第24話 浅見先輩の真意

 いつもなら舌鼓を打っていたカルボナーラの味も、今日だけはよく分からなかった。

 食べながらずっと考え事をしていたせいだ。

 浅見先輩の退職するという突然の告白と、砂月の音楽活動を認知していたというような発言。

 退店して真っ直ぐ向かった先が砂月の歌う場所だということに気付くと、俺は返してもらったスマホを数秒いじってから、浅見先輩を引き止めた。


「ちょっと、先輩」


 俺は先輩の腕を引いて、一旦砂月の歌う場所から遠ざかる。

 その反応は予想の範疇だったようで、浅見先輩は何も言わずに付いてきてくれた。


「何するつもりなんですか?」

「砂月のライブを止めるのよ」


 こともなげに言い放つ浅見先輩に、俺は驚いた。

 砂月が浅見先輩にライブを隠そうとしていたのは、こうなることが分かっていたからなのかもしれない。


「なんであいつの邪魔をするんですか」

「人聞きの悪いこと言わないでよ」


 浅見先輩は俺の胸を軽く小突いて、息を吐いた。


「ていうか、最近なんで私のこと先輩って呼ぶの? 浅見さんって呼んでっていつも言ってるじゃん。もー」

「ええ、嫌っすよ」


 俺が瞬時に否定すると、先輩は目を見開いた。

 その後小首を傾げる仕草は、本当に砂月とよく似ている。


「えっ、なんで」

「先輩って響きが好きだから」

「なんか予想してた答えと違った!」


 浅見先輩は不満げに頬を膨らませる。


「もう一度訊きますけど、なんでライブを止めるんですか?」


 不可解だった。高校時代、先輩はいつも俺を応援してくれた。誰から見ても無駄だと思われていた、体力作り。筋トレなどの基礎メニューを作ってくれたのも先輩だ。

 頑張る人を応援したいと言った先輩の言葉に嘘があったとは思えない。

 先輩の性格なら、妹の夢は何よりも優先してサポートしようとするのが自然なように感じる。

 無論俺が先輩の性格を全て把握していないのは重々分かっている。それでも、このことに関してだけは、不自然だと思わざるを得ない。

 これは一度浅見先輩から沢山の助力を受けた俺だからこそ抱く疑念だった。

 浅見先輩は暫く黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。


「あの子が歌う理由に察しがつくから、かな」


 俺が返事をしようとすると、続けて言葉が紡がれる。


「妹の進路に私の失敗が関わってるなんて、嫌だもん」

「失敗?」

「うん。私、それですごく時間を無駄にしたから」


 そう言った浅見先輩は、眉を顰めていた。

 本当に、俺は先輩のほんの一部のことしか知らなかったらしい。

 ここ最近、初めて見る表情ばかりだ。新たな一面を知って喜ぶべきか、嘆くべきか。

 それはまだ結論付ける時ではない。

 今は砂月を止める理由を聞くのが先決だ。


「君は夢を追い掛けるのが良いことって、本当にそう思う?」


 浅見先輩は遠い目をして、訊いてくる。

 俺は迷わず首を縦に振った。


「本人がそうなりたいと強く願うなら、良いことだと思いますよ。高校時代、俺言ってたでしょ。バスケの代わりに熱くなれるものを探してるって」

「言ってたね。よく覚えてる」


 浅見先輩は懐かしむように呟いた。


「結局、あれと同等のものは見つかりませんでした。俺、気付いたんですよ。何かに夢中になるって、それだけで凄いことなんじゃないかって。本気で思える物事に出会える人なんて、きっと少ないんじゃないかって」


 大人になってからいざ就職した後に、自分のやりたいことに気付く場合もあるだろう。だが学生の時に気付いた時に比べれば、その道に進むまでのハードルはあまりに高くなっているはずだ。


