vs " Z "(7)

 もはや捉えられないほどの速度で、獣が跳び掛かる。

 跳んだと思ったその時、そこには爆ぜる土と、宙に舞う鮮血だけが残っている。

 遅れて耳を劈くは、荒々しき咆哮。


  ――……ゥゥ、ルルルァッ!!


「ふっ――」


  ズダンッ!! ズシャァ――


 轟音とともに獣が着地した地面が、爆発したように爆ぜる。

 爆ぜた土が地面に降り注ぐ前に、獣は既に、跳んでいる。


「――ぉぉぉおおおッ!!」


  ――……ゥゥ、ガルルルァ――─ッ!!


  ぎゅるんッ ブォンッ――


 飛び掛かる獣をいなすように、ぎゅるんと回転したフーガくんの身体が宙を舞い、弧を描くように地面を削りながら着地する。

 身体を開いて、手足を獣のように使い、一瞬たりとも止まることがない。

 そのフーガくんの姿が――ふっ、と消える。


  ――……ゥゥ、ウルルルッ!!


「それ読み筋ッ――」


  ズシャァァァアアンッ!!


 いや、見えてはいる。

 いま、着地して、アミーの方に態勢を向け変えている。

 だけど、次の一瞬にはまた見失う。

 視界の真ん中に捉えていたはずのかれの身体が、滲むようにブレて、次の瞬間には視界の端にすっ跳んでいく。

 その跳躍の瞬間が、見えない。


「まだっ、まだだろッ、ズールッ!!」


  ――……ゥゥ、ガアアアアァ――ッ!!


 軽やかに跳び跳ねながら、煽るように言葉を掛け続けるかれ。

 それを跳ね追う、目の前の獣。

 かれとアミーは、この空間を目まぐるしく飛び回っている。

 時にはこちらの方に近づくこともある。

 それなのに、不思議なことに、わたしはつねに、目の前の獣の意識の後方にいる。

 その殺気が、こちらに放たれることはほとんどない。


(……ぅ、うう……)


 それなのに、脚が動かない。

 目の前の獣の、死にたくないという叫びにてられて。

 お前を喰い殺してやるという殺気に中てられて。

 脚が――震える。


(……だいじょうぶ、だいじょうぶ――)


 左手に、フーガくんがくれたナイフを握りしめる。

 右手で、フーガくんがくれたケープの端を掴む。

 わたしは、戦えるはずだ。

 わたしも、動けるはずだ。


 そう思っているのに、目の前の、吹き荒ぶ嵐のような戦場に、立ち入れない。

 それは、フーガくんの足手まといになりたくないとか。

 わたしでは、アミーの飛び掛かりを避けられないとか。

 そういう理屈じゃなくて。


  ――……ゥゥ、ウルルルァッ!!


 血を流しながら咆哮する、巨大な獣。


「――ァァぁぁまだまだァッ!!」


 その咆哮を受け止める、一人の人間。

 目の前で繰り広げられる、命の闘争。

 その圧力、その迫力、その密度に、足が竦んでしまう。

 わたしなんかが、立ち入っていいのかと。

 そこに、わたしの居場所などないのではないかと。


(……あっ――!!)


 縋りつくように見つめていた、かれの姿。

 滑るように着地したフーガくんの脚が、ずるり、と滑った。

 そこは、アミーの血が巻き散らされた草地の上。

 いつの間にか、周囲の地面のあちこちには、アミーが流した血だまりができている。

 草地に染み込んだそれは、爆ぜとんだ土に覆われ、見えづらくなっている。

 これまでフーガくんは、まるでそれらが見えているかのように避けていたけれど――


「やべっ――」


 滑った足で踏ん張ることを諦め、両手で地面を掴んで。

 両膝をついて着地したフーガくんの前方から、飛び掛かろうとしている、アミーの姿。

 あれは――危ないっ!


「こっち、ずーるッ!!」


 叫びながら、地面に落ちていた、なにか硬い金属片のようなものを引っ掴んで――投げつける。


  ――ひゅんっ


 それはまっすぐの軌跡を描いて、でも、見当外れの方向に跳んでいく。

 ……だめだ。せっかくフーガくんに、投げ方を教えてもらったのに。

 咄嗟にできるほど、この身体が覚えてないっ!


