甘いビールと苦い夏

 1ミリも塗り残しのない、一面真っ青な快晴に浮かぶ太陽が、肌を焦がさんとばかりに照りつける、そんな絶好の海水浴日和。地元の海水浴場は、形も大きさもバラバラな、色とりどりのテントやパラソルで彩られ、夏を楽しむ人の多さを物語っていた。

 その片隅に、一軒の古びた海の家が、こぢんまりと建っている。私はその海の家のテラス席で一人、追憶にふけっていた。


 あの夏が詰まった、甘くて苦くて、普通のビールの数倍は不味い、そんなビールを飲みながら。


◇◆◇◆◇


 15年前、当時大学2年生だった私は、夏休みの帰省中、叔父の経営する海の家でアルバイトをしていた。いかんせん大学生というのは常にお金が足りない生き物で、少しでもお金を稼ぎたい、という思惑があったのだ。叔父はとても優しく、客も顔見知りの常連さんが多かったから、のんびりと、楽しい毎日をおくっていた。


 そんなある日、おそらく大学生くらいであろう、見知らぬ若い男性3人組が客としてやってきた。彼らはいかにも仲のいい友だち同士といった感じで、ビールを片手に、まるで子どものように騒ぎ倒していた。

 それだけであれば、どこにでもいるような客として、翌日にはもう記憶の中からいなくなっているような、そんな存在だっただろう。

 しかし私は、その3人組の1人に目を奪われてしまっていた。その彼は、とても美味しそうにビールを飲んでいたのだ。

 ほんの数日前に20歳になったばかりだった私は、両手で数えられるくらいしかお酒を飲んだことがなかった。しかもビールに至っては、試しに飲んでみたときにその苦さに耐えられず、たったの一口舐めただけで、それ以降飲みたいと思うことは無くなっていた。

 そんな私から見ても、彼の飲むビールは、まるで甘いジュースのように美味しそうに見えた。だから、つい声を掛けたくなったのだった。

 「ビールって、そんなに美味しいですか?」

 「ん? おう! お嬢ちゃんも飲んでみるか?」

 「いえ、結構です。あと、私もう20歳ですから。お嬢ちゃんなんて歳じゃないですよ」

 少しだけ、ムッとした態度をとった。今思えば、いかにも子供っぽい。

 「おっと、そうだったか! でもな、ビールの美味しさが分からないようじゃ、まだまだ子どもだぞ?」

 「なっ……」

 ガッハッハッと笑う彼を後目に、私は早足でキッチンへと戻った。

 ハッキリ言って、ファーストコンタクトは最悪だった。この時はもう、二度と顔を見たくないとさえ感じていたほどだった。

 


 しかし、翌日、お昼時もとっくに過ぎた時間帯に、彼は再び姿を見せた。

 ここを気に入ってくれたのか、それともただの気まぐれか。とにかく、彼は前日と同じように3人でビールを飲んでいた。

 一方の私はというと、そんな彼らとなるべく顔を合わせないようにした……なんてことはなかった。前日に覚えた怒りが、一晩寝かせたことにより、「彼に一泡吹かせてやりたい」という衝動へと昇華していたのだ。

 

 ただ、問題なのはその方法だ。

 目の前でビールを飲み干してやれば済む話だが、言うは易く行うは難し。この短期間でビールを美味しく飲めるようになっているはずもなく、試しに再度一口飲んでみたが、案の定それが精一杯。これをそのまま飲み干すのは、いくらなんでも不可能だった。

 他の策を考えてはみるものの、湧き出るのはアイデアではなく汗ばかり。名案が浮かぶ気配も見せないまま、キッチンの隅で一人頭を抱えていた。


 「大丈夫? しんどかったら休んでもいいのよ」

 余程様子がおかしかったのだろうか、キッチンに立っていた叔母に心配されてしまった。

 「ああ、うん。大丈夫大丈夫! ちょっと考え事してただけだから」

 「そう、ならよかった。じゃあ、ちょっとこれこの棚に戻しておいてくれる?」

 「はいはーい」

 手渡された調味料の詰まったカゴを、言われたとおりに片付ける。

 と、そのとき、棚の中に仕舞ってあった、白いものが詰められた透明な瓶に目が留まった。

 「もしや」と思い、それを棚から取り出す。蓋を開け、中に入れられていたスプーンで白い粒を少し手に取って舐めた。

 「やっぱり……!」

 少量舐めただけで疲れが吹き飛んでしまうような甘さ。間違いなく、砂糖だ。

 これはもしかしたら使えるかもしれない。そう直感した私は、考えるより先に行動に移していた。

 まず、ジョッキの中へほんの少しだけビールを注ぐ。そして、そこに同じく少量の砂糖を混ぜ合わせると、一気に口の中へ流し込んだ。

 「うん、これならまだいける!」

 甘さと苦みが混ざり合った、不思議な味がした。まるでドリンクバーでいろんなジュースを混ぜ合わせたかのようなゲテモノ感を覚えたが、それもすまし顔でジョッキ一杯分を飲み干せるレベルではあった。このときの私にとっては、ビールをそのまま飲むよりかは数倍ましだった。

