vs " Z "(8)

 その身体に穿たれた、太い鉄杭の貫通痕。

 右前脚に開いた、小さな貫通痕。

 右後ろ脚につけた、浅い裂傷。

 それらすべてから、真っ赤な命の雫を漏出しながら。

 流した血に塗れ、それを舞い散らせながら。

 それでも目の前の獣は止まらない。

 それどころか、俺たちという獲物を狩り立てるその動きは、さらに加速する。

 命そのものを燃やして、さらにさらに、煌々と輝く。

 その輝きに、目が眩んでしまいそうになる。


  ――……ゥゥ、グルル、ルルァァァアッ!!


「来いッ!! ズールゥゥッ!!」


 震えるような胸の高鳴りを覚えながら、目の前の獣と対峙する。

 目の前の獣が――吼える。


  ――……ゥゥ、グルル、ルルァッ!!


 空間が弾けるような初速。


「うぐっ――」


 大気が唸りを上げる加速。


  ――……ゥゥ、グルッ!!


 目にも止まらない最高速。


「っ――ぎっ」


 端緒を捉えられない跳躍。


  ――……ルルァァァアッ!!


 目視で追いきれない着地。


「……っはぁっ――!!」


 旋回、疾駆、旋回――


  ――……ゥゥ、グルル、ルルァァァアッ!!


 それらすべてが連なり重なる、途切れない連撃。

 まるで時計を早廻しするように、すべての行動が一段階加速したような猛攻。

 行為が連続している間は、もはやわずかな思考を差し挟む余地もない。

 身を捻り、臓腑を押し潰し、体躯を圧縮し、躱す。躱し続ける。


(……ぐぅッ!)


 獣の巨腕を大きく躱し、跳ね飛んだ先。

 散々に抉れて土くれが露になった、赤黒く染まった地面。

 重く湿ったそれを、ずたずたに擦り切れた手のひらで跳ねつける。

 熱を持った手のひらから腕へと伝う、なにか赤いもの。

 それが獣の流した血なのか、それとも自分の流した血なのか、それすらもわからない。

 大丈夫だ、いまだ致命傷は貰ってはいない。

 だが――


(……気のせい、じゃないよな、たぶんッ!!)


 傷痕から流れ出る血を、棚引かせるように舞う獣。

 その動きが、加速しつつある。

 血を流し続けているということは、身体が軽くなり続けているということだ。

 動けば動くほど、死の淵に近づき続けているということだ。

 その2つが、目の前の獣の動きを加速させる。

 もう、目で追うのがやっとだ。

 その瞬発力には、とっくの昔に着いていけなくなっている。

 あとはもう状況判断で、見極めて、見切って、あてずっぽうに。

 あいつが跳ぶ前に、躱す体勢を作り続けるしかないッ!!


  ――……ゥゥ、グルル、ルルァァァアアアアアッ!!


 ひと際高い唸り声を放った、目の前の獣。

 再三こちらに飛び掛かるように、後ろ足を縮め――地面が爆ぜる。

 目の前に迫る巨体を、これまで通り紙一重で左に躱し――


(――ッ!? いや、これ ちが――)


 その思考を完遂する前に、両の眼が反射で、獣の動きを追い――


  ――ベチャッ!

 

「うッ!!」


 ぺちゃりと湿った、生暖かい、なにかが

 生臭い液体が、眼前に、張り付き、


(目――目が、見え――)


 いや、あいつは向こう側に跳んで行ったはず――

 なんでこっちに血が――


  ブォンッ―― バシィンッ!!


ッ――」


 不意に顔面に叩きつけられる、湿った衝撃。

 まるで鞭で打たれたような、鋭い痛み。

 思考は断ち切られ、真っ白に染まり。

 たたらを踏むように、後ろに下が――


「――フーガくんっ!! 右からっ!!」

「――ッ!!」


 なにも見えないまま、咄嗟に上体を反らせ、背後に跳ねる。

 直後、右から迫りくる、風切りの――


  ――ガォンッ!!