  ――……ゥゥ、ウルルル……ッ!!


 だけど、どうやら、アミーは気づいてくれたみたいだ。

 わたしが、自分を攻撃しようとしていると、察してくれた。

 アミーが、こちらを見る。


「――っ」


 眼球のない、まっくらな眼窩。

 緩く開かれた口に並ぶ、鋭い牙。

 自分が巻き散らした血で、全身を斑に染めながら。

 ぽっかりと開いた傷口から、だらだらと血を流しながら。

 それでも、目の前の獣は、死んでいない。

 わたしを、殺そうとしている。

 殺そうと、して、くれ――


(……う、ううう――)


 凍り付く思考を放棄し、無理やりに足を後ろに後退させる。


 下がれ。

 下がるんだ。

 下がればいい。

 このままだと、食べられる。

 食べられちゃう。


 ちがう、そんなことは、どうだっていいんだ。

 それをすると、フーガくんを、裏切ることになる。

 また、あの目を、させてしまう。

 哀しそうな、憐れむような――


「う、うう――うあああッ!!」


 こわくない。

 そうだ、こわくなんてないッ!

 あの、胃を突き刺すような痛みに比べれば。

 あの、心臓を掻き毟る様な絶望に比べれば。

 あなたのこわさなんて――取るに、足らないッ!


「ずーるっ!!」


 右手にナイフを構え、フーガくんの使っていた言葉を重ねる。

 言葉の意味はよくわからないが、その意図はたぶんわかる。

 そう呼ぶことで、かれは獣の注意を惹きつけたいのだ。

 そうして、目の前で飛び掛かる姿勢を取る獣を迎え撃つ。


 あなたがフーガくんの敵だというのなら。

 わたしの――敵だっ!


  ――……ッ!! ――ゥゥゥ、ガルルルァ……ッ!!


 正面から飛び掛かってくるときは――なんとか頑張る、だったよね。

 頑張るよ、フーガくん。

 わたしは、フーガくんのおかげで、がんばれる。

 わたしは――死なないッ!!


 こちらに飛び掛かろうとしていたアミーが――


  ――……キャゥッッ!?


 ふいに悲鳴のような声を放ち、跳ねるように横に飛び退く。

 飛び退いたその場所には――身体のあちこちを血に汚した、フーガくんの姿。


「――カノン、最高のアシストだッ……ぜッ!!」


 その手に握られたナイフに、滴る血。

 いつの間にか、なにかを切ったの、かな?

 たぶん、アミーの……後ろ脚?


「……まだまだ、まだまだだろうッ!! ズールッ!!

 俺を殺し損ねて悔しいなら、もっともっと、殺しに来いッ!!」


 フーガくんが叫び、アミーの意識がまた、わたしから逸れる。

 フーガくんがこちらに向けて掲げた右手、そこに立てられた親指。


(……あ)


 ……そっか。そういう、ことなんだ。

 かれは、わたしにやり方を見せてくれた。

 なら、わたしにも、できるはずだ。

 フーガくんに向けて、頷きを返す。


(……あれ?)


 いつのまにか、こわくない。

 こわいけど、でも――なんだろう。

 それ以上に、なにか、こわくない。

 むしろ、


(――?)


 この気持ちは――なんだろう。


(……ううん)


 今は、目の前のことに集中しよう。

 かれとアミーの、激しい交錯の中には入れないかもしれないけれど。

 それでも、わたしにできることはある。



 *────



  ――……ゥゥ、ウルルル……ッ!!


