第30話 選考結果
日に日に湿気を感じる季節に近付いてくる。もう数週間もすれば梅雨に入って、陰鬱な気分になることを強いられることになるだろう。
カラッとした晴天が暫く期待できなくなることを惜しむかのように、今日は一段と駅前には人が集まっていた。
流れゆく歌声を肴に、各々の休日を愉しんでいる。
「砂月の歌声って、私とは全然違うんだ」
浅見先輩が砂月を眺めながら、口元に弧を描いた。
「そうなんですね」
俺は片手に持ったフラペチーノで、喉を潤す。
ほのかな甘みが口内に広がっていく。
砂月の最後となる路上ライブを観に行きたいと言ってきたのは、浅見先輩だった。
きっと自分が視界に入ると歌に集中できなくなるだろういう浅見先輩の配慮から、俺たちは遠くから砂月を眺めている。
距離は離れていても歌声は確かに聴こえてきて、心が微かに震えているの感じた。
「あの子の歌を聴いて思うのは、上手いとか、そういう感想じゃないのよね。なんていうか、心に響く」
「ですね。無性に感動します」
俺が同意して頷くと、浅見先輩は暫くしてから口を開いた。
「引退かぁ」
ライブを止めようとしていた割には、随分と哀しげな声だ。
砂月はこの最後の路上ライブを終えると、一旦就活に専念する。
「大変になるね」
浅見先輩は、そう付け加えた。
この時期から就活を始める人は中々いないということを、よく知っているからこその言葉だろう。
今行われている引退ライブだって、最後にしない方がいいんじゃないかと思うくらいの人気ぶりだ。
週末の昼時で事前に告知を重ねていたおかげもあり、観衆が駅前の広場を殆ど埋め尽くしている。
俺たちのように、遠くから歌声を聴くために路上の端で一休みしている人も散見された。
砂月と出逢った時のことを思い出す。
俺も今と同じくらい離れた距離から、砂月の歌声に惹かれて近付いて行ったのだ。
それは間違いなく、心に響いたからなのだろう。
「とっくにあの子は、私なんて越えてたのにね。私を気にする必要なんて、なかったのに」
そう言って、浅見先輩はストローを咥えた。
中身が氷水だけになっているのに、ズルズルと啜り続けている。
そんな姿を見て、俺は口を開いた。
「俺、先輩の歌好きでしたよ」
「え?」
浅見先輩はキョトンとした表情を浮かべる。
太めのストローから、水滴が落ちる。
先輩は手の甲に落ちた水滴を拭いてから、俺に訊いた。
「……私の歌、聴こえてたの?」
「はい。俺、初めて先輩に声を掛けてもらった日のこと、覚えてるんですよ。あの歌、浅見先輩のだったんですね」
校舎から聴こえてきたあの歌声は、ずっと記憶の中に残っていた。
浅見先輩自身が自分には心へ響かせる歌声がないと思っていても、それは俺の記憶が否定する。
バスケができないと気力の落ちた俺に寄り添ってくれるような柔らかな歌声を、俺はきっとこの先も忘れない。
浅見先輩の歌は、俺の心の中にしっかりと残っている。
「感想、聞かせて?」
「なんすかそれ」
俺が笑うと、浅見先輩はいつになく真剣な眼差しで見つめてくる。
思わず気圧されて、俺は唾を飲み込んだ。
「一言でいいから」
「わ、分かりましたよ」
何故か緊張してきて、俺は深く息を吸う。
かつて片想いをしていた人に、俺は素直な感想を告げた。
「最高でした。忘れられません」
「……二言じゃん。嬉しいけど」
俺の言葉を聞くとわ浅見先輩は少し照れたように笑って、青空を見上げた。
「……うん。報われたよ、私」
「今のでですか?」
ありきたりな感想で、もっと気の利いた答え方ができなかっただろうかと悔やまれる。
だがきっと、こんな簡単な感想でも良かった。
俺から自然に漏れ出る答えなら、何でも。
浅見先輩にとって、最後の観客が俺だったのかもしれない。
本人には聞かないが、俺は自分でそう思うことにした。
何だか少し、浅見先輩にとって特別な存在になれた気がした。
「そういえば、大賛電機の内定おめでとう」
「ありがとうございます」
俺はフラペチーノを飲み干して、容器をクシャリと潰した。近くにあったゴミ箱へ放り、浅見先輩の元へと戻った。
「すごいね、最後の最後で大逆転じゃん」
浅見先輩は、俺の二の腕をトンと小突いた。
元就活サークル長としての労いに、俺は素直に頭を下げた。
この人がいなかったら、今の俺はない。
自分は何だかんだと運に恵まれていると感じることはあったが、一番はこうした人との縁だと確信している。
