第23話 浅見先輩の憂鬱

 大賛電機の最終面接前日、俺は砂月が歌う場所へ向かおうとスマホを取り出した。

 砂月に呼び出された場所は、桜台駅前の広場。初めて出逢った場所の近くだ。

 いつもの桜代駅前までは、電車で二十分ほどかかる。

 これくらいなら、SNSなどを眺めていれば一瞬の時間だろう。

 俺は残り僅かの期限になった定期で駅構内へと入り、十分ほど目的地へと向かう電車を待つ。

 この数日、SNSを確認することが嫌ではなくなった。

 以前は内定を貰った報告が唐突にタイムラインに流れてきて、唇を噛み締めることもままあったが、それもない。

 これは大賛電機の二次面接通過を知る前からのことなので、自身の選考状況が理由になっているわけではない。恐らく、砂月の存在だ。

 インスタのストーリーを眺めていると、藤堂が丁度数十秒前に更新したところだった。


『友達の生存確認して一安心! お互い頑張ろうぜっ』


 そんな文面が写真に添えられていて、俺は頬を緩ませる。

 写真には俺たちの革靴が載せられていて、膝から上は映っていない。

 これならフォロワーに誰と会っていたということは伝わらないが、俺の気持ちを考慮してくれてのことなのだろう。

 粋な応援メッセージだ。

 俺は藤堂の投稿にスタンプ一つで反応して、一旦スマホから視線を外した。

 電車の窓から流れる景色は、心なしかいつもより鮮やかに見える。以前は死にそうな面をしたサラリーマンばかりが視界に入っていたというのに、心持ち一つの変化で世界が変わる。

 俺の世界を変えたのは、砂月の存在に他ならない。

 砂月の姿は、俺がとうに捨てた一つの選択肢を浮かばせてくる。

 彼女の姿が未だに眩しく思うことがあるのは、俺自身に夢を追い掛けた経験があるからだ。

 砂月の夢の内容を聞いた時は、彼女らしいと笑いそうになった。

 だが、今はそのことについて深く考える時ではない。

 俺はスマホを開いて、スケジュールアプリを確認する。

 そこには大賛電機の最終面接が明日に迫っていることが示されていた。

 目の前に集中しないまま選考に通るほど、現実は甘くない。

 今日の砂月のライブで英気を養い、明日へ挑む。

 そんな覚悟を決めていると、桜代駅到着のアナウンスが流れて、俺は疲れ気味の腰を上げる。

 束の間のお昼休みを電車の中で過ごすサラリーマンを気の毒に思いながら、俺は駅のホームへの降り立った。


 ◇◆


 桜代駅は付近に複数のショッピングモールやデパートが密集していて、普段から行き交う人は多い。

 その為路上シンガーにとっては理想的な場所だといえるだろう。

 平日の昼時だということで、ランチに赴くオフィスガールも散見される。

 俺も砂月のところへ向かう前に腹ごしらえをしたい為、適当な店を探そうとスマホで人気店を検索する。

 すると、見慣れた名前が画面上部から降ってきた。


『今桜代駅にいたりする?』


 送り主は浅見先輩だ。

 連絡が来たのはあのお泊まり以来のことで、俺はすぐにトーク画面を開く。浅見先輩は今まで忙しい日も一日に一度はメッセージを送ってきており、一週間何の音沙汰もないのは初めてのことだった。

