第13話 終電は無くなった

「お待ちどおさま。ピーナッツです」

「さっきのエプロンは何だったんですか?」


 数分と経たずに出てきた明らかな市販のピーナッツに、俺は思わず問いを投げた。

 小皿に盛られたピーナッツを一つ摘んで、口に放り込む。

 安定の美味しさだが、いかんせん喉が乾く。

 浅見先輩がエプロンについたシワを伸ばしながら返事をした。


「か、勘違いしないで。今から作るから、それまでのおつまみ」

「な、なるほど」


 浅見先輩は「ピーナッツで終わりな訳ないじゃない」と笑って、キッチンへと戻る。

 十五分も経つとふんわりと良い香りが漂ってきて、鼻腔がくすぐられる。

 浅見先輩の手料理を食べる機会なんて、調理実習などを含めても片手で数えられる程しかない。

 こんな状況になったのは、普段より酔ったおかげかなと思う。

 いつもより量が少なかったことと、色々衝撃的なことが起きたことで酔いは大分醒めてきている。

 浅見先輩が自宅に招待してくれたのは、酒を飲むだけロクに食べていなかった俺が、帰宅後スナック菓子で腹を満たすことに気の毒だと思ったからと言っていた。

 それは嘘ではないだろう。

 だがその気の毒になったというのも、俺が面接に落ちて元気を無くした姿を見たからなんだろうなと思う。

 ──昔から、先輩はそうだった。

 人が元気を無くした時は、とことん優しくしてくれる。

 俺が高一の時、ハンドボール部でずっと自主練に付き合ってくれていたことを思い出す。

 浅見先輩にも受験勉強があっただろうに、当時の俺にそれを感じさせないくらい気を遣ってくれていた。

 時が経って当時の先輩の歳に追い付いた時、今先輩と同じことができるかと問われたら絶対に無理だと感じたことをよく覚えている。


「適当に寛いでていいからね」


 先輩の言葉が届くと、不思議と目蓋が重くなる。

 初めて来た家なのに、なぜこんなにも落ち着くのだろう。

 浅見先輩のなせる技だな、と結論付けて、俺は眠気に抗えずに意識の蓋を閉じる。

 遠くから浅見先輩の呼び声が聞こえた気がした。


 ◇◆


「ねえ、起きて」


 フローラルな香りとともに、自分の身体が揺すられていることに気付く。

 目を開けると、髪を湿らせた浅見先輩が俺を覗き込んでいた。

 雪のように白い肌が、俺に柔らかく触れてくる。


「もう。ほんとに寝ちゃうなんて」

「あと十分……」

「だーめ。絶対ずるずる延びていくんだから。それに君、寝相悪いんだもの」


 俺がゆっくりと上体を起こそうとすると、浅見先輩が慌てて「たんまっ」と押し戻す。


「お皿が落ちちゃう」


 視線をズラすと、俺はいつの間にかリビングテーブルの下に身体を滑り込ませていたようだ。

 四脚に支えられているリビングテーブルの上には、浅見先輩の作ったと思われる夜食たちが並んでいる。

 丁度お腹の上あたりに位置していて、あのまま上体を起こすとテーブルに当たって危ないところだったようだ。


「ほんとはもうちょっと寝かせておきたかったんだけどね。お風呂から上がったらテーブルの下に転がってるものだから、びっくりしちゃった」


 浅見先輩は呆れたような声色で笑った。

 髪が湿っているのはそういう訳か。

 お風呂上がりという言葉で、妙に意識をしてしまう。

 改めて浅見先輩を眺めると、俺が寝る前の服装とは打って変わり、完全にラフな部屋着だ。夏ということもあって肌の見える部分が多く、俺は思わず目を逸らす。


「あ、ごめんね。まだ着替えたばっかりだから、これからもう一枚羽織るよ」


 俺の挙動で気付いたのか、浅見先輩は立ち上がってリビングから出て行く。

 数秒で戻ってきた浅見先輩は薄いナイトウェアを羽織っていた。余計に色っぽくなったことに、先輩は気付いているのだろうか。


「どう?」

「鼻血出そうです」

「ふふ。正直な男子は嫌いじゃないよ」


 浅見先輩はそう言うと、なんてこともないように、ドライヤーで髪を乾かし始める。

 長い髪がドライヤーの風に煽られて、静かに靡く。

 髪が靡く度に白い背中がチラチラと見えて、思わず視線が釘付けになる。

 次の瞬間、浅見先輩と目が合った。

 先輩はドライヤーを止めて、俺に向き直った。


「食べて?」

「え?」

「夜食。もう冷めちゃってると思うから、レンジでチンしてね」


 その言葉で視線を落とすと、ラップに包まれた野菜スープに初めて気が付いた。

 まだ意識が覚醒していないようで、俺はゴシゴシ目を擦る。


「擦っちゃだめ。目が傷付いちゃう」

「先輩は俺のママですか」

「あはは。それもいいかもね」


 浅見先輩は和かな表情を浮かべてから、またドライヤーのスイッチを入れた。

 ワークチェアに座りながらドライヤーで髪を乾かすという光景はチグハグな印象だが、それも何だか浅見先輩らしい。

 俺はリビングテーブルの下から身体を出し、野菜スープの入った容器を持ってゆっくりと立ち上がる。

 時計の針は深夜一時を指しており、既に終電は無くなっている。

 本当にこの家に泊まるんだな、と思いながらキッチンへと向かい、電子レンジの中に容器を入れた。


「先輩、何分くらいがいいですか?」


 俺が問い掛けると、浅見先輩はまたドライヤーのスイッチを切った。

 きっと今の声も聞こえていなかったはずだ。

 手を煩わせたことに申し訳なく感じていると、浅見先輩は「三十秒くらいでいいと思う」と答える。

