5.アレキッド

-1- 剥がれ落ちる

 頭が、熱い。

 けれど、氷の地でそれは凍死の原因とでも成り得るのであろうか、案内された部屋には風を受け入れる窓が存在しなかった。


 冷えた夜風を求め、そっと部屋を抜け出る。廊下には少しだけ風が通っていた。

 もっと広い場所が欲しい。そう言えば、大広間の上部に足場が張り出してあったように思える。此処二階ならばそこへ出られるやも知れぬと、風上へ身を翻した。


 皆寝静まっているのか、廊下には物音一つ無い。更に、無機質な石造りの城ではあるが、敷き詰められた赤き絨毯が自身の足音をも響かせない。要所に配された燭台の灯りだけが、静かに辺りを照らし出していた。


 暫く歩み進めると、風の流れが一際大きくなる。求めた場所へ辿り付けた事を確信し、安堵した。……廊下にも身を通せる窓が無いというのは、やり直しが利かぬという事でもあったからだ。

 帰りもただ真っ直ぐと戻るだけで良い。部屋は確か八番目……違う、九番目だったか? いや、七番目?……ああ、しまった、私の悪い癖だ。

 場所を覚えない。後先を考えない。


「故に、このような事になってしまっているのではないか……」


 手摺てすりに両の腕を置き、深く息を吐く。

 この名はもう、捨ててしまおう。今となっては、誰の想いを汲んで名乗っているやも分からぬ。……想いの主にすら脅かされている身なのだから。


 衣服も替えよう。捨てる訳では無い、替えるだけだ。

 ただ、竜の血を拭ったあの上着だけはどうにもならぬと言われた。捨て置き、代わりを頼むか。


「……」


 けれどもう、何もかもが必要無い事なのやも知れぬ。


「姉上、私はどうすれば……」


 呟きは風に乗り、消えていった。

 この地にも彼女は居ない。親族である女王が把握せぬはずが無いのだから。

 尽きぬ吐息と共に、両腕へそっと顔を埋める。

 ……信じられなかった。

 カノンに約束された幸せ。それが私にも、もたらされる? 全く、どの化物を前にそのような軽口が叩けるのか。


「陛下は、可笑しい……」


 ヒトとは共有出来ぬ生き様を、この身は有している。決して相容れられぬその行為。女王へ向かい、それをどうするのかと、気が触れたように叫んでしまった。


 ……すると彼女は、皆で分け与えましょうと、優しく答えたのだ。


「可笑しい、皆可笑しい。やはりこの国は軽率過ぎる」


 顔を伏せたまま妙な笑みを浮かべ、同時に袖を濡らしていた。

 全てを否定しようとする私を、女王は……伯母様は、同じように抱き止めるのだ。あの日の母様のように、優しく包み込むのだ。


 卑怯だ。守り切れるはずなんて無いのに嘘を吐く。私だけを逃がして、生かして、自分は死ぬつもりなのだ。

 何と愚かな事か。何も守れていない。何も生かせてはいない。誰も喜ばない。……私の所為で、その命が終わる。


 そう、最も軽率なのは伯母様でも、この国でも無い。


「……ぅっく、うぅ……」


 彼女の胸であれほど泣き叫んだにも拘らず、再び涙が溢れ出す。必死に口を閉じても、堪え切れぬ声が情けない嗚咽となって漏れていた。


 此処はきっと、安住の地に成り得るのかも知れない。許されるなら、迎え入れられるその手に身を委ねてしまいたい。

 けれど、甘えれば繰り返す。

 あの時と同じように、きっとこの身は何も出来ない。何の力も無い。ヒトを喰らうくせに、ヒトに刃向かえない。自身の半分もそれで出来ているから、その部分が弱い。


 ……私は弱い。今も昔も、ずっと弱いまま。


「っく、やっぱり……御祖父おじいさまのようになんて、なれ、な……」


 顔を上げぬまま、ずるりと滑るように座り込んだ。

 強堅であった御祖父様。愚かで軽薄な常人とは格が違った。


 だから、弱い自分を知ったあの時から、ほうだけでもその強さを得ようと思った。けれど、そんな事で得られる強さなんて表面だけ。固めたはずの決心すらもろく、何度でも崩れる。私があの強さへ達するには、ヒトとしての意思のままでは恐らく不可能。それこそ、“鬼”に徹しなければその威厳には近付けない。


