わたつうみ(本編第47話既読推奨)
何故と、誰に問うこともできなかった。一体何故に、強く麗しきあの、敬愛してやまぬあの御仁が命を落としたのか。何故、伊吹は血糊の固まって、刀身が鞘から覗く、御仁の一振りを持ち帰ったのか。
三日月山から戻った伊吹はたった一度、朱鷺の前を知らずか、珍しく深いため息を溢すことがあった。ほとんど初めて聞くものだったと思う。彼はここぞに落雷のごとく叱る者で、平時は泣きも笑いもしない厳格なひとであったために、朱鷺の記憶にはまるでない姿だった。
その息は暮秋のように乾いていた。それ即ち、朱鷺の悟ったときである。然様な故あって、朱鷺は誰にそれを問うことも出来なかったのである。
朱鷺が満月島に着いた頃には夕刻であった。太陽が海の横にあったが、山よりも夏の予感が幾分遠い。さわさわと裏山の木立が緑を纏い始めていた。
朱鷺は社をぐると回ってみたが、
たたらは視界に白布を掛けていたが、まるで庭先を眺めるかのように欄干に両肘を突き、もたれていた。肌寒い海風に攫われた彼女の髪から、血色の良い耳が時折覗く。
彼女は不意に、朱鷺に気づいた。すると、ぱっと顔を喜ばせ、なんと朱鷺に抱きついた。
「
朱鷺は呆気に取られた。彼女が胸に飛び込んできたことと、伊吹だと勘違いした上での行動ということの、その両方に純粋に驚いたのだ。
「……って、あれ。くんくん、この匂い……、もしかして、朱鷺くん……? え、朱鷺くん!?」
「うわ、朱鷺くんだなこれ!? なんで!?」たたらもずいぶん驚いて、ほとんど飛び退く形で朱鷺から離れた。少し複雑な気分になる。彼女が朱鷺にあまり良い感情を抱いていないことは承知していたが、こうも詳らかにされるのは朱鷺とて堪えるものがある。所在の無い朱鷺の両手がそこにあった。
「伊吹様は、少しお疲れのようだから。俺が代わりに」
たたらはふいっと顔を逸らして、唇を尖らせた。
「ふうん、なんだ、そうなんだ。仕方ないよ、お山のお
「たたらが寂しがっていたと、伝えておくよ」
「うん。言っておいて。早く会いに来てーって」
「……きっとすぐにここに来ることになる」
「そう言ってた?」たたらは、再び顔に喜色を浮かべる。朱鷺は言葉に詰まった。
彼女も遅かれ早かれ、銀麗の訃報を耳にするだろうが、果たして朱鷺の口から今それを告げるのは大変気の進まない話であった。まるで、朱鷺が悪意を持って彼女のひとつの楽しみを蔑ろにしたような心地さえする。
「ねえ、朱鷺くんも元気ないの? 大丈夫?」たたらは小首を傾げた。
「私は平気だから、早く帰って休みなよ。朱鷺くんが
「紅丸は寝ているよ。起こさないでくれ」
胡蝶であった。彼女は台所仕事に一段落を付けたろう、着物を襷掛けした姿で向こうからやってきた。彼女は濡れて、赤く冷えた手を手拭いで拭きとっていた。
——伝えなければ。
「胡蝶様、実は」朱鷺は言いかけたが、胡蝶が遮って、
「知っている。もうよい」
彼女は朱鷺の手を取り、その目をしとりと見つめた。朱鷺はそのまま、黙り込む。彼女の手はささくれに荒れていたが、誠実な感触をしていた。
「せっかくだ、二人で散歩でもしてこい。たたらも社にずっと籠っていては虚弱になる一方だろう。少しは体を動かせ」
「えーお外嫌いーお家にいたーい」たたらはぶうと頬を子どものように膨らませる。すると胡蝶は、朱鷺の耳元に口を寄せた。
「少し、頼むよ。これで、昨日は隠れて泣いていたのだ。自分のことすら、戸惑うこともまだ多かろうに、……きっと受け入れがたかろうて」