 お泊まり会の時も自身のPCで仕事をすると言っていたし、余程切羽詰まってきていたんだと思う。


『まさに改札から降りたところです』


 そう返信すると、すぐに既読が付いた。


『そこから動かないでね』


 ……何だかホラーのような文面だ。

 桜代駅を名指しで言ってきたのは、仕事で丁度近くに来ているからだろう。

 三分程待つと、後ろから柔らかい感触がした。

 ギョッとして振り向くと、遅れて心地いい香りが鼻腔をくすぐる。


「な、なにしてんすか」


 俺は動揺しながらも声を掛ける。

 周りに人がいるにも拘らず、後ろから軽く抱き付かれたのだ。

 先輩の服装はオフィスカジュアルの薄着で、俺もシャツだとということもあり、柔らかさが生々しく伝わってくる。


「人がいますから」


 まるで恋人にかける言葉だなと思いながら、俺は優しく腕を剥がす。

 浅見先輩に向き直ると、先輩は少し照れたようにはにかんだ。


「あはは、サービスしすぎちゃった?」

「はあ、まぁありがたく頂戴しましたけど」


 浅見先輩に憧れる数々の男に見られていたらと思うとゾッとするが、それを差し引いても嬉しいことに変わりはない。


「ねぇ、ひとまずご飯行こっか」

「いいですけど、浅見先輩戻りはいつですか?」

「今日は半休取ってるから、気にしなくていいよ」


 その言葉でよくよく見てみると、浅見先輩の右手にはハンドバッグが掛かっている。

 月末は特に忙しくなることが多いと言っていたが、今月は午後に休みを取れるくらいだということか。


「ホワイトですね、半休とか」


 就職もしていない俺が羨ましそうに言うと、浅見先輩は小さく笑った。


「結構無理言って休んだからね。土日に仕事持ち帰って色々済ませたから、何とか午後だけ時間空けられたの」

「そこまでして休むなんて、今日何かあるんですか?」

「君が此処にいるってことは、私も空振りにならずに済みそう」

「どういう……」

「勇紀に会えて嬉しいってこと」


 浅見先輩は口元に弧を描いて、こちらを見上げる。

 吸い込まれるような瞳が、小さく揺れた気がした。


「行こ?」


 浅見先輩は俺の背中をトンと叩いてから、先導してくれる。

 ──何かを隠された。

 今しがたの会話から、俺はそう直感した。


 導かれた先は三階ビルの二階に入っている店舗で、小洒落たイタリア料理店だった。

 大通りを見下ろせる窓側の席に通されて、俺は動揺した。

 窓の外に広がる大通りの景色は、いつも砂月が歌っている場所だったからだ。

 いつもと違う道でこの店へ辿り着き、裏側の道から入店したので気付かなかった。

 幸い砂月はまだ現場には到着していないようで、姿は見えない。

 浅見先輩に路上ライブのことを知られるのが極端に嫌がっていたので、この状況は非常にまずい。

 幸い今なら場所を変えるようにラインで指示できるので、俺はスマホを取り出した。


「はいスマホ禁止ーっ」


 その言葉とともに、俺の視界からスマホが消える。

 テーブルの向かい側に座る浅見先輩の懐へと入っていってしまった。


「ちょ、返してくださいよ」

「ご飯の間は触るの禁止」

「それでも、ほらなんというかこういうのって」

「私さ、仕事辞めようと思うんだよね」

「あんまり──、えっ?」


 俺はスマホを取り返そうと伸ばしていた手を止めて、間抜けな声を漏らした。

 まず自分の耳を疑ったが、窓の外を眺める浅見先輩の表情は物憂げだ。


「ほ、ほんとですか?」

「うん、だから相談に乗って。とりあえず注文しよっか」

「は、はぁ……」


 戸惑いながらも、俺は一旦腰を下ろす。

 メニュー表を開きながら、「何にするー?」と訊いてくる浅見先輩の声色はいつもの変わらないように思える。

 だが今しがたの表情は確かに物憂げで、それならば今日出会った時の先輩も、何かが溢れた結果なのだとしたら。


「その、俺。全然気付かなくて──」

「私、ナポリタン」


 浅見先輩はそう言うと、メニュー表を俺に寄越した。


「勇紀はカルボナーラかな?」

「……それでいいですけど」