 こうして、ヒトの意思を以て涙を流す事すらも愚かしい。


『……人間である事が、落ち度だとでも?』


 いつかの知らぬ声が、響き渡る。それが誰かなんて、もうどうでも良かった。


『完全なる吸血鬼であったなら、弱さなんて皆無?』

「ええ、そう! それなら非情になれた! 父様も母様も死なずに済んだ! あの場に居た人間なんて、この牙で、爪でっ……その身体、引き裂いて!……ぇっく、あんな町……このっ、この力でっ……ううぅ……!」


 溜め込んでいたものが次々と溢れ出る。自尊心をも捨て醜く吐き散らされたその言葉は、鼻が詰まり嗚咽が混じっていて、自身でも何を言っているのか分からない。


『愚かね。その弱さ、確かな破滅を呼ぶわ。マリエやリリスのように、今度こそ貴女にも』

「もういい!……やくっ……早くそうして!」


 この身なんて、いっそ消えてしまえばいい。

 しかし、それすらも軽率で、今や最も許されぬ事。全てを引き起こした後に身を引くなんて、都合が良いにも程がある。


「私……どう、すれば……」

『そうね。でも、……やはり、初めの出会いは貴女のような人が良かったわ』


 言葉と共に、後頭部を包む感触が宿った。

 声の寂しさに比例するかのように、そっと。


『愚かで愛しい、ファルトゥナ』

「……ファルト」


 名に被さるように、低い声が“今の名”を響かせる。顔を上げ、そちらを見れば、紺碧の瞳が私を映していた。


「なんて顔してんだよ。心配しなくても俺はほら、この通り」


 ああ、そう……そうだ。その名で私を呼ぶ人物なんて、一人しか居ない。


「な? ちゃんと加減すれば、殺さずに済むだろ」


 相変わらずよく動くその口を緩め、見慣れてしまった笑みを湛える。……泣きじゃくり、滅茶苦茶になっているであろう私の頭を優しく撫でる。


 それは、闇へ沈み切った身を引き上げてくれるかのような、力強く大きな手。

 弱さしか持ち合わせぬ心は知らず、それに見合う行動を取っていた。


「愚かもっ……、貴様のようなへんっ、変態っ……っく、うぅっ、わあぁぁっ……!」


 抑える事すら出来なくなってしまった声が、広いその胸へと吸い込まれる。


『完璧なものほど孤独よ。……貴女にそれが、耐えられるはずも無いわ』


 幾ら流しても枯れ果てぬ涙が、今度は彼へと染みていった。






 ようやっと落ち着きを取り戻し、鼻をすすりながらも緩りとその胸から離れる。


「覆面は? ここケトネルムだろ。他のどこよりも必要なんじゃねぇの?」


 質問には説明すべき事が多く、何と返せば良いのかが分からない。否、今掛けるべき言葉を見出す事が出来ない。

 それでもキッドはこちらを見つめ、気の抜けたような溜息を吐いた。


「まあ、どうせ女王の前でその偽名使って、即バレたんだろうけど」


 それを行ったのは私では無い。しかも、ケトネルム王族特有であるらしいあのマントにより、彼女を含める数名は端からこの身がゆかりある者だと見抜いていた。

 それでも、おおよそ的確であろうその言葉に反論する余地も無く、私は目を伏せる。


「妹の娘だもんな。正体が吸血鬼であれ何であれ、匿うに決まってる。……で、お前はここに残るつもりなのか?」


 先程の葛藤が、再び心をえぐる。

 首を振り、ダルシュアンの二の舞だと溢すも、自身でも聞いた事の無いような掠れ声であった為、伝わっているかは定かでは無い。


 そして顔がそれに慣れたのか、再びくしゃりとした泣き面を作り出す。何とか元に戻そうと頭を振っていると、今度は向こうに引き寄せられた。


「辛いトコだなぁ。ちゃんと加減出来たのに」


 再びその胸に抱き、宥めるように後頭部を撫でる。それでも否定するように、私は首を振り続けた。


