3話なのにゃん‼︎ 転生しちゃったはず

「ユーキ、ユーキっ。目ぇ覚ませっ。おまえまでいなくならないでくれっ。俺をひとりにするなっ」


 朧げながらではあったが、わたしの頭上で、わたしを呼んでいるような声が聞こえていた。次第に、その声は大きくなり、明瞭になっていく。そこにわたしの名前を聞き取った時……、目が覚めた。






 わたしが目を開けた時、そこにいたのは、必死の形相で叫んでいたお兄ちゃんだった。


「お兄……ちゃん?」

優希ゆうきっ、だいじょうぶかっ? ケガはっ?」


 その声からは、悲壮感とか安堵感とか、とにかく、いろいろ混ざり合った不思議な感情を読み取ることができた。

 それから暫くの間、見ているわたしが恥ずかしいくらいに、お兄ちゃんは、ボロボロと涙を零しながらギュっと抱きしめたり、ソロソロと頭を撫でたりしてくれていた。


「わたし……、車道に飛び出しちゃったんだ? でも、どうして……?」

「優希、覚えてないのか?」


 わたしを正面から見据えるその瞳には、不安の色が浮かんでいた。わたし、なにか、いけないことを言ったの? 覚えてないのか? って、なんのこと?






 そのあとがたいへんだった。

 翌日、念のためと言われて受診させられた病院で、お兄ちゃんと一緒に、検査の結果を聞かされた。

 特に外傷もないって言われて安心したんだ。でも……。



 一時的な記憶障害ですね……って、医師せんせいに言われた時のお兄ちゃんは、凄く険しい顔をしていた。

 お父さんたちが揃って事故で亡くなった時でさえも、わたしにはぎこちなくも笑顔を見せてくれていたというのに……。うん、それだって、無理してたのは判ってるんだ。

 だから、わたしは、お兄ちゃんの前では泣かない……って、約束したんだけど……。


「約……束?」


 あれ……? 誰と約束したんだっけ? お兄ちゃんの前でそんなこと言ったら、余計に心配させちゃうから、お兄ちゃんとのわけないし……。あれ……?

 わたしが、今、思いだそうとしている記憶は、真っ白い靄がかかったように、フワフワとした光景が映しだされている。これ、なんだろう? なんか、モフモフしてるような感じもするけど?

 この時、誰かが慰めてくれたような気がするんだけど?






「おい、……イヤ、お、お兄ちゃん?」

「げ……? どうした優希、眠れないのか? ちょっと待ってろ」


 今、わたし、お兄ちゃんのこと、なんて呼ぼうとしたの?

 最初、お兄ちゃんは一瞬だけ怪訝そうな顔を見せたけど、読みかけの本を置いてキッチンへと姿を消した。

 わたしは、それまでお兄ちゃんが座っていた場所に座る。なんだか凄い落ち着く。そして、ソファに残ったお兄ちゃんの温もりを感じながら、その背中が消えた先を見つめていた。

 あぁ、なんだろう。なんだかほっとする。この温かさが安心する。



 そんなことを考えながら、何故か、今頃になって落ちてきた瞼を必死に堪えて、ウトウトしていると、お兄ちゃんがお揃いのマグカップを手にして戻ってきた。


「ほら、体を温めるとよく眠れるって言われてるから……」

「うん、ありがと」


 わたしは、お兄ちゃんからそれを受け取る。そこから、ふんわりと立ち昇る湯気に息を吹きかけ、中身の匂いを嗅いでみる。凄く甘い匂いが、わたしの鼻腔にも優しく届いた。


「優希、ココア好きだったろ? 夏場でもホットココアだもんな。それも、甘いヤツ」

「うん、そうだったねぇ。お兄ちゃんの作るココアが美味しいんだよ……。わたしに初めて作ってくれたのがホットココアだったよねぇ……。いまだに、その味は忘れてないよ」


 わたしは、恥ずかしかったけど、自分の右側が少しだけ暖かいのが気になってはいたけど、気にしてない素振りでお兄ちゃんを褒めまくった。



 ちょっと褒めすぎちゃったかな? お兄ちゃんも何故か頬を紅くしてるし……。

 ん? お兄ちゃんの瞳がすぐ近くにある。吸い込まれちゃいそうだ。


「おい、優希、危ないから、カップ持ったまま擦り寄ってくんな。溢したらどうする?」


 お兄ちゃんの慌ててるような言葉が、すぐに理解できなかったわたしは、そっと下に視線を落とし、右側にズラしてみた。

 あぅ‼︎ わ、わたし、お兄ちゃんの左腕に抱きついてるっ⁉︎ それに、頬擦りしてるっ⁉︎ ど、どうして? いつから? イヤイヤイヤ、そもそもどこから?