「みんなどこかで妥協して、違う道に進むんです。実際行動して、夢を叶えようと進む人がどれだけいるか」


 俺だって小中学生の頃は本気でプロを夢見て、毎日必死で自主練していた。

 その夢を諦めた後も、何かに憧れることは頻繁にある。

 だがその存在に自分がなろうと行動することは殆どない。

 現状の生活に満足感を覚え始めると、それを手放すのが怖くなる。

 仮に大賛電機から内定を貰えたとしたら、きっとその気持ちは更に強くなるはずだ。それもまた、幸せな人生だと言えるかもしれない。

 だが、同時に焦燥感がある。

 このまま、この何となくの幸福感に浸って生きていく。身を焦がすような熱を持てないまま、歳を重ねる。

 夢があった時は、努力を努力と感じないくらい、苦しい世界が心地良かった。

 苦しい世界かもしれないが、あそこでしか味わえない経験は沢山ある。

 だから砂月には、夢を叶えてほしいと願うのだ。それがたとえ、華やかな夢じゃなかったとしても。


「それに、砂月は実力も伴ってると思います。だから──」

「砂月が君の言う通りの子なら、良いかもね」


 浅見先輩は「まあ、私はそれでも止めると思うけど」と付け加えた。

 ……きっと浅見先輩の言おうとしていることは、概ね正しい。

 俺は所詮砂月とは知り合ったばかりの存在で、浅見先輩と砂月は血の繋がった姉妹なのだ。

 家族という大切な存在が茨の道を進もうとしているところを止めるのはとても自然なこと。

 理解できる。だが、納得はできない。

 自分はどこかおかしいのかもしれない。出会った当初はあれだけ心を乱された相手に、心底夢を叶えてほしいと願うのだから。


「あの子の夢は、きっと途方もないほど大きいのに、他人を理由にしてる。そんなので生き残れるほど、あの世界は甘くない」

「他人って」


 鸚鵡返しをすると、浅見先輩は数秒ほど間を空けてから、口を開いた。


「そっか。あの子、君には言ってないんだ。……まあ、言えないよね」

「何のことですか」


 俺が訊くと、浅見先輩は「その前に」と遮った。


「勇紀は優しい。出会ったばかりの砂月のこと、すごく考えてくれてる。君が夢を追う人のことを応援する理由も、分かる気がする。高校からの付き合いだしね」


 ……先輩には、本当に察しが付いているだろう。

 俺が夢を諦めたとハッキリ口にした相手は、浅見先輩だけだ。


「でも、それだけじゃないよね。音楽活動に限らなかったら、夢を追い掛ける人にも今まで会ってきたはずだもん。勇紀があの子を応援する理由は、まだあるよ」


 確信しているかのような口振りだ。

 だが、否定はできない。俺自身、砂月を応援する理由がまだあることを自覚してしまっている。


「教えて?」


 浅見先輩の澄んだ瞳が、真っ直ぐ俺の姿を映している。

 先輩の瞳はいつも、物事を見透すかのような錯覚を覚えさせてくる。

 そうでなくとも、この先輩に嘘は吐きたくない。


「好きだから、ですかね。……変な意味じゃないですよ」


 異性の存在として意識している訳ではない。だが、特別な存在にはなっていた。

 今まで一人で抱え込むしかなかった事も、砂月になら言うことができた。

 砂月は切羽詰まっている時ですら、人の幸福を素直に祝福する心を持つ。自分に無いものを、彼女は持っている。

 そこに惹かれているのは、紛れもない事実だろう。

 浅見先輩は俺の答えを聞くと、空を見上げた後、深く息を吐いた。


「なんか嫉妬しちゃうな」

「嫉妬って」


 浅見先輩の口から出る単語とは思えなくて、小さく笑った。

 今まで数々の男の告白を振った人が俺のことで嫉妬するなんて、冗談みたいだ。


「なによー。さては信じてないな?」

「そりゃ、信じられないですよ。皆んなの憧れの先輩が、俺みたいな」

 そこまで言うと、浅見先輩は「まさか」と手を振った。


「勇紀は知らないと思うけど、砂月だって高校の時は相当のものだったって聞いてるよ。その砂月が勇紀のことを好いてるんだから、私がそう思ったとしても不自然じゃないわ」

「……そこまで言ってもらえるのは、光栄ですけど」


 言葉に詰まらせると、浅見先輩は口元を緩めた。

 柔らかい表情とは裏腹に、大きな瞳には何か覚悟を固めたような強い光が宿っている。


「そんな私と砂月が信頼する君に、聞いてもらいたい話があるの」

「なんですか?」

「私の、ちょっとした昔話。これを聞いてから、砂月を止めようとする私を止めるかどうか、決めてほしいな」


 そう言うと、浅見先輩は数メートル先にあるカフェに視線を送った。


「あそこで話そっか?」

「……先輩、カフェで話すの好きですね」

「あはは、嫌いな女子なんていないよ」


 そういえば、久しぶりに二人で話した時もこのカフェだったな。

 『リターズ』と書かれた店舗へ歩きながら、俺は場違いにも微笑ましい気持ちになった。

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