辞世の句(字余り)(本編第47話既読推奨)


 紫暮は鏡の中の自分と向かい合った。炊いた香が充満した部屋にひとり。藤花の香油を髪に馴染ませる。紫暮はふと思うところがあって、化粧箱を開いてはみたが、すぐに蓋をした。おしろいも、紅も、あのひとは好まない。そんなものであのひとの目を奪えるのなら、どんなに容易いことだったろう。

 紫暮は誰もいない家を出た。夜は深く、月は厚い雲の上にあった。突風がさんざん吹き荒み、乱れた髪が鬱陶しく絡みつく。紫暮は、唇を噛んだ。


 月影神社の檜肌の鳥居は、真暗闇に佇んでいた。間隔の狭い飛び石の先の拝殿の錠は、幼い頃にらんが壊したままになっていることは、誰もが知っていた。いつでもここに帰って来られるように、そうしているのだろう。あのひとはそういうひと。髪に二、三度手櫛を通した紫暮は、声も掛けずに、その敷居を跨ぐ。「ただいま」を言うほど近くはないが、「ごめんください」を言うほど遠くもない。


 散らかっていたはずの居間はいつの間に片付いていた。家主——銀麗ぎんれいの背中は縁側にある。長い銀の髪を下ろし、夜着姿の彼は月も星も花もない、くらい庭を眺めていた。微かに鼻につく酒の匂い。紫暮は、眉を顰める。

「お酒を召し上がったのですか」

 振り返った銀麗は「いいや」と口では言うが、紫暮にはお見通しだ。濡れ縁の下を覗いてやると、空になった徳利が三合と、飲みかけがもう一合と、お猪口がひとつ。

「じゃあ、これはなんだっていうんです」

「…………」

「もう、目を逸らさないでったら! 子どもじゃああるまいし!」

 銀麗は「ふふふ」と笑う。すると、すっかり開き直って、再び盃を煽ろうとするので、これだから酒呑しゅてんは始末に負えない。紅焔こうえん様のせいだわ、と紫暮は心内で恨み言を言う。この酒も、最近山に戻ってきたばかりの紅焔が調達したに決まっていた。


「もう駄目ですよ。お体に障ります」

 紫暮はお猪口を取り上げる。銀麗はとかく酒にはめっぽう強いから、一度飲み始めると、一升二升と際限がない。これは宿痾云々以前の問題でもあった。ほろ酔い加減に機嫌の良さそうだった彼は、俄かに悄気しょげる。紫暮は銀麗の隣に腰を下ろした。

「銀麗様があの子たちの『鍵』を開けたんでしょう。私、怒ってるんですよ」

 この日、瑠璃るり也凪やなぎは『銀麗様のところへ行ってくる』と出ていったきり、帰って来ていない。彼女らの行き先には、すぐに予想がついた。也凪の懇願をすげなくあしらったのは紫暮自身である。紫暮が銀麗を恨みがましい目つきで見つめてやると、彼は言った。

「私が代わりに行ってくれと頼んだ。全て私が悪い、私のせいだよ」

「嘘仰らないで。也凪が頼んだでしょう。貴方はいつもそうだわ、子どもたちを甘やかすの。お願いされたら、なんでもそのとおりだもの!」

「ははは。なんでも叶えてあげたいものだよ」

 銀麗は、幼い子どものようなあどけない笑い方で、にこにことした。首を傾げると、髪がさらさらと流れて、藤花の香りが漂う。


 愛しいひと。愛しいひとが自分と同じ香りを纏っている。まるで自分のものになったかのような——錯覚。虚しい錯覚だ。不意に、こうして悦ぶ五感がくすぐったい。紫暮は途方に暮れる想いだった、如何すれば彼に『愛』を刻める。

「それなら、私の願いも聞いてくださいますか」

 紫暮は銀麗を見る。「いいよ。私にできることなら」彼は微笑んだ。

 紫暮は彼の指に指を絡める。唇、彼の唇。薄く重ねる。このときだけは木立の囁きは無音。それは、何処にも行く当てのない口づけであった。ひたりと湿った先端の感覚は、すぐに紫暮から離れる。


「やめなさい」彼は、ごく簡単にそう言った。つい先刻さっきまでの穏やかな笑みが影に潜んだのは、たったの瞬きするだけの間だった。彼に、また微笑み。こうもあっさりと無かったことになる。

