第27話 砂月の夢

 浅見先輩は一通り喋り終えると、深く息を吐いた。

 俺は混乱する頭を一旦落ち着かせようと、温かいコーヒーを口に運ぶ。カフェインが脳内に循環する錯覚を覚えながら、思考を纏める。

 先輩が砂月と同じく、路上ライブをしていたことには驚いた。

 高校時代あれだけ一緒の時間を過ごし、連絡を取っていたというのに、勘付くことさえできなかった。

 だが、時々浅見先輩自身も退屈そうな表情をしていると思うことはあった。今思えば、失った夢に想いを馳せていたのだろう。


「砂月が私と同じように、夢に敗れた時。あの子はきっと私と同じように、自分の指標を見失って彷徨うことになる」 


 浅見先輩は前髪をかき上げた。緩く巻かれた髪が、耳に引っ掛かる。


「もう、あの子にそんな時間はないの」

「時間?」


 違和感を覚えて俺が訊き返すと、浅見先輩は「君が一番よく知ってるはず」と言った。


「私の時とは、時期が違う。砂月は勇紀と同じ、大学四年なの。分かるでしょ? 新卒の切符を失うことが、将来不利になることくらい」


 確かに、就活においては新卒というだけで他の人よりも優遇される。新卒しか募集していないような企業もザラで、大学卒業後の数年を就職せずに過ごすと、今後職にあぶれる可能性が高まるのは間違っていない。