胡蝶は、消え入るように笑った。「お前とて、いささか堪えたね。ゆっくりしていくといい」
***
朱鷺はたたらの手を取って、別邸の離れよりも向こうの、裏山の方まで回って歩いた。こうして手を重ねてみると、朱鷺とは何もかも違うとわかる。彼女の手は温かく、指の、爪の先まで血が通っているし、肌はおろか骨まで細く、柔らかく——小さい。角のない、手に馴染む小石のようだった。
「朱鷺くんが
「俺は何も」
「言うと思った」
空はうすらと桃色になっていた。そして、足音、二つ分。「木の根で段差になっている」。息と、手の握り方の強さ。そのうち、たたらのため息だ。ほろほろろ、と影を落とす鳥の鳴き声がある。
「なんか喋ってよ」
「元気か」
「うん」
「そうか」
すると、ややしばらくして、たたらは少し不機嫌そうな顔になるや、「……それだけ?」
「考えている」
「ほら、話すことないんじゃん」
たたらは自嘲気味に笑った。よくも、あのたたらが皮肉らしい笑い方をするものだ。そして、彼女をこんな顔にさせるのも朱鷺で違いなかろう。朱鷺は未だ『何か話して』の答えを見つけられずにいる。
「私と一緒にいてもつまんないよね。ごめんね」
「もう帰ろ」彼女は言った。「付き合ってくれてありがと」
また、こうして言葉は見つからない。足早な彼女は、いつも朱鷺の言葉を待ってはくれないのだ。朱鷺はたったこれだけのことが言えない——とても元気には見えない、と。
しかし、彼女は「元気だ」とはっきりと頷く。例えば、殊更睦んだ
不意に、たたらは海を眺めていた。ときに、それに語弊があるは承知していたが、そう表す他なく、彼女は白い白布の裏の両の目で陽を沈める海を眺めていたのだ。朱鷺は彼女のようにそれを見て、はっと息を呑む。
「海が綺麗だ」
朱鷺はたたらの手を引いた。彼女はどうということもなく、ごく極めて静かに口を閉ざして、おもむろに朱鷺に付いて歩いた。
夕暮れの名残火が、地平線の彼方で燃えていた。
一面の海は一筋の赤い涙を流しているようだった。深い青の上に滑る、鈍い光沢を放って、陰影が鮮明。さざ波の声は潜み、沈み、延々揺れていた。
朱鷺はひとつ、波のまにまの、物寂しい様子を言葉にした。またひとつ、太陽の強烈な様子を言葉にした。空の様子はこうで、薄い雲の色はこうで、一等星の輝きはこうだった。そして、海の果てを目指す、海鳥の影を数えた。
たたらはじぃっと海と目を合わせ、黙りこくり、その上で耳を澄ませていた。身じろぎのひとつもせず、朱鷺の胸の近い場所で脈打つ彼女の鼓動だけが動いている。
「下ろしていいよ」唐突に、彼女は言った。彼女は、全く海に目を奪われていた。足元のすぐそばで、湿った砂と乾いた砂の僅かな境目が出来ていたから、朱鷺は慎重に彼女を下ろしてやる。波。さざ波。引く——寄せる。濡れてしまいやしないだろうか。朱鷺は、たたらの手を握った。それはじんじんとした、切ない熱を帯びている。
「きれい。今まででいちばん、とっておきの、いちばんだよ」
微かに指が混ざる。たたらもまた、朱鷺の手を握った。
「また見たいな。朱鷺くんが見てる海」
「いつでも貸そう。この手もこの目も、不要となるそのときまで」
——たたらが、そう望むのなら。
こうして、太陽が海の向こうで眠りについたとき、朱鷺は、彼女にかの御仁の訃報を伝えた。その間、冷えた波が幾度も寄せては返したために、彼女の足元は濡れていた。
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