「がッ――」


 まるで横から丸太で殴りつけられたような衝撃。

 それは掠めるように、俺の腹の前面を擦り――通り過ぎ――


「――げぶッ!!」


 一瞬の浮遊感のあと、背中になにか硬いものが叩きつけられる。

 全身がばらばらに砕けたかのような強い衝撃。

 身体が――思うように動かない。


(……ッなんだ、なにが起こった!?)


「フーガくんっ!! 立って――こっち見て、ずーるっ!!」


 なに、立って――?

 ……そうか、俺、弾き飛ばされて――


(……ッ痛ッてぇ!! なんだこれッ!)


 脇腹に宿る、いまだ白熱する焼きゴテを押し付けられたかのような灼熱。

 裂くような、引き攣るような、抗いようのない熱が。

 ビクリビクリと、痙攣する身体が呼吸を乱す。


「ぐぅ―― ゲホッ……ッ!」


 震える両腕で跳ねるようにして無理やりに身体を跳ね起こし――失敗した。

 脚に力が入らず、前のめりに膝から崩れ落ちる。


(せめて、視界を……ッ!!)


 腕で目元を擦れば、ぬるぬると、なにか生暖かい、滑った感触がある。

 拭い――きれないッ!


(――そうだ、ポケットッ!!)


 ポケットに突っ込んでおいた布切れで、目元を拭う。

 じわりと滲む視界、そこには――赤いものが映る。

 手元にある、血塗れの布。

 それはやはり――血。

 だが――先ほどの衝撃は――いやッ!

 んなこといまはどうでもいいっ!!


「――カノンッ、無事、かっ……!?」


 眼窩を焼く痛痒を無視し、カノンの姿を探す。

 赤くぼやけた視界のなか、遠くに、じりじりと距離を詰めるズールと対峙しているカノンの姿。


(なぜ――いや、そうか)


 あいつはまだ、カノンのことがよくわかっていないのか。

 俺とちがう挙動をする、よくわからない新手の獲物。

 先ほどカノンが放った殺気も、その足を鈍らせていると見える。

 今すぐこちらに注意を向けさせたいが、まずは現状確認だ。

 いったいなにが――起こった?


 目元を拭った血塗れの布に目を落とす。

 そこには、なにか細長い、血塗れの糸のようなものが付着している。

 薄い灰色の、これは――毛?


(……ッ!!)


 そうして目を上げ、再びカノンと対峙するズールの方を見る。

 血にまみれた、ズールの胴体。そこからだらりと垂れ下がる、血塗れの――


(……まさか、尻尾ッ!?)


 俺に血の目つぶしを喰らわせ、そのまま俺の顔を引っぱたいたもの。

 それはまさか……あの尻尾かッ!?

 飛び掛かっている最中に空中で身を回して、血塗れの尻尾を叩きつけてきやがった。

 油断していたつもりはなかったが、完全に不意を突かれた。

 つまり、油断していたのだ。

 あの巨体で、そんなことをしてくるはずがない。

 あの傷で、しかも空中で、そんな身体制御ができるはずがない、と。

 さいわい目を瞑ったままだったから、目を完全に潰されてはいないが――


(……。)


 先ほどから熱い熱を持っている脇腹に目を落とす。

 目を潰された直後にどこからか飛んできて、躱し損ねた追撃。

 油断の代償に刻まれた傷。深々と刻まれた失敗の証。

 革のベストが大きく裂け、その下のインナースーツも裂け、その下の――肌色の皮膚から。

 じわりと、血が滲んでいる。

 その傷は、脇腹から腹部に掛けて、擦り切るように続いている。

 さいわい、モツが漏れ出しているようなことはないが――


(……やべぇ……マジで、痛ぇッ、なっ……!!)