 紫暮は泣きそうであった。おおよそ、鼻にはつんとしたものが迫り上がっている。何度この胸の内を曝け、無様に散ったことか。だのに、我知らず、また華が咲く。彼が愛しくてたまらない、摘んではくれまいかと蕾んでは、切なくなってたまらない。たった一度だけで良い。ひとたび、ひとたびむすめのようにその胸に抱かれ、眠りたい。紫暮は、彼のためにひどく諦めの悪い女になっていた。

「嫌です。嫌ったら嫌。絶対、嫌」

「子どもじゃあるまいし」

「ええ。もう子どもじゃないんですよ、私」

 紫暮は震えた。いとまない己が欲深さが溢れ、さぞ目も当てられぬ姿だったろう。

「最初から、貴方の子どもなんかじゃない……!」

 言って、紫暮は彼に再び口づけたが、それは形ばかりだった。彼は主だって腰が引けるだとか、拒むことも無かったが、かといって受け入れも、求めもしなかった。ただ、唇同士がぶつかる。それだけ、としか言いようのない、紫暮にとっては酷な代物だった。

「……こんな夜更けに独り帰される女がどれだけ惨めか、わかりますか」

「そんなものどこで覚えた。私は教えていないよ」

 紫暮はさめざめと袖を濡らした。貴方が振り向いてくれないから、と溢すと、彼は少し間を置き、ややしばらく黙り込む。そうして、最後、「私が悪かったね」と言った。



 ***



 紫暮は、明朝に帰路に就いた。彼には、どうやら昨夜の紫暮の誘い文句を真に受けている節があって、「ひとりで帰れます」と紫暮が三度と一度を繰り返すまで、引き下がらなかった。

 紫暮が銀麗を再び訪ねたのは、その出来事の二日後であった。然もありなん、顔を合わせる気まずさもあり、全身に気怠い熱っぽさまでもがあったからである。紫暮ははなから、たかが微熱ごときに浮かされていただけなのかもしれない。ますますあの晩を恥じ入る想いであったが、このときばかりは彼の病状もこの上なく心がかりであったために、不整頓な心のままに彼の居所へと赴いたのだった。


 異変にはすぐに気がついた。そこらじゅうから、血の臭いが充満していたから。道中、『白兎ウサギ』が一羽もいなかったと紫暮が気づいたのは、ようやくそのときだった。

 紫暮は脱ぎかけの草履くつを転がして、居間に駆け込み、ついに悲鳴を上げた。麗しき銀の髪は、どす黒い血に塗れ、床に転がっていたのだ。

 その血の海にひとり、ひとりの男が佇んでいた。彼が手にした刀はかの愛しきあの方のもので、刀身はどろどろと赤い鮮血を纏っていた。

「ぎ、銀麗様……?」

 紫暮は駆け寄り、愛しいひとを見た。「あ、あ、」もの言わぬ亡骸を見た。血の滑りが温かく、彼の体にもまだ微かなぬくもりがあった。が、脈打つものはとうに果てていた。

「あ、あな、あなた、伊吹いぶきさま、な、なに、を? 何をなさったんです……?」

 男もまた、放心しきっていて、ものを言わなかった。返り血を浴びたまま、立ち尽くしていたのだ。

「なんとか言ってっ——!」

 紫暮のきんと甲走った声にも、男の耳には届かないようだった。ただ目の前のまるまじき光景を不信して、固まっていた。幾度、男の着物の裾をかき揺すろうと、必要な言葉はいつまでも降ってこない。紫暮の全身は緊張で強張っていて、たったの一日と一日の隙間に、崩壊した。

「あなた、あなたのような方が、なぜ?」紫暮は泣き崩れた。「なぜです、なぜなんです、こんな仕打ち、あんまりじゃあありませんか……」

 あのひとの死顔は、綺麗なものだった。よく見た微笑みだ。まるで、仇のようなこの男にもそうやって笑んだろうか。


 ひどいひと。紫暮の涙が彼の頬を滑る。一粒、二粒。周囲に散った『氷』の粒を残らず溶かしてやる。氷の花弁つぶは手向けた弔いの氷花。彼が立ち尽くした無数の刻を数える。それは紫暮の涙に溶けて、再び彼の顔に涙を落とした。一粒、ひとひら。二粒、ひらひら。

 男は、鞘に血塗れの刀を納めたが、元通りにはならない。鯉口から数寸、剥き出しの刃が覗く。果てに、男の目に涙のひとつもなく、さりとて何ひとつ語らなかった。

 花のない庭だと思っていたが、氷花あだばなが咲いていたようだ。花弁が散ったようだ。これが最後のひとひら。ゆっくりとあのひとの頬を伝ってゆく。男は去った。こうして紫暮は、悲嘆の嗚咽の底に溺れていった。



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