就活サークルのグループラインで報告した時は、藤堂を始めとした面々は皆んな口々に祝福の言葉を並べてくれた。
俺が言い出しっぺだった内定後の打ち上げ会も、来週に開かれる予定だ。
だが、その打ち上げ会で俺は皆んなに伝えなければならないことがある。
「──本当なの? 内定承諾の返事を保留にしてもらってるって」
「はい。自分でもどうかしてるって思いますけどね」
本当に、どうかしている。
あれだけ欲しかった大賛電機からの内定なのに。
「理由、聞いてもいいかな」
浅見先輩の静かな問い掛けを聞いて、俺は空を見上げた。
梅雨が近付いてきたとは思えない、青々とした晴天だ。
「砂月のおかげで、思い出したんですよ。本当に大事なのは、お金を稼ぐ時の過程だったり、稼いだことにより得られる幸せなんだって」
浅見先輩が「良い言葉だね」と言葉を返す。
「最終面接で、役員の人たちは口を揃えて俺をチームワーク第一の人間だって評価してました。それが企業カラーに合ってるって。……俺、チームワークとか別に得意って訳じゃないんですよね。二次面接で言ったのは、就活用の答えですから」
「就活あるあるだね。でも、そうやって内定を貰う人は沢山いると思うよ。気に病む必要、ないと思うけど」
「Web広告の会社、明後日最終面接なんですよ。あの会社は、自分の言いたいことを全て言い切った上で、選考に進み続けてます。仕事内容も、あっちの方が惹かれてる」
担当者の吉岡さんとは何度も連絡を取り、入念に情報を集めている。
年齢が近いということもあり、座談会などを通じて、今までの俺では考えられないほど志望度は上がっていた。
「仕事の内容に興味が全く持てなかったら、お金を稼ぐ過程が楽しい時間じゃなくなるかもしれない。楽しくするのは自分次第って意見もあるでしょうけど、最初に興味を持てるかは重要だと思うし」
俺は自分の言葉に小さく笑ってから、視線を砂月の方向へと送った。
「愉しくない時間を過ごすの、勿体ないなって思っちゃったんですよね。砂月の姿を見てると」
俺の言葉で、浅見先輩も砂月の方へ視線を送る。
雨宮砂月は、観客一人一人に視線を流しながら、愉しそうに歌っている。
社会人になれば、人生の大部分が仕事をする時間なのだ。
お金を稼ぐという過程を楽しむか、楽しまないか。
それは、大袈裟な話ではなく人生の豊かさに直結する事柄だ。
お金を得るという結果を優先する人も沢山いる。
だが、俺は過程を優先すると決めたのだ。
唯一説明会の時点で興味を持つことができた、Web広告の会社。
明後日の最終面接の結果が良ければ、俺は本当に大賛電機の内定を辞退することになるだろう。
「そっか。君の人生だし、私が口を挟むことじゃないよね」
「はい。もう自分のケツくらい、自分で拭きますよ。俺、社会人になるんですから」
「もー、例えが汚い!」
浅見先輩は頬を膨らませた後、プッと吹き出した。
俺もつられてくつくつと笑う。
二人で笑い合っていると、砂月の歌声が一際大きくなった。
思わず砂月に視線を戻すと、彼女はこちらを見据えながら歌っている。どうやら二人で聴きにきたことがバレたらしい。
「あはは、怒ってる。ちょうどお水もあるし、差し入れで持って行ってあげよっか」
「ええ、あの観衆に注目されるの嫌なんですけど」
「あの子のヒーローになった君は、ネットで全国から注目されてたよ? 今更、今更」
「そういう問題じゃなくて!」
俺が否定するも、浅見先輩はサッサと歩き始めてしまう。
こうなれば俺も先輩について行くしかないと、渋々足を進める。
すれ違うカップルから、「やっぱりあの人の歌、近くで聴きたい」という声が聞こえきて、少しばかり誇らしい気持ちになった。
どうやら俺は、すっかり雨宮砂月のファンになっているらしい。
本人には気恥ずかしくて、とてもじゃないが言えないことだ。
通知音がポケットから鳴って、砂月の元へ辿り着く前にと一瞬画面を見る。
就活サークルの一人が、『二つ目の内定貰った!』と報告している。
俺は口元を緩めて、「おめでとう」と呟いた。
砂月の歌声で陽気な気分になっていく感覚になりながら、俺は再び歩き出す。
梅雨が近づいてきたとは思えないくらいのカラッとした陽光が辺りに差し込み、空気が軽くなった気がした。
もう、心は乱れない。
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