第20話 ワンルーム

「ただいま」


 自宅へ帰ると、いつものワンルームが俺を迎えた。

 ベッドと本棚、ローテーブル以外は特に目立つ家具もない。

 照明を点けると白光でいくらか小綺麗に見えるワンルームは、特に掃除する必要がない程度には片付けている。


「へえ、意外と綺麗じゃん」


 いつものワンルームに、明らかな異物混入。

 俺の自宅にまで付いてきた砂月は部屋を見回して、面白そうに笑った。


「なんでここまで付いてきてんだよ」

「就活のサポートをしてあげようと思ってね。その前に、一曲どう?」

「は?」


 砂月は玄関に置いていた機材を入れた箱からマイクを取り出す。


「おいおい、近所迷惑だろ」

「電源は入れないよ。片手にマイクがないと落ち着かないだけ」


 そう言うと、砂月は本当に歌い出してしまった。

 声量を抑えても、透き通るような歌声は健在だ。

 勇気付けられる自分に戸惑いながらも、俺はベッドに腰を下ろして歌声に浸る。

 何処かで聴いたことがあるような、そんな歌だった。


「──どうだった?」


 Aメロを歌い終わると、砂月は口元を緩めて訊いてきた。

 俺は素直に「良かったよ」と答える。

 だが、砂月はかぶりを振った。


「そう。やっぱりダメね」


 ……もっと激烈な反応を求めていたのだろうか。

 俺としては百点満点の反応をしてみせたつもりだったのだが、砂月のストイックなお眼鏡に適うものではなかったらしい。

 自分の気持ちが伝わらないのは不本意なので、俺は再度口を開く。


「百点だ」

「ぷ。なにそれ」


 砂月は吹き出して笑った。

 俺が怪訝に思うと、砂月は慌てたように手をブンブンと振った。


「ごめんごめん。違うの、勇紀が良かったって言ってくれたこと自体は嬉しいの」


 砂月はマイクを機材入れに片付けに行く。

 そして玄関の方から、「でもねー」という声が聞こえた。


「私じゃ届かないなって思ったの」


 ……メジャーデビューのことか。

 歌手志望は全国で何万人もいることから、狭き門だということくらい俺にでも分かる。

 だが砂月は、その狭き門を潜り抜ける力量を持っている。

 今や一世を風靡しているバンドマンでも、路上ライブ時代は観客が殆ど居なかった事例だってあるのだ。

 告知なしでも、常に一定数の観客を呼び込める砂月に可能性がない断じる方が道理に通っていない。


「オーディションとか受けないのか?」


 ずっと気になっていたことだ。

 歌手としてデビューするのなら、まず事務所のオーディションを受けるのが一般的だと思っていた。

 ところが砂月はどうやら路上ライブ以外に、音楽活動をしていない。スカウトされるのを待っているのかもしれないが、少しでもデビューする可能性を上げるためには複数の手段を講じるべきじゃないだろうかと感じていた。

 もっともこれは音楽活動をしたことのない俺の一意見であり、実際に身を投じている砂月には彼女なりの考えがあるのかもしれない。

 砂月は俺の言葉を聞いて、表情を変えずに答える。


「受けない。それじゃ、意味がないの」

「あくまで、スカウトってことか」

「──まあ、ね」


 砂月は長い睫毛を瞬かせて、身体をぐっと伸ばした。

 何となく、その動作でこの話が一旦終わりになることを察した。


「さ、ご飯にしよっか」

「……うち、浅見先輩の家と違って食材とか少ないぞ」


 俺はそう言って、冷蔵庫へ向かう。

 扉を開けると、意外と色々入っていた。

 砂月は「失礼します」と冷蔵庫を物色し始めて、手際良く小さめのキッチンに並べていく。

 物色する砂月が屈むと、丁度胸元がちらりと見えた。

 いつになく近い距離に、俺は思わず離れる。


「あは、なにドキドキしてるのよ」


 離れた理由なんてお見通しだ、と言わんばかりの口調に俺は口を尖らせる。


「うっせ。誰だってこうなるわ」

「今日は勇紀の欲を満たすチャンスだね。ほら、家に二人きりだし」


 わざとらしく緩めのロンティーの襟を摘み、パタパタと煽る。

 これで仮に俺が本当に行動しても、砂月にいくらか非はあるだろうなと思いながら、俺はベッドに寝転がった。


「食欲を満たす」

「つまんないのー」


 砂月はそう言って、包丁を取り出した。

 慣れた手つきで料理を始める砂月の後ろ姿は、とても様になっている。

 スタイルの良さが如実に感じられて、雑念を払いたいと思った俺は目を閉じた。


「お前、ほんとに俺が狼になったらどうすんの?」

「んー」


 俺の問いに砂月は少し間を置いた後、小さく笑った。


「今は包丁があるもんねっ」

「殺されるんじゃねえか!」

「わはは、私は都合の良い女にはならないのだ!」


 それならば、たまに煽ってくるのはやめていただきたいものだ。

 いくら就活に意識を取られているからといって、何も感じないという訳ではない。

 俺は昼寝でもしようかと、タオルケットを顔に被せる。


「寝るのー?」

「ん、後で起こして」

「無防備って言ってたけど、勇紀もかなりのものだと思うよ」


 タオルケットを半分ズラしてみると、砂月は微笑ましそうな表情でこちらを見ていた。


「……確かに、相手は包丁持ってんだもんな」

「そうだよ。油断しちゃダメだよ」


 浅見先輩の妹なので警戒する必要など皆無だろうが、まあここは砂月の冗談にも付き合おう。

 考えてみれば、料理を任せて一人だけ昼寝をするのも失礼な話だ。

 もしかすると、砂月もそれを暗に咎めたのかもしれない。

 俺は目を擦って、眠気を払う。

 遠くを見ようと玄関へ視線を送ると、砂月の持ち歩いている機材が山積みにされている。

 家からの往復だけでかなりの労力を要するだろうに、疲労を感じさせないのは、歌うことが本当に自分のやりたいことだからなのだろう。


「そういや、お前アコギとか持ってないの?」


 楽器がどこにも見当たらないことから、俺は質問する。

 砂月は料理をする手を止めて、こちらをチラリと見た。


「私、勇紀の前で演奏したことなんてないよ?」

「……そうか? そうだったっけ」


 言われてみれば、最初に出会った時も砂月は音源を流して歌っていた。

 だったら、浅見先輩の家にあったアコギは何に使うものだったのだろう。練習でもしているのだろうか。


「勇紀が内定貰う頃には、私も色々結果出てると思う」


 砂月はそう呟いてから、料理に戻った。

 慣れた手つきを眺めながら、俺は自分の心がいくらか軽くなっていることに気づく。

 ……そういえば、就活の近況を事細かに報告したことなんて随分久しぶりだな。

 砂月には、気兼ねなく結果を報告できる。

 その理由は、すぐに思い至った。

 ダサい自分を見られているからだ。就活で荒んで、ご飯の席を途中で退席するなんて行動を起こした俺を見て尚、一緒にいてくれる。

 そんな存在は、今までにいなかった。

 普段なら溜め込んでいるであろう事を、忖度なしに話すことができる相手。俺にとって砂月の存在は、確実にプラスになっている。


「なに見てるの?」


 俺の視線に気付いたのか、砂月は少し困ったような表情を浮かべた。


「……いや、ご飯まだかなって」

「まだ作り始めたばっかりなんだけど」


 砂月はそう返事をして、クスリと笑う。

 再びベッドに寝転がって、見慣れた天井を眺めた。

 新しく始まろうとしている日常は、就活が終わった後の楽しみになってきていた。

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