 俺は思わず目を見張った。


「よく聞こえましたね」

「聞こえてないけど、何となく分かるよ」


 そう言って、浅見先輩はニコリとする。


「終電も無くなっちゃったね」

「ですね……まあ歩こうと思えば、歩ける距離でしょうけど」


 俺はそう言いながら、電子レンジのボタンを押す。

 野菜スープの入った容器が、静かな音とともにゆっくりと回り始めた。


「でも、一時間以上掛かるんじゃない?」

「二駅離れてるんで、二時間くらいは掛かりそうです」

「だよね。もう泊まっていったら?」


 そのつもりでした、と心の中で答えて、レンジから野菜スープを取り出す。

 リビングへ持っていく時、小棚の隣に何かの機材がもたれてかかっているのが見えた。

 容器をテーブルに置いてから確認しに近寄ると、路上ライブの機材とアコギだ。

 ……砂月の忘れ物か。

 路上で歌っていることは隠してほしいと言っておきながら、爪が甘すぎる。

 ラインで砂月に「機材忘れてるぞ」とメッセージを送る。

 これでこの光景を目の当たりにした義理は果たしただろうと、俺は野菜スープに向き合った。


「いただきます」


 両手を合わせて挨拶をする。

 浅見先輩は今度こそ全く気付いていないようで、ドライヤーで髪を乾かし続けている。

 長い髪の人は、色々とケアに時間を取られて大変そうだ。

 そんな所感を抱きながら、スプーンで野菜スープを口に流し込む。

 コンソメの香りが口内に広がり、俺は思わず唸った。

 野菜たっぷりのコンソメスープ。

 栄養不足の身体に染み渡っていくようだ。

 たまに混ざっている肉団子も、男にとっては嬉しいものだ。

 あっという間に食べ終わると、俺はおかわりがないか再度キッチンに足を運ぶ。


「あれ、もう食べ終わったの」


 髪を乾かし終えた浅見先輩が、驚いたような声を出した。


「めっちゃ美味かったです。あの、おかわりとかありますか」

「そっかそっか。冷蔵庫に鍋ごと入ってるから、好きなだけ食べていいよ」


 浅見先輩は顔を綻ばせて、冷蔵庫を指差す。

 冷蔵庫から取り出した鍋は重い。

 恐らく、俺がおかわりすることを見越していたのだろう。

 俺が鍋から野菜スープを装っていると、浅見先輩が後ろから声を掛けてきた。


「ちゃんと家で食べてるの?」

「普段はコンビニ弁当ですかね。それか牛丼です」


 家の近くにある牛丼は、一杯四百円。

 味噌汁も付いてくるので、学生の俺にとって最良のコスパなのだ。


「そんなことだろうと思った」


 浅見先輩は息を吐いて、俺の背中を小突いた。


「そんなんじゃ、余計しんどいよ」

「え?」


 俺が訊き返すと、浅見先輩は野菜スープの入ったお皿をリビングに持っていく。

 テーブルに置かれた野菜スープからは湯気が立ち昇り、また食欲が唆られた。


「食べ物はね、日々の活力なの。文字通り血肉になるものが杜撰なものだと、疲れやすくなるし、メンタルだって荒れやすくなる」


 俺はその言葉を聞きながら、野菜スープを啜る。

 確かに毎日こんな栄養満点の料理を食べていたら、少なくとも今よりも上手くいく事柄が増えていく気がする。

 気がするだけかもしれないが、今はそんな気休めでも喉から手が出るほど欲しい時期だ。


「たまになら、ご飯食べさせてあげるから」


 浅見先輩の発言に、俺は「えっ」と声を漏らし、動きを制止させた。

 先輩はそんな俺に苦笑いして応える。


「そんなに頻繁に来ちゃダメよ。私も忙しいし」

「いや、月一とかでもめちゃ嬉しいですよ」

「そっか。なら良かった」


 その頃には、さすがに内定も出ていてほしい。

 ……出ていてほしいなんて他力本願な思考回路に、少し嫌気が差した。


「じゃ、お風呂入ってて。布団敷いておいてあげるから」


 そう言って浅見先輩はリビングから出て、廊下の途中にあるドアを開ける。

 何となく近付いて部屋を覗くと、そこは寝室だった。

 大きめのベッドはセミダブルだろうか。

 見るからに柔らかそうなベッドに飛び乗りたい衝動を何とか抑える。


「先輩は寝るんですか?」

「あはは、なに期待してるの」


 浅見先輩は軽く笑って、バスタオルを寄越した。


「お風呂から上がったあと、襲っちゃだめよ?」

「そんな勇気ないですから」

「名前は勇紀なのにねー」

「小学生の頃それでよくいじられましたわ」


 名前をいじられても悪い気がしないのは、相手が浅見先輩だからだろう。

 俺は先輩からバスタオルを受け取り、脱衣所に入る。

 浴室にはまだ湯気が残っており、水が滴っている箇所もある。

 つい先ほどまで浅見先輩がいたと思うと心臓がドキドキするが、なるべく考えないように無心で身体を洗う。


 ──よくよく考えてみれば、本当に大変な状況だ。


 それなのに殆ど緊張していないのは、浅見先輩とこの先の関係には進まないことを確信してしまっているからだろう。

 浅見先輩と恋人になるような男は、きっともう少し強引な人なんだろうなと、俺は思う。

 一通り洗い終えて脱衣所から出ると、寝室のドアは閉め切られていた。

 リビングへ赴くと、真ん中に客人用の布団が一つ敷かれている。

 この状況が今しがたの考えを肯定しているみたいで、俺は息を吐いて布団に潜り込んだ。

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