 店員さんを呼び止めて注文をする浅見先輩の表情は、やはりいつも通りだ。周りにもきっと、同じように思われているはずだ。

 そんな俺の考えを肯定するように、浅見先輩は口角を上げて言った。


「気付くわけないよ。家族でも気付かなかったんだから」

「両親にも……」

「まあ、一人暮らしで会う機会も少ないからかもしれないけどね」  


 社会人になれば、両親と会う頻度はガクンと落ちる。

 変化に気付かないのは無理もないし、当然だとすら思う。だがそれが、寂しい気持ちがなくなるということに繋がる訳ではない。

 大人になったからと自立しなければと、無理やり納得せざるを得ないだけだ。


「私を見て、どう思う?」

「……綺麗だな、と」


 俺の答えに、浅見先輩は目をパチクリとさせる。

 そして、可笑しそうに吹き出した。


「あはは、うんありがと。でもそういうことじゃなくてさ」


 ……分かっている。先輩がそんなことを訊きたい訳じゃないことくらい。

 俺は浅見先輩との付き合いは長い。期間の長さを差し引いても、普通の後輩よりも先輩の内面を知っていると思う。

 だが同時に、どこか茫洋ぼうようにも思える人柄だとも感じていた。

 毎日のように連絡を取っているのに、大きな変化に勘付くことすらできなかったことが、その考えが正しかったことを証明してしまっている。

 今まで支えられて、甘やかされて──それなのにこちらからは何の恩恵も与えられていられてなかったなんて、思いたくないじゃないか。

 自分が先輩にとってそんな矮小な存在だなんて、認めたくないじゃないか。

 だから俺は、つまらない答えに逃げたのだ。


「私に、理想抱いてるでしょ」

「どういう意味ですか」

「私に、期待してるでしょ?」


 何を言いたいのか、よく分からない。

 だが理想も期待のどちらとも、浅見先輩に抱いたことがあるのは確かだ。

 俺はひとまず頷いてみせると、先輩は「でしょ」と短く言った。


「でも勇紀の気持ちは、心地良かった。……そうじゃないと、毎日連絡なんてしないしね」

「じゃあ──」

「だからこそ、君には言えないの。言いたくなかった。君が描く私の理想像は、私の理想でもあったから」


 浅見先輩は自嘲めいた笑みを浮かべる。

 先輩のそんな表情は、初めて見た。


「君をがっかりさせたら最後、もう私はその理想像になれないと思った」


 俺の描く浅見先輩の像は、本人に伝わっていた。気恥ずかしさよりも、後ろめたさの気持ちの方が強い。

 そんな俺の胸中を察したのか、続ける言葉を決めていたのか、先輩は迷うことなく言った。


「勇紀には、助けられてたよ」

「俺、何もしてないですよ。貰うだけ貰って、ほんとに何も」


 俺がそこまで言うと、浅見先輩は小首を傾げた。


「勇紀って、私を直接褒めてくれるじゃん。普段、進んでそういうこと言うタイプじゃないのにさ」

「それはほんとに思ってるからですよ」

「そういうのが、本当にありがたかったりするの。……でも、たとえ私がドロップアウトしても、君は変わらず好いてくれるのかな」

「当たり前じゃないですか。俺、先輩がマネージャーをしてくれる時からずっと好きですよ。その、変な意味ではないですけど」


 俺が断言すると、浅見先輩は目をぱちぱちと瞬かせた後、小さく笑った。


「ふふ、そっか。ありがと」


 ──瞬間、耳障りの良い声が窓越しに聴こえてきた。


 清流のような安らぎを与える歌声。

砂月の歌だ。

 浅見先輩の告白が衝撃的で、自分のスマホが預かられていることすら失念していた。

 俺は焦りの気持ちを顔に出さないようにして、思案する。

 裏側の道に繋がる出口から退店すれば、何の問題もないはずだ。

 店員さんがナポリタンをカルボナーラを持ってきて、俺たちの眼前へと置いてくれる。

 ひとまずこのカルボナーラを食べ切るのが先だとフォークを手に取った時、浅見先輩が呟いた。


「……上手くなったね。砂月」


 その意味を理解するまで、数秒間を要した。

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