅばんの袖が、見えてしまったことである。
「銘仙じゃないか!」
と、一人のお客さんが声を上げたのと同時に、穢いという声があちらこちらから上がった。真紀がええ、なんでという間に、お客さんたちは、そそくさと出て行ってしまう。中には、こんな穢いものが演奏をしてピアノがかわいそうだと失笑したものさえいる。いずれにしても、真紀にも水穂さんにも、演奏の効果は何も見られなかった。
「おい、しっかりしろ。身分がばれても仕方ない、行こうと言ったのはお前さんだろ。倒れたままではいけないぞ。」
と、杉ちゃんという人に言われて、水穂さんは、よろよろと立ち上がって、杉ちゃんから渡された手ぬぐいで手を拭いた。汚れた床も拭こうとしたが、真紀はそれはしなくてもいいと言った。
「まあここは、よく同和問題の引き金みたいなもんだって、言われている土地ですからね。僕は銘仙の着物には反対だった。でも、いくら探しても、羽二重の長じゅばんは、どこにもなかったよな!」
と杉ちゃんが言う。よく意味がわからないと真紀いうと、銘仙というのはね、ラッパーの服と似たようなもんだと杉ちゃんが答えたので、なんとなく意味がとれた。つまり、そういう事情を抱えていた人だったのか。
「ごめんなさい。」
と、水穂さんは言った。
「ご迷惑をおかけしました。床の修理代にでもしてください。鍵盤は汚れずに済みましたから。申し訳なかったです。」
そういって手をついて謝ろうとする水穂さんであったが、
「そんなことしなくていいですよ。」
と真紀は優しく言った。
「だって、ラッパーと同じってことは、差別的に扱われたってことでしょう?」
水穂さんは、予想外の反応だったようで、驚きを隠せない顔をしていたが、
「そうなんですね。どういう事情なのか分かりませんが、そうだってことはわかりました。あたし、お二人をホテルまでお送りしますから。電車は乗らなくても結構です。」
「でも、、、。」
「あたし、主人から聞いたんですよ。ラッパーって、ラップする人のことですよね。ラップの本場であるアメリカでは、差別されていた黒人の音楽だったと聞いてますよ。これでも、声楽家の妻です。それくらいのことは知ってます。」
と、真紀は、頭の中にあった知識を引っ張り出して、そういうことを言った。
「あの時、お客さんたちが穢いと言ったことからわかりました。そういう事情を抱えてたんだって。だからわざわざ静岡から、こっちへ来たんでしょう。大丈夫です。あたしは、そういうことは言いません。ホテルに帰ったら、休ませてもらってくださいね。疲れが出ないように。」
と彼女がそういっている間に、信一郎が、床を拭いて、わずかばかりの血痕を消した。幸い、さほど大量ではなく、拭き掃除で間に合った。
「じゃあ、水穂さん行きましょう。歩けますか?無理ならあたしが支えますから。」
真紀は水穂さんに肩を貸してあげた。楽譜などの付属品は、杉ちゃんが持った。真紀は、この時店のすぐ横に、車を止めておくことができて、本当によかったなと思ったのであった。
真紀が二人を車に乗せると、夕日が箸墓古墳の池に沈もうとしているのが見えた。卑弥呼様がみていてくれるかな、なんとなく、真紀はそんな感じがした。
「じゃあ、行きますよ。」
と、真紀は運転席に座って、夫から聞いた奈良市内のホテルに、カーナビをセットした。ナビに従って、奈良駅近くにあるホテルに向かって車を走らせる。箸墓に見守られながら、水穂さんたちは、静かに桜井市から去った。
のちに真紀が調べてみたところ、関西地方は、同和地区と呼ばれる立ち入り禁止区域が多数あるという事実が分かった。銘仙の着物というのは、経済力のない、貧しい人たちの着物として名をはせていたという。
箸墓 増田朋美 @masubuchi4996
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