-2- 埃塗れの呪い

 薄暮迫る空の下、幾分か身の自由が利くと感じた頃。痛みが完全に消え去るのと同時に、妖の翼も引っ込んでいった。


 既に目的地らしき場には辿り着いているらしいが……降り立ったそこは海沿いの砂漠というよりは、他の大陸同様の砂浜。


 風による規則的な模様を作り出している砂上には足跡一つ無い。陸側を見渡せば、やや遠目に林のような緑の連なり。


 岩の地から数刻ほど離れた此処が、砂の地の最南端だというのか。


 付いては来れぬらしく、女の声はまたも聞こえなくなっていた。


「……アーシュレイン」


 そのような名であったか。……確かに、彼女もリリスの名を有していた。自身が世に還った姿があの少女だとも。


 しかし、あの事件は二十年以上も前の事だ。生死の理など真に理解出来る訳でも無いが、死して長くダルシュアンを彷徨っていたのであろうか。

 そして、何故それが最後に岩の地へ留められる事となるのだ。話も場所も飛躍し過ぎて思考が追いつかぬ。


 久しい緑を眺めていると、幹と同化するように木造りの小屋が見えた。何を思うでも無く、自然と足が赴く。


 名は出さなかったが、“あの男”とはやはりキッドの事であろう。そう言えば何時ぞやに“解放しろ”と宣っていた。


 知らぬ口調、私の知り得ぬ記憶を有する者。内に潜む人物は一人とするならば、あれも誰かの真似をした女……アーシュレインだというのか。


「……私の、中に」


 キッドを知る者が。


 ふと過ぎる虚ろな記憶に、視界が淀む。

 我が名と共に、違えた名をこびり付かせたその声……。


「本当に、最低だな」


 自他共に認められる様に、歪んだ笑みが溢れる。彼奴もずっと気に掛かっておったのであろう。見知った者しか呼称せぬ名を呼ばれた事。祖母のような口調と悪態を吐かれた事から察するに、それ当人か、もしくは同等の関係にある人物。


 そうであろう名が、男の声色にて脳内へと響き渡った。


「シェーラ……」


 家族とまで称された想い人。

 別に、彼奴にそうであった人物が居たとて何ら不思議では無い。しかし、その名はどうも……腑に落ちぬ何かが纏わり付く。


 思い巡らせながら歩み進めていると、林へ入る直前の砂浜にて、丸太を並べたような小屋へと辿り着いた。


 女の気配は無いが、先程から目的地を知るかのように身体が動いている。不気味さを感じつつ、手摺りが施された低い階段を踏み締めると、数段程度登った先に、やや隙間の目立つ扉があった。


 見るからに鍵も存在せぬそれを緩やかに開けば、板張りの床と、歪な白い塊の数々が視界に飛び込む。何事かと辺りを凝視すれば、家具と思われる物全てにはくが被せられていた。


 潮に混じり、覚えのある匂いがこうを掠める。思わず名を溢しそうになるのを堪えて中へと踏み入った。


 戸惑いながらも部屋奥の一画へと突き進み、掛けられていた白布の一枚を剥ぐ。謎の確信と共に姿現すは、書物や羊皮紙が大量に重ねられた机と本棚、なりいろのベッド。


 まるで吸い寄せられるように書物……というよりは紙の束を手に取る。布が掛けられていたにも拘らず酷くほこりまみれのそれは、見知らぬ言語と脈絡の無い文章や単語が書き殴られていた。


 ――鏡は嫌い。ありのままを映すそれ。醜い部分(牙、耳?)……見せるから。


 筆を走らせながら考えあぐねているような文章の下に“美しい姿を見せてくれないから”と綴り、大きく丸で囲んである。


 ――陽光も嫌い。最後に澄み切った空を見上げたのはいつだったか。


 そう書かれた文章には上から横線が引かれ、下には“白い肌を焼いてしまうから”と改変されていた。

 羊皮紙一面に書き綴られたそれらは、試行錯誤を交えつつ、仕上がりの文面が端に小さく纏められている。……見覚えのある内容であった。


「……訳……あれは、訳本だったのか」


 一頁も読み進めなかった吸血鬼関連の本。題名は忘れてしまったが、内容は鮮明に覚えている。城で手にしたあちらは、これの完成物だと思い至った。


 何かを願うように、書き殴られたそれらを一枚ずつ捲る。……楽しく終わるものだと、彼奴の……アレンの口から聞いたのだが。


 内容はどうやら、日記に近しいものを物語調に書き換えているようであった。記憶の書物は少しばかり厚みがあったように思えるが、羊皮紙は裏表を使用しても四枚程度しか無い。


 最後の頁を見ると、完成とする文章では吸血鬼の血は洗礼され、真人間と成りて天寿を全うした旨が綴られている。それ以外の文面は、恐らく原文を数行に渡り書き連ね、その下に短い直訳の言葉を置いていた。


 ――もうたくさん、大陸を離れる。


 端には著の有無を自問する文と共に、アシュレイン=レリス=イグレシアとある。


「……何が楽しいものか」


 アレと共に訪れたのは、ダルシュアンの悲劇ではないか。

 何故このような物が此処にあるのかと疑問に思えば、翻訳家であったらしいキッドの祖母が、ダルシュアンから請け負うたとしか考えられぬ。

 吸血鬼が討たれた時期と、祖母が未だ翻訳の仕事が可能であった時期は重なるのであろう。


 ……。

 だが、どうしても……これに関わるが故に吸血族の呪いを受けてしまったのではという疑念が付き纏う。誰の指示があったのかは不明だが、日記と思わしき物を物語に、あまつさえ書物として城に置くなど気が触れている。