 


 ジョッキ一杯分つくった砂糖入りビールを持って、彼のいるテーブルへと向かう。もう日は傾き始め、空が茜色に染まりだす時刻。席の空白も目立ち始めていたが、彼らは相も変わらずそこにいた。

 「あっ、あのっ!」

 「あれ、追加で注文した覚えはないんだが……って、昨日の嬢ちゃんじゃねえか! 何か用か?」

 再びの嬢ちゃん呼ばわりに、なにか言ってやろうとしたが、うまい言葉が見つからず、彼を睨みつけたまま数秒の沈黙が流れた。

 少しの気まずさを覚えた私は、言い返すことを諦めた。そしてそのまま、手に持ったビールを一気に口の中へ流し込んだ。

 中身が空になると、ジョッキを机に叩きつけ、座ってる彼を見下すように、渾身のしたり顔を浮かべた。さすがにジョッキ一杯分は厳しいものがあったが、そこは気合いでカバーした。

 「私だって、ビールくらい飲めますから! もう子どもじゃないですから!」

 この間、終始ポカンとしていた彼だったが、私のしたり顔を見るやいなや、急にガッハッハッと笑い出したのだった。

 「なっ、なんで笑うんですかっ!」

 「いやあ、悪い悪い。確かにあんたは大人だよ。そんな立派な白いヒゲを貯えてんだ。もうすっかりりおじいちゃんだな!」

 「えっ、髭!?」

 彼は机の上に残っていたビールを少し飲んでみせた。

 「ほら、仲間だな!」

 そうしてニカッと笑みを浮かべた彼の口周りには、ビールの泡がまるで髭のように付いていた。

 「……ふふっ」

 そんな彼につられて、私も同じように大声で笑った。このときにはもう、怒りも苛立ちも、あらゆる負の感情は吹き飛んでいた。



 その後、私は彼と、茜色に染まる青を眺めながら、浜辺で二人、色々な話をした。彼は思ってた通り大学生で、学生生活最後の夏の思い出作りとして、友だちと旅行を楽しんでいる……と言っていたような気がする。

 確証がないのは、このときの思い出を、私はほとんど覚えていないからだ。何をしたのか、どんなことを語り合ったのか、断片的な記憶しか残っていなかった。どうやらジョッキ一杯ものアルコールは、当時の私にとって体に毒だったらしく、次に意識が戻ったのは、翌朝、布団の中で一人、携帯のアラームに叩き起されたときだった。

 2人で浜辺を歩く光景が、夢か現か分からない程の幽かなものとして頭の中に残っている。

 ただ、携帯の中に残っていた見覚えのない満天の星空の写真と、机の上に置かれていた綺麗な貝殻が、その光景が夢ではなく、全て現実であったことを教えてくれていた。

 

◇◆◇◆◇


 「あーっ!お母さんビール飲んでるー!」

 突然、娘たちに声をかけられた。いつの間にこんなに近くまで来ていたのか、水平線に目をやっていたせいで気づかなかったらしい。

 「あら、バレちゃった。お父さんは?」

 子ども達は、昼食後すぐに夫を引っ張って海に遊びにいっていたはずだった。

 「あれだよ」

 そう言って息子が指差した方向に目を凝らすと、見覚えのある人影がひとつ、まるで砂漠の遭難者のようにフラフラとこちらに歩いてきているのが見えた。

 「もう疲れたってさ。つまんなーい」

 不満そうな表情を浮かべる息子の顔からは、汗が滝のように流れ落ちており、どこにまだ遊ぶ体力が残っているのかと思ってしまう。いくら夫でも、この調子にずっと付き合うのはかなり厳しいだろう。さながら、大人は影の子子どもは陽の子といったところか。

 「そっかー。よし、じゃあお父さんが休憩してる間、お母さんと遊ぼっか!」

 「ほんと!? やったー!」

 「あ、でも水分補給はしておこうね」

 「はーい!」

 キッチンへと走っていく子ども達を後目に、私はまだ半分ほど残っていたビールを一気に飲み干し、ジョッキを空にした。


 あの人に、この味を知られるわけにはいかないから。

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