 脇腹の少し上あたりから響く、重苦しい痛み。

 そこにあるのは……肋骨の一番下くらい、だよな。

 ベストの破れ方を見るに、ただ前脚が掠っただけだろうに――それで、これかよ。

 脇腹のあたりの破れた皮膚の下から、ぞぷりと、血が滲みだしてくる。

 その血は――止まらない。


(――ッ)


 痛い、熱い。

 脳がちかちかする。

 視界が白くなる。


 頭の底で、

 なにかが、

 冷たく、

 なって、

 いく。


(……。…………)


 冷えた

 思考に

 反して


(――。――――)


 胸の

 火が


(  。    )


 灯る。


 頭の片隅に聞いた。

 それは、カチリという硬質な音。

 それは、火打石の音のようで。

 それは、確かな火を胸に灯した。


(……よし。)


 頭が、冷えた。

 心が、暖まった。

 いい、痛みだった。

 ああ、本当にこれは、いい痛みだ。

 俺は、この世界でも――生きている。

 まだ、まだ、こうして、生きている。


(……おはよう。フーガ


 そして、悪いなフーガ

 ぬるい動きをしてしまった。

 痛い、力が入らない、とか言って。

 膝から崩れ落ちるとか、笑えるよな。

 前にもあいつの前で、同じような死に方したってのにさ。

 カノンがいなかったら、俺はこの戦闘中で3度目の死を迎えていたところだ。

 赤く濁った唾を一つ吐き捨てて、誰ともなく宣言する


「……すまんな、カノン。もう大丈夫だ」


 目が、覚めた。

 今まで俺はフーガじゃなかった。

 本当の意味で、俺じゃなかった。

 現実世界の俺が、俺を演じていただけだ。

 この痛みが、俺と俺が一致させてくれた。


 だから、そろそろ、俺らしくしよう。

 望むまま、あるがままに、やろう。

 ワンダラーとして、愉しもう。

 そうしてようやく、俺はズールと同じ舞台に立てるんだ。



 *────



 これまでのように飛び掛かってきたアミーを、これまでのようにフーガくんが躱した。

 相変わらず、なんで避けられるのか、さっぱりわからないような動きだったけど。

 それでもたしかに躱した――はずだった。


 わたしは、その瞬間を見ていた。

 フーガくんの身体を通り過ぎる瞬間、アミーの胴が、ぎゅるんと回って。

 その身体を振り回して、その尻尾をフーガくんに向かって叩きつけようとして。

 距離が近すぎて、アミーの身体全体の動きが見えていないフーガくんは――気づいてないっ!


(――っ!!)


 避けて、と、声を出したつもりだった。

 危ない、と、叫んだつもりだった。

 だが――その言葉を放つ前に、宙を舞うアミーの身体が躍動する。


  ブォンッ―― バシィンッ!!


 鞭のように唸る尻尾が、フーガくんの顔に当たる。

 その尻尾は血塗れで、湿った音が響く。

 フーガくんの顔が――鮮血に染まる。

 ふらふらと、後ろによろめいて――


(ひぁっ――!!)


 頭のなかが真っ白になって、そうしてようやく、わたしの口が動く。


「――フーガくんっ!! 右からっ!!」


 その言葉は、どう考えても、遅かった。

 だってもう、わたしが叫んだそのとき。

 よろめくかれの近くに着地したアミーの前脚が、かれの胴を薙ぎ払うところだったから。


 だけど。

 その声が、届いていたのか、届いていないのか。

 フーガくんはわけのわからない反応で、それを躱した。

 躱した――はずだ。

 後ろに、飛び退いて――宙を舞う。

 そのまま、背中から――落ちる。

 それを追う、アミー――


「フーガくんっ!! 立って――」


 ちがう。そうじゃない。

 わたしは、なにをしているんだ。

 わたしは、なにを呆けているんだ。

 そうじゃないだろう。


 だから、わたしは再び、情けなく震える声で、叫ぶ。

 その獣に、敵意を向ける。


「――こっち見て、ずーるっ!!」


 それでも、わたしにできたのは、精一杯叫ぶことだけだった。

 アミーに向かって、走り出すことも。

 なにかを投げつけることも、できなかった。

 頭のなかが、まっしろになる。

 フーガくんの、身体が、赤くて。

 でもそれは、きっと尻尾の血で。

 だからだいじょうぶで。

 だいじょうぶなはずで。

 ちゃんと避けたから。

 だいじょうぶだから――


「――カノンッ、無事、かっ……!?」


 遠くから、焦ったような、かれの声が、聞こえる。

 だいじょうぶだった。

 かれは生きている。

 だいじょうぶなんだ。

 だから――わたしも、ここで死んじゃ駄目なんだっ!!