 目の前で対峙する獣の動きが、なにかを警戒するように鈍る。

 まるでなにかを気にするように、耳がピクリピクリと動く。

 落ち着かないように、長い尻尾を振り回す。


「……草食動物かなにかだと思っていた獲物に、殺気を放たれた気分はどうだ?」


 嗅覚のあるらしいお前は、最初から気づいていたはずだ。

 この空間に、俺以外にも、カノンという獲物がいることに。

 だがそれは、お前のなかでは優先順位の低い事項だった。

 その獲物をゆっくり食べるために、俺という、目の前の敵を排除する。

 それがお前の狩りの目論見だったはずだ。

 だが――それはお前の、単なる思い込みだった。


「俺が一人なら、とっくの昔に仕留められてるんだろうけど――悪いな。

 俺は……俺たち人間は、んだ。

 お前とタイマン張ろうっていう気も、最初からない。

 そして――それを、卑怯だとも、理不尽だとも、思っちゃいない」


 そもそもそれを言い出すのなら、目の前の獣の状態は最初から最悪だった。

 その身を鉄杭で穿たれ、鎖で縛られ、飢え渇いた状態でこの森の中の檻に囚われ。

 いうなれば最初から、その死が定めづけられていた。

 この生存競争は、とても対等な条件で行われているものではない。


 でも――俺たちは、この過酷溢れる世界の中で、いつでも万全の状態で相対できるわけじゃない。

 傷を負っていることもあるだろう。

 一対多の戦いを強いられることもあるだろう。

 勝ち目のない戦いもあるだろう。

 それでも俺たちは、その場で出来る全力を尽くして、戦わなくてはならないんだ。

 そうして死力を尽くして殺し合って、生き延びようとしなくてはならないんだ。

 たとえお前が仲間を引き連れて、俺たちを襲ってきたとしても。

 かつてお前らがそうしたように、俺たちを蹂躙したとしても。

 俺はお前を恨まなかったし、今でも恨んでいないし、これからも恨むつもりはない。

 自然界においては、そういうこともあるだろう。

 お前は生き延びるために、全力を尽くせばいい。

 この世界の命には、等しくそれをする権利がある。

 いまできるすべてを使って、まわりのすべてを利用して。

 卑怯も酔狂もすべてを併せ呑んで、ひたすらに生きようとする。

 泥臭く、意地汚く、狡猾に、しぶとく、あの手この手で、生を追いかける。

 それが、生き足掻くということだろう。

 それを教えてくれたのは、お前たちだろう?


 手に提げたナイフに滴る血は、少ない。

 ズールの右後ろ脚の内側を、浅く切り裂いただけだ。

 だが――そこには細い血管があるだろう。

 お前が動き、脚に血液を送り続ける限り、血は止まらないだろう。


「俺と、カノンで――これで、2手。

 この2手分を、お前は――燃え尽きる前に、取り返せるか?」


 煽るように放った言葉の意味を、理解したわけでもないだろう。

 だが、目の前の獣は、俺の言葉に――


  ――……ゥゥ、ァオオオオォォォォ――――ンッ!!!


 気高い遠吠えで、応える。

 ぶわりと広がった、血塗れの体毛。

 そこに、戦意の揺らぎは微塵もない。

 いや、それどころか――


「……いや、すごいよ、お前。……ちょっと涙出そう」


 1対2という不利な状況で。

 最初から致命傷を負っていて。

 飢えていて、渇いていて。

 それだけ血を流して。

 手足もガタが来ているだろうに。

 傷つけば傷つくほど、

 死に近づけば近づくほど、

 その炎は燃え上がるのか。

 その炎を、燃やせるのか。


「やっぱりお前は――俺の師匠だよ」


 かつて俺と出逢ったのがお前でも、俺はいまの俺に辿り着いただろう。

 お前らという過去からの幻燈が、俺をここまで照らし続けたんだ。

 それを目指して、この胸の中に育んできた灯。

 その灯は、今のお前の中にある火よりは、ずっと弱いかもしれないけど――


「負けないぜ、師匠」


 ああ――知ってるぞ。

 師匠のことは、それこそ死線の先まで知っている。

 どうせまだ、限界じゃないんだろう?

 まだ、出せる力があるんだろう?

 それをしたら、自分の身体が壊れてしまうような。

 本能に、リミッターを掛けられているような。

 そんな底力が、まだ、あるんだろう。

 お前のポテンシャルは、まだまだ――そんなんじゃない。


  ――……ゥゥ、グルル、ルルゥ……ッ!!


「来いッ!! ズールゥゥッ!!」



 そして戦場は、さらに加速する。

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