「夢を応援してあげるのが姉妹って思う時期もあった。でも、姉として取るべき行動は他にある。親にも、あの子を任されてる」


 それが、路上ライブから浅見先輩なりの正しい道へと軌道修正することという訳だ。

 砂月も浅見先輩に活動を知られたらこうなると分かっていたから、ひた隠しにしていたのかもしれない。


「……私は砂月より数年長く生きて、先に色々経験した。その経験を活かして、あの子が後悔するリスクをなるべく減らしてあげるのが、私の役目」


 今になって、砂月が「意外と孤独なの」と言っていた意味がようやく理解できた。

 身近にいる人からの応援がないのだ。

 友達からも、姉さえも。

 いくらファンが増えても、近しい人たちからの応援を得られなければ、孤独に感じるのは当然だ。

 ──それならば、俺だけは砂月の味方になろう。

 かつて浅見先輩だけが俺を応援してくれていたように、俺だけは何があっても砂月を応援しよう。

 決意を固めて、俺は浅見先輩を見据えた。

 一度そう思うと、不思議と頭の中が澄み切った。


「あいつの夢、聞いたことあるんですか」

「ないけど、察しは付くよ」


 浅見先輩はそう言って、マグカップを置いた。

 残り僅かになった紅茶が、ゆらりゆらりと揺れている。


「あの子の夢は、私が叶えられなかった夢を、代わりに叶えること。歌手として、デビューすること」

「本気で言ってるんですか?」


 俺の返事に、浅見先輩の瞳に戸惑いの色が浮かんだ。


「え?」

「先輩も薄ら気付いているはずですよ。あいつの姉なんですから」


 砂月の性格を鑑みると、浅見先輩の言葉には大きな違和感が存在する。

 出逢って間もない俺たちでも、他の人には晒さない胸中を話し合った仲だ。内面への理解は、普通の友達よりもきっと深い。


「砂月は強情な性格です。負けず嫌いでもある。そんなあいつが、姉の代わりを務めるなんて殊勝な考えのために、茨の道に進むって本気で思ってるんですか?」


 浅見先輩は何か言い返そうと口を開いたが、すぐに閉じる。

 先輩も、自分の考えが確実に合っているという自信もなかったのだろう。

 瞬間、後ろから声が聞こえた。


「冗談。私、お姉ちゃんの代わりになる為に自分の進路なんて決めないから」


 浅見先輩が顔を上げると、目を見開いた。

 俺も振り返り、声の主を確認する。


「お姉ちゃん。──私、夢叶ったよ」


 雨宮砂月が、誇らしげな表情をして立っている。

 そこで、初めて先程まで聴こえていた歌声が止んでいることに気が付いた。

 砂月はおもむろに近付いてきて、かつてCDを詰め込んでいた、青薔薇柄の袋の中身を俺たちに覗かせた。

 中には、一枚も入っていない。

 浅見先輩が小さく息を飲むのが分かった。


「これって──」

「昔、お姉ちゃんが使ってたものだよ。今日でね、一ヶ月で三百枚完売を達成したの」


 その言葉で、俺は心の中で驚いた。

 あれだけあったCDを、捌き切ったのかと。

 砂月に先輩の存在を知らせたのは俺だ。

 逃げてもらう予定だったのだが、まさかこうして姿を現すとは思っていなかった。

 だがそれも、空の袋を見ると納得できる。


「私の夢は、お姉ちゃんがやり遂げられなかった目標を達成すること。それは、お姉ちゃんが察してた通り」


 砂月はそう言って、空になった青薔薇柄の袋を浅見先輩へ渡した。


「これが、私の夢だよ。今、叶ったの」

「砂月の夢、歌手としてデビューすることじゃ……」


 浅見先輩の言葉に、砂月はかぶりを振った。


「私の中でね、お姉ちゃんの存在って大きいの。小さい頃から何でもできて、憧れだった。……私がお姉ちゃんに必要のないプレッシャーをかけて、無理をさせちゃったのは分かってる。贖罪の気持ちも、ちょっぴりあった」


 先程の浅見先輩の話から、砂月が罪悪感を抱いているかもしれないという可能性に思い至っていた。

 だが、日々の活動を見ていて罪悪感を原動力にしているとはとても思えなかったのも事実だ。

 罪悪感からくる歌声が、心に響いてきたとは考えづらい。

 砂月は心底愉しんで夢を追っていたからこそ、俺は胸を打たれたのだ。

 俺の思考を肯定するように、砂月は言葉を続けた。


「でもね、やっぱりこれはお姉ちゃんの為じゃないの。今後の私のために、必要なことだった」

 砂月は「見てよ」と、先程まで歌っていた場所を指差した。

 ライブを終えた訳ではないのか、観衆はまだその場に留まっていた。何人かが不思議そうにこちらを眺めている。

 他にも路上ライブをしている人はいるというのに、皆んなその場を離れない。


「──凄いでしょ。私の力だよ」


 浅見先輩の過去の話を聞くと、砂月が上回ったと思うこともできる。


「私、お姉ちゃんに心底憧れてた。それこそ、夢になっちゃうくらい。あんなに凄いお姉ちゃんを越えることができたんだって思えれば、私はこれから何にでもなれる! どんなことでも乗り越えられる」