 動揺しまくりのわたしの手から、お兄ちゃんがマグカップを取り上げた。それをローテーブルの上に置いた後、お兄ちゃんの右手がわたしのおでこにあてられた。


「ちょっと熱いぞ」

「そ、そぉ……かな?」

「この季節に風邪か? 夏風邪は長引くからなぁ。風邪薬飲んどこうか? 咳は? のど痛いとかは? えっと、それから……」


 お兄ちゃん、ちょっと落ちついてほしい。真実は、お兄ちゃんに、知らないうちに抱きついてたのが恥ずかしかっただけだから。羞恥心に耐えきれなかっただけなんだからね。

 う〜ん、これじゃあ、わたしがお兄ちゃんを好きだ……っていってるように聞こえちゃうから、こんな言い訳は使えないよね? 好きだ……は間違いないんだけど、それは、お兄ちゃんだから好きなのであって……。う〜ん、困ったなぁ。

 わたしは、動揺を隠すために、お兄ちゃんに持っていかれたマグカップを、もう一度手にした。そして、自分を落ちつかせるために、お兄ちゃんが作ってくれたココアをそっと口に含んだ。


「あつっ……」

「だいじょうぶか? イヤイヤ、そんなに熱くした覚えはないぞ⁉︎ それに、作ってからもうだいぶ経ってるじゃねぇか。優希おまえ、猫舌にも程があるぞ⁉︎」


 猫舌って言われてもしかたないよね。だって、口をつけた瞬間は熱かったんだもん。

 あれ? でも、カップはそんなに熱くないや。どうしたんだろう? わたし、なんか変だ……。






 それから、暫く経ったある夜。

 お風呂上がりの体にバスタオルを巻いて、お兄ちゃんのいるリビングに乗りこんでいった。お兄ちゃんの反応を見てみたかったからね。どんな顔するかなぁ? 興奮して襲われちゃうかなぁ? きゃぁ〜、兄妹なのに、いけない妄想しちゃってるぅ、わたしったら。



 わたしのあられもない格好を、お兄ちゃんが……呆然と見つめていた。口はだらしなくぽかんとあいている。

 その表情がかわいくて、ついでに、バスタオルの端っこを、ちょこっと捲ってみたりして……。うん、下着はつけてるからだいじょうぶ⁉︎ あっ、ジト目で睨まれた。

 それだけかぁ〜。なんか、反応が薄いなぁ。

 むぅ〜、それなら……。


「あぁっ、お兄ちゃんたら、実の妹に欲情してるぅっ‼︎」

「してねえよっ‼︎ というか、かくなにか着てこい‼︎ それに、髪くらい乾かしてから出てこいっつうの。また、風邪ひくだろが⁉︎」


 髪? 濡れたまま出てきちゃったんだ? でも、こんなの、すぐに乾いちゃうよ。

 そう思って、頭をブンブンと振ってみた。髪に残っていた水分が、綺麗な雫になって、あたりに飛び散る。

 うわぁ……、お兄ちゃんのこの複雑な表情はなんだろう?


「おい、優希、リビングがズブ濡れになってるっていう事実は理解してんだろうな?」


 はい、ごめんなさい。そう素直に思えるほどに、フローリングの床には、水滴が飛び散っていた。



 お兄ちゃんに叱られ、パジャマに着替えてリビングに戻ったら、お兄ちゃんは、わたしが濡らした床を拭いていた。

 その様子を見つめるわたしに気づいて、お兄ちゃんがソファの一点をパンパンと叩く。

 わたしが、言われるまでもなくそこに座ると、まだ乾ききっていないわたしの髪に、温かい風があたり始めた。お兄ちゃんの手が、大胆にわたしの長い髪を梳いていく。

 わたし、ドライヤーの温風って苦手なんだけど、お兄ちゃんのこの手が気持ちいいから我慢できてるんだ。そうそう、その耳の後ろが、特に気持ちいい。

 わたしが、気持ち良すぎて、ウトウトしかけていると……。

 