「セシリアが止めた。……でなければ、殺してしまっていた」

「そうか。じゃあ、やっぱりケトネルムには任せらんねぇな。女王は良くても、民は“万が一”を許さねぇだろ」


 対し、彼は間延びした声で撫で続ける。


「一緒に行こう、ファルト。……俺は悪運が強い。絶対に生き抜いてやるから、お前も俺の血で生きろ。王女である名も捨てた方がいい。俺の姓でも名乗っとけ」


 優しい低音を響かせ、滅茶苦茶な事を言い放つ。

 自身の死など有り得ぬと信じておるのか。窮地に陥っていた事を知っても尚、身震い一つ起こさぬ。


 ケトネルムもそうだが、この男が一番、変わっていた。


「愚かな。その身……次こそは滅ぼしてしまうやも知れぬのだぞ」


 言いながらも、未だ彼の胸から離れられずにいる。

 言葉とは裏腹に、その胸から感じられる安堵を求め、浸っているようであった。


「それでもいい。一緒に行こう」


 そして、どれほど否定しても追ってくると信じ、……自身もきっと、それを望んでいた。


「死を、恐れぬのか」


 そのまま、流れる時間を噛み締めるように目を閉じる。


「さーなぁ。ひょっとしたら、いつかの誰かさんみたく俺もどっかで諦めてんのかも。死んでも喜ぶやつの方が多そうだし。だからって、別に死に急いでるワケじゃないけど」


 少しだけ、抑揚の無い声が頭上で響く。その手はいつしか撫でる事を止め、私の髪で遊んでいるようであった。

 能天気に過ごしているように見えて、やはりその心も少なからず闇を孕んでおるのか。


「ふ、それでお前の名を借りたとて、どういう関係を示させるつもりだ」


 そういう楽天家にこそ、この身は委ねてしまうべきなのであろうか。


「さあ、どうするかなー。親戚とかヤだし、……ヤな割に夫婦って雰囲気でもねぇし。今日はもう遅い。明日にでも考えよう」


 明るく言い放つそれは、部屋へ戻らねばならぬ定刻などとうに過ぎている事を思い出させた。

 軽く頭を撫でてから引き離し、キッドは先に立ち上がると、次いでこちらの手を取っては同じように立たせる。


 すると、まるで幼子のような感情が静かに湧き起こり、僅か唇を引き結ぶ。自身でも知らぬ間に、彼の手を離さぬまま見つめ続けていた。


「何?」


 掛かった声で我に返り、慌てて手を下ろす。


「あ、ひょっとして、惚れた?」

「は……」

『あっはははは!』


 言い返すよりも早く、脳内で女の笑い声が仰々しく響き渡る。


『惚れたですって?……笑わせないでよ。……ねえ、弱い貴女、この男をアレンの代わりにするつもり?』

「な、ん」

『このままじゃ、傾いてしまうのも時間の問題よ?……そうね、いいわ。愛しい彼を見せてあげる。忘れたくは無いのでしょう? うふふふ、くっくっく』


 リリスでも妙な口調でも無い女はそう漏らすと、暫くの間その耳障りな声を押し殺す事もせずに笑っていた。


「黙れ! 貴様なんぞにっ、彼奴の……」


 喚く私の言葉は、続かなかった。

 ……確かに忘却を望んだ。けれどやはり、それをいとう気持ちが在る。アレンの代わりと罵られたそれも否めない。もどかしい気持ちだけが募り、ただ顔を上気させるしか無かった。


「誰だよ、“あやつ”って。つーかそんな躍起にならなくても。あれだけ思わせ振りに泣いてたクセにさぁ」

「っ、……お前に代わりなど、求めてはおらぬ!」


 薄く笑んでいたその顔が、うたぐりへと変わっていく。キッドは小さく低い声で、何の話だと漏らした。


「そこは、俺の事で泣いてたワケじゃないって突っ込むトコだろ。……情緒不安定なのは相変わらず? 別に誰の代わりだろうが、こっちは一向に構わねぇよ。……ああ、ひょっとして、お前にとっての“アレン”の話? そういや、解放がどうの言ってたのは何だったのさ」