 砂月は明るく笑って、続けた。


「凄いお姉ちゃんよりも、更に凄い。そう思えることが、私にとって何よりも欲しかったものだった。ごめんね、こんな夢で」


 そう言って、砂月は俺に視線を送る。

 俺が見つめ返すと、砂月は口元を緩めた。


「勇紀。私が今幸せなのと、お金は全く関係ないよ」

「……そうだな」


 砂月はずっと、過程も愉しんできて。それに加えて、結果を出して幸福を得た。

 そういう生き方も、愉しいのかもしれない。


「これは、あくまで私にとっての理想だけどね。勇紀は自分で答えを出した方がいい。稼ぎの良さそのものに幸福を見出すなら、大賛電機に内定貰う方が絶対良いもの」


 ──今のが砂月の伝えたかったことだろうか。

 結局、何の答えにもなっていない。

 だが、自分で答えを出す助けにはなってくれそうだ。

 砂月は俺に笑ってみせてから、浅見先輩に向き直った。


「お姉ちゃんが私の先々まで心配してくれてるのは、ありがたいよ。でもね、私は私の人生において大切なものを決めてるの」

「大切なもの?」


 浅見先輩が訊くと、砂月は俺をチラリと見てから、頷いた。


「私は、自分が楽しめる時間をなるべく増やす。だから、好きな事に時間を使うわ。有限だもん、時間って」


 砂月は満面の笑顔を俺たちに向けて、「じゃあね!」とライブをしていた場所へ駆けて行った。

 小さくなっていく背中なのに、不思議と大きく見えた。

 それを見送る浅見先輩に、もう砂月を止めようとする様子はない。


「私を越えた、か」

「……ちょっと不快になりましたか?」


 あそこまで直球の言葉を投げられると、どう思うかは当人次第だ。

 俺ならムッとしてしまうかもしれないが、姉妹の仲というのは他人が口を挟めるものではない。


「どうだろ。嬉しさ半分、悔しさ半分ってところかな」


 浅見先輩は口元を緩めて、

「でも、私を越えたなら、心配する必要もないね。私のことは、私が一番評価してるし」

「さっき、仕事辞めるって言ってましたけど」


 俺の言葉を聞いて、浅見先輩は申し訳なさそうに微笑んだ。


「あれね、勇紀からスマホを取り上げる口実」

「えっ」

「勿論、全くのデタラメではないよ。一年目の時は、本当に思ってた。時間が解決してくれたけどね」

「そうですか……一人で乗り越えるなんて、やっぱり凄いですね」

「ふふ。そうやって素直に褒めてくれるところに救われてたっていうのも本当だよ。ありがと」


 あの表情は、とても演技とは思えないものがあった。

 過去のことを想起して話していたのだとしたら、それも合点がいく。

 当時の気持ちを赤裸々に話していたのだろう。

 たとえ過去の話だとしても、聞けて良かったと心底思う。


「連絡されて砂月が撤収しちゃったら、貴重な半休が無駄になっちゃうって思ってとっさに言ったんだけどね。でも、良い答え聞けちゃった」


 浅見先輩は髪をかき分けて、ニコリと口角を上げた。


「君、私がドロップアウトしても好いてくれるんだ」


 からかうような表情に、俺は顔を背ける。

 それが随分と子供っぽい反応だということに気付き、頭を掻いた。

  ……この人には、いつまで経っても敵う気がしない。


「そりゃ、まあ。これだけお世話になってるんだし」


 俺の精一杯の返事に、浅見先輩はクスリと笑った。


「そっか。……ありがと」


 俺の胸に優しく掌を当てる。 

 どう反応していいものか分からず固まっていると、先輩は静かに口を開いた。


「今のお礼も、ほんとだよ」

「……そすか」


 無言の時間が、数秒続く。

 いつもと違う雰囲気に、俺は下手に動くことができなかった。


「あの子と就活について色々話をしたみたいだけど」

「……はい。お金が大事か、稼ぐことでの付加価値が大事か。そんな話でしたね」

「難しい話ね。頭が痛くなっちゃう」


 浅見先輩はちょっと戯けた表情をみせた後、俺の肩に両手を乗せた。

 先輩の額が、俺の胸にコツンと当たる。


「私、間違ってたのかな?」


 ──元から、姉としての葛藤があったのだろう。

 夢を応援するか、止めようとするか。

 どちらが姉として正解だったのかと、答えを出せないまま行動に移した。

 だが俺は、砂月と過ごす短い日々でその答えを得ていた。


「妹を思う気持ちが、間違ってるわけない──なんてことは、現実的な答えじゃないですけど。でもあいつにとっては、姉に反対されるって状況は良い刺激になったんじゃないですか」


 そこまで言うと、浅見先輩がピクリと動いた。

 また数秒間、沈黙が降りる。

 だが先程のものとは違い、暖かい雰囲気を感じた。

 暫くした後に顔を上げた浅見先輩の表情には、もう哀しみの色は無かった。


「ふふ、そうかも。砂月らしい……それに、勇紀らしい慰め方」


 浅見先輩の手が、俺の胸から離れる。

 胸の高鳴りは、きっと気付かれていたに違いない。


「明日、頑張ってね。大賛電機の最終面接」


 浅見先輩はそう言って、先に歩いていく。

 今日はこれでお別れだと、その背中が告げていた。


「応援してるから。勇紀を一番、応援してる」


 小さな声が、耳朶に響く。

 浅見先輩の応援。 

 先程は、砂月の応援も貰ってしまった。

 内定ゼロの自分には、贅沢すぎる応援だ。

 ──自分にとって最善の道になるように、努めよう。

 俺はそう決心して、浅見先輩が歩いた反対方向の路地へと足を進める。

 再び聴こえてきた砂月の歌が、俺を鼓舞しているようだった。

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