第4話 南洋の嵐雲

   ◆


 それから二年ほど。

 極海から南洋の方へ縄張りを移した俺は、大海の覇者として君臨していた。


 やはり南国はいい。

 極圏と違い、人間の存在も何度か確認した。

 漁船を見つけて近づいたら弓矢やら魔法やらで攻撃されて、ろくにコミュニケーションも取れなかったが……。

 こちとら元人間なんだから、そんなにビビって逃げなくてもいいのに。

 それにしても魔法ってことは、やっぱりここはファンタジーな世界で間違いなさそうだ。

 こっそり港まで近づいて街の様子を伺ったこともある。

 暖かい灯りに浮かび上がった街並みを見ると、心の奥底にある郷愁感に似たものが激しく込み上げて来た。


 しかし、最後の〈脱皮〉を使って人間に戻りたいかと言われれば……微妙なところだ。

 最初は戻りたい気持ちが強かったんだが、今では『人間に戻ったところで、どうせまたしょうもない人生を歩むに違いない』という思いが強い。

 しかも、この世界の人間界の方がよっぽど生きていくのが過酷そうだ。


「ま、海竜の寿命は平均300年。ゆっくり考えりゃいっか」


 などと呑気なことを思いつつ海面に出て回遊していると、突然物凄い衝撃が海底の方から突き上がってきた。


「な、なんだ……!?」


 同時に、晴天だった空に暗雲が立ち込め、急激に海が荒れ始める。


「またか……!」


 ここ一ヶ月ほど、こんなことが多い。普通なら感じられるはずの自然の予兆も無く気候がおかしくなるのだ。

 海の生き物たちも、突然の変化に戸惑い逃げ惑っている。

 それにしても今日は特に激しい。

 暗い空にヒビを入れたような雷が海に突き刺さり、いくつもの爆発が生じていた。


「何が起きてるんだ……」


 荒れ狂う波に顔を叩かれる。

 すると、遠く遠く暗雲の空に小さな穴がぽかりと空いた。

 直後、その穴から何か小さな物体が落下し荒れる海しぶきの中に消えていく。


「……人……?」


 遠くてよく見えなかったが、人の形をしていたような気がする。

 俺は何かが落下していった方角に向けて、全速力で泳ぎだした。



 落下地点付近に到着した頃、あれ程に荒れ狂っていた天候はぱったりと鳴りを潜めていた。

 いつの間に太陽が沈んだのか、満点の星空が天を蓋している。


「この辺りのはずだけど……」


 海面に漂っていないか、ぐるりと見渡す。

 遭難者のような気配は感じられない。雲の上から降ってくる遭難者なんているわきゃないとは思うが。

 と、その時、海中深くから気配を感じた。

 俺に対して信号を打つかのような、強い波動。

 何かを感じた俺は、すぐさま海中深く潜航を始めた。

 この辺りはそこまで深い海域じゃない。

 だから、色とりどりのサンゴ礁に浮かび上がる傷だらけの人間を見つけるのも容易だった。


「やっぱり人間だった!」


 助けてどうするのかという事を考えるよりも先に、俺はその人間を軽く咥えて海面に出ようと旋回した。

 すると、その人間がそれを止めるように俺の鼻先をぽんぽんと叩いて、下──海底側を指差した。


「……?」


 上半身裸に、ゆったりとした腰布。歳の程は六十歳くらいだろうか。

 豊かな髭を蓄えたその顔は、えも言われぬ深みと魅力を湛えている。


「下に行ってくれ。じゃないと見つかっちまう」


 男の声は、海中だというのにはっきりと聞こえた。


「わ、分かった」

「すまないね」

「俺の言葉が分かるのか……!?」


 人間に海竜の言語が分かるはずがない。

 しかし、男はそれに答えることは無く、何かを警戒するように海面の方を睨んでいる。

 俺は男を口の先に咥えたまま潜航し、迷路のように複雑な珊瑚の迷宮の奥へ進んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る