  ――……ゥゥ、グルル、ルル……ッ!!


 威嚇するような声を放ちながら、こちらにアミーが近寄ってくる。

 フーガくんにそうするように、飛び掛かって来ない。

 アミーにとってわたしは、そうする価値もないのかもしれない。

 フーガくんを追い掛けるときのように、全力を出さなくても、殺してしまえる。

 そう、思っているのかも――しれない。


(……実際、そうかも)


 本気を出せば、わたしなんて、小枝のように手折ることができるだろうに。

 そうしないのなら、それでいい。

 せいぜいわたしで、遊んでくれればいい。

 それでも、わたしは、死ぬつもりはない。

 生きてさえ、いれば――


(……あ、れ?)


 また、この感覚だ。

 なんだろう、この感情は。

 目の前の獣が放つ、重圧、殺気。

 そのこわさを塗り潰すような。

 それを上回る、なにか――仄暗い感情。

 それは、わたしのどろどろに似ているけれど。

 でもそれは、わたしを死に駆り立てることはない。

 むしろわたしを、死にたくないという気にさせる。


 ――そして。

 わたしは、その暗い衝動を、知っている気がする。

 とても――よく、知っている、ような――


  ――……ゥゥ、グルル、ルルルルァァ……ッ!!


「――っ!!」


 目の前、もう数歩で届きそうな場所まで、アミーの巨体が迫る。

 まるで自動車の様な、その灰色の大きな身体は――

 よく見れば、もうどこもかしこも血塗れで――

 ずっと唸り声だと思っていたものは、荒い息遣いのようで――

 空いた口腔からは、赤い舌を垂らし提げて――

 ぴくぴくと動いてた耳も、痙攣しているようで――


 目の前の獣から――熱い、熱を、感じる。

 気のせいではなく、物理的に――

 そんな身体じゃ、もう――


  ――……ゥゥ、グルル、ガァッ!!


「――ぁっ」


 目の前の獣が、正面から、飛びついてくる。

 フーガくんにするような、跳ねるような飛び掛かりではなく。

 早歩きから飛びつくような、軽い跳躍。

 そんな跳躍ですら、その大きな身体でされると、

 右にも、左にも、どこにも逃げ場がなくて。

 後ろに下が――っても、押し倒されてしまう。

 目の前から、血に塗れた白い壁が迫る。

 どうしよう。

 どうする。

 どうすれば――


「――左に跳べッ!! カノンッ!!」


 地を蹴りつけた足から、鈍い痛みが伝わってくる。

 目の前の景色が、高速で右に流れていく。

 どうやら、わたしの身体は、左に跳ねた――らしい。


「フーガく――」


 わたしはかれの声が聞こえてきた方を見る。

 傷は大丈夫か。

 動いて大丈夫なのか。

 アミーのようすがおかしい。

 もうだめそう。

 そんなことを伝えたくて、

 なんでもいいから、かれと言葉を交わしたくて。

 元気な姿を見せて欲しくて。


 そして、わたしは、それを見た。

 そして、わたしは――思い出した。


 懐かしい記憶。

 もう何回も、繰り返してみた映像。

 実際に見たことも、数回あるけれど。

 そっちの方が、もっともっと、カッコよかったけれど。

 でもやっぱり、わたしのはじまりは、あの映像なんだ。


 わたしが、はじめて、かれを見た場所。

 フーガというプレイヤーを、見出した場所。

 それは、『いぬ』の世界の中ではなくて。

 それは、小さな画面のなかだった。


 そこに映る、ひとりのプレイヤーの姿に、わたしは――

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