 次々に飛び出す話題に、口を挟む間すら無い。言葉の節々に角が立っていたが、何をどう反論して良いのかも見出せず、最後の質問に対する答え……分からないとだけ返した。


「あれは私の言葉では無い。お前も気付いておったではないか。……この身には、自身以外の鬼が数多に潜んでおる」


 滲み出すように広がり始めた青年への想いを抑え込み、そのまま続ける。


「その意識はまるで、対人しているかのような口振りで語り掛け、時には意思とは無関係に血を求めさせる」


 潜む者共に牽制けんせいする意味も込め、胸に拳を打ち付ける。

 キッドは考え込むように、自身の口元へと手を当てていた。


「金の眼が“その時”ってワケか。……ああ、それじゃ、チェオで逃げたお前は本心じゃなかったんだな」

「リリスを食ろうたあの夜から、鬼の意思がそれに成り代わり、制御不能となってしまった」


 意識が滑るように掏り替わる時もある。そろそろ自覚が持てぬように成りつつあった。


「この身はリリスか、ファルトゥナか……。だが、解放とやらを望むあの意思は彼女ですら無い。真新しいのであれば、先程“惚れた”などと抜かす戯けを嗤う声もあったが」

「……。んー、厄介な身体だなぁ。全部で何人……え? お前ん中、リリス嬢も居るのか?」


 指折り四つまで数えたところで、そう聞き返してくる。

 それに対して鼻で笑い飛ばすように、私は乱れていた髪を掻き上げた。


「殺めた代償か、じきにこの身は彼女が支配すると言うておる。……キッドよ、共に行けるのはそれまでやも知れぬぞ」


 すると、向こうは気の抜けた声を上げ、まるで冗談でも聞いたかのように肩を竦める。然程間を置かず、心配御無用と、調子付いた笑みを浮かべていた。


「そんな妙な事させてやらねぇよ。お前もすぐに諦めんな。身体乗っ取られるとか、普通に考えて嫌だろうが」

「……」

「それに、旅の目的と矛盾してね? 余生を共にしたい相手を探してんだろ」


 何か言い返そうと口を開くも、今度はこちらが肩を竦める番となった。

 この男の根拠無き楽観に、何度も救われている。……そう、今この瞬間にも。

 身を明け渡す事に異を唱えずとも、その言葉の否定は……止そう。


「戻るぞ」


 尚も小言を並べるキッドに頷き、隙を見て自らそう切り出す。駄々の如き感情は、とうに薄れていた。


 そして、言えば解決するような気がして、部屋が分からぬ旨を静かに伝える。


「うえ、こんなトコでも迷うのか。別に部屋なんて間違えてもゴメンナサイで済むんだし、どんどん開けてやれ」


 言われ、一瞬呆気に取られてしまう。

 けれどすぐに眉間を押さえ、私は何度も、何度も頷いた。


「っく、ふふ、それもそうだ、……ふふふふ」

「ふぇ?」


 笑み溢しながら通路へ向かい、歩み出す。その返答を解決と呼べるかは疑問であったが、元より悩む必要など無いのだと思い直した。


「あ、えと、何なら俺の部屋に来」

「戯けが。お前はもう暫く眠っておれ」


 斜め上から覗き込んできたキッドを、すぐに冷たく睨み返してやる。ヤツは何故かそれに大きく落胆し、ぶつぶつと文句を垂れていた。


「狙うとダメなのか……」

「何がだ」

「いや、なんもないっス」


 それでも、私の横へ並び、緩やかに歩を進める。

 絨毯上であろうと、大きなその靴が織り成す久々の軽快音に、またもや安堵を感じていた。


 女王へは明日、別れを告げよう。やはりこの地を危険に晒す事など出来ぬ。

 ……。

 それに、もう暫く……私はこの足音を聞いていたい。



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