「優希、おまえ、最近おかしいぞ。なにかあったのか? どこか体の具合でも悪いのか? それとも、俺に気を使ってるのか? 怒らないから正直に言えよ」


 うわぁ、わたしったら、お兄ちゃんに、また心配かけちゃってる。ダメな妹だぁ。もっとしっかりしないと、そのうちほんとうに嫌われちゃう。

 お兄ちゃんだって、お父さんたちが死んじゃってからたいへんだったんだし、わたしまで我が儘言って迷惑かけるわけにはいかないもんね。


陽希はるきは、そんなことで優希おまえを嫌いになったりしないぞ……。そこは信用できるぞ。もっと甘えてやれよ……』


 突然、わたしの頭の中に、こんな言葉が響いた。それは、優しくて暖かくて、それでいて力強いおとなの女性の声のようだった。


「お兄ちゃん、なんか言った?」


 わたしの問いかけに、お兄ちゃんは怪訝そうな表情をしながら首を捻って、わたしの髪を乾かしてくれていた。

 あれ? 今の声、お兄ちゃんじゃなかったの? わたしには、はっきりと聞こえたけど、お兄ちゃんには聞こえてないのかな? わたしにだけ?






 ここ最近、お兄ちゃんは、わたしの異変を気にして、いっぱい気遣ってくれる。

 嬉しいし、う〜ん、幸せ‼︎ なんだけど、お兄ちゃんに負担ばかりかけるわけにはいかない。

 そう思って、今日の夕飯は、わたしが作ることにした。

 まぁ、お料理もお兄ちゃんのほうが上手なんだけどね。お兄ちゃんの作るご飯は美味しいんだ。

 それなのに、お兄ちゃんは、わたしが作ったモノを、いつも、美味しい……って言いながら食べてくれるんだ。

 わたしは、そんなお兄ちゃんが大好きだからね。今日は、ちょっと、がんばっちゃうんだ。



 お野菜やお肉の下ごしらえをすませて、最近、ちょっと苦手な玉ねぎをどうしようか悩んでたところに、お兄ちゃんが声をかけてくれた。


「優希、玉ねぎ……苦手だったか? 以前は、普通に食べてたよな?」

「そうだった? う〜ん、でもね、なんか体がダメって訴えてるんだ。嫌い……とかじゃなくて、ダメ……って」

「そうか、なら、無理しなくていいぞ」

「うん、ありがと、お兄ちゃん」


 こんな、調理中の会話でさえ、お兄ちゃんはわたしに気を遣ってくれる。それが、本当に心地いい。わたしには、もったいないくらい、できたお兄ちゃんだ。

 その大好きなお兄ちゃんに喜んでもらうんだ。



 わたしの顔はニヨニヨしていたと思う。

 その浮かれた気分のまま、フライパンを用意し、油をひいて、コンロの点火スイッチを押した。

 ボっと、小さな音がして、青い炎がフライパンの底を撫で始めた。



 わたしの記憶は、そこで途切れた……。






 わたしが目を覚まして、最初に見たのは、憔悴しきった下僕はるきの姿だった。

 下僕が、目を覚ました優希に向けて、なにかを叫んでいる。

 だいじょうぶ、下僕おまえの言葉は聞こえてるし、わたしには届いている。優希だって聞こえてるはずだぞ。

 おい、優希、大好きなお兄ちゃんが呼んでるぞ。起きあがってにっこりしてやらないと、下僕こいつの心配がおさまらないだろ?

 なぁ、優希? わたしの言葉が届いてるよな?

 優希……? なぁ……。



 目を覚ました優希の瞳には、下僕の姿がはっきりと写し出されている。下僕の声も、優希の耳から飛び込んできて、意味だってわかるんだ。

 それなのに、どうして……体が動かない? どうして……大好きな兄に抱きついていけない? わたしの所為せいなのか?

 優希、返事をしろっ。どうか……、返事をして……ください。






陽希はるきぃ……。このままじゃ、優希が死んじゃう。助けてよぉ。なんとかしてよぉ」


 目覚めていても動くことさえできない、優希の小さな唇から、そんな悲痛な言葉が溢れだした。


「おまえ、誰だ? 優希じゃないのか?」


 下僕が疑いの眼差まなざしでわたしを見つめている。でも、誰だ……はないだろ?

 まぁ、優希もわたしのことを覚えてなかったからなぁ。下僕の記憶からも消えちゃったんだな。寂しいけど仕方ねぇか。

 わたしが、ひとりで勝手に納得して完結した時、陽希の口から、言葉の続きが聞こえてきた。


「もしかして、ユキ……なのか?」


 下僕の、その問いかけに、わたしは小さく頷いた。

 そして、呟いた。






「優希の体に、ねこまたとして転生しちゃったみたいなんだ……」

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