 後に盲目となり、孤独からダルシュアンへと赴き、キッドを連れ帰った。果てには不可解な死を遂げ……今度は孫がダルシュアンへ渡り、私と出会う。

 気味の悪い偶然であろうか。その間に女があの木へ留められている。一体何処から湧いて、ラバングース一家に接触するというのだ。


 全てを呪いと称するならば納得も出来ようか。火精曰く、吸血族の呪いは根深く、周囲を広く巻き込むらしい。


「洒落にもならぬ」


 キッドと出会ったのも呪い、それと同じ名を有するアレンも呪いとするか? もう、様々な物が絡み合っていて、偶然と必然の境目が分からない。


 そう思い馳せたところで紙を重ね、強く引き裂く。これは此処に在ってはならぬ物だ。吸血族から離れているはずのこの地に、不可解なものが根付き過ぎている。


 細かく破き、強く丸めていると、微かな波の音に混じって戸を叩く音が響いた。思えば開け放ったままのそちらへと向き直ると、降り始めた夕陽を背に、戸口の壁にもたれ掛かるようにして……褐色の影が佇んでいた。


「あ……」


「宿屋の看板なんて、出した覚え無いんだけどな」

「……頭は、冷えたのか」


 思いの外静かな声音に、こちらも小さく返す。

 丸めた紙は後で燃やしてしまおうと、荷物袋へと仕舞い込んだ。


「その前に、カノンに殴られたよ」

「ああ……ふふふ、本当に実行したのだな」


 敵わぬなと笑み溢していると、影が揺らめき、僅か足早に近付いてくる。思わず息を呑んでその顔を見上げれば、視線が合う前に迫り、かかとが浮き上がる程に強く引かれてしまった。


「キ……」

「ごめん」


 皆まで呼べぬ内に、微かに上擦った声が耳元で響く。


「お前が本気で死に急いだ事も聞いた。ごめん」


 息苦しさすら覚える抱擁に、緩りと手を伸ばして背に触れる。拒絶を恐れていた心が、安堵に満たされるのを感じた。


「この世を見限った時は、終止符を打ってくれるのであろう?」

「……そう思うなら尚更、勝手な真似しちゃダメだろ」

「私はもう、お前が居なければ生きられぬ」


 安心を経て、するりと言葉が滑り落ちる。今ならきっと、何にも憚れず、全てを伝えられるように思えた。


「俺さ、その言葉が向けられるべき男を、ずっとこの旅で探してると思ってたんだよ」

「男?……成る程、酷い思い違いというのはそれか」

「余生を共に過ごしたい相手なんて聞いたら、そう思うに決まってんだろ」


 姉と伝えた事は無かったであろうか。そうで無くとも何処かで聞いていそうなものなのだが……。それが皆無であったからこそ、このような事になってしまっていたのか。


「カノンを通じて、リリスから“もう生きていない”と言い渡された。残念だが、目的を変えねばならぬ」


 徐々に緩んでいた腕をやんわりと引き離し、再びその顔を見る。

 この地の彼は本当に弱い。潤む紺碧、赤みを帯びた目元を何度見た事か。


「私と旅をしよう、キッド。……そうだな、皆で世界中を見て回るのはどうだ」


 かつての空想に思い馳せながら、その目尻を指ですくう。

 カノンに殴られた名残なのか、左頬が僅か腫れ上がっていた。


「未知の大陸、目新しい料理、珍妙な生物、どれをとってもお前たちとなら心躍るものとなろう」


 瞬いた目蓋が緩やかに綻びる。こちらの顔にも手を伸ばし、鼻先から顎下へと薄布を下げてきた。


「そしたら、その覆面は無しで行こうな。お前が色んなものに感動する表情が見たい。……あと」


 再び顔が迫り、紺碧が伏せられる瞬間に唇が触れる。煩わしい程に抱く力が強く、こちらも目を閉じて息を詰まらせるしか無かった。


「布越しだと不便だし」

「……変態」

「えー、今のは自然な流れだろ」

「ベッドへ視線を移したのを見逃してはおらぬぞ」

「ははは、手厳しいな」


 祖母が使用していた物に何たる悪行かと、いい加減その胸を押し遣る。

 すると、ベッドに限らず他より仕切られた此処一画を見渡し、彼は小さく息をついていた。


「何で、ばーちゃんの物だって分かんの?……つーか、何を丸めて、その中に仕舞ったんだ?」


 冗談めいた態度が一変、少しだけ、恐れが滲んでいるような声音。それもそうであろう。カノンからどこまで聞いたのかは不明だが、飛べぬはずの身で、ましてや方向に疎い私がこのような場に……自身の家に居るのだ。


「勝手をしてすまない。これは焼却するつもりで貰い受けた」


 荷物袋の中から再びそれを取り、差し出す。


「お前の趣味では無いであろう訳本の、恐らくは元となった物だ。城の書庫にこれを清書した物がある」


 受け取り、本当にただの丸となってしまったそれを眺めるキッド。広げようと指先で擦り、けれど凝り固まって捲れぬようで、即座に諦めていた。


「中身は、かつてドルクスやダルシュアンを襲った吸血鬼が書いたもの……を訳すのに使用した紙であろう。私はそれを、此処に根付く呪いと見る」


「……。燃やせばいいのか?」


 そう言い、彼は返事も待たずに部屋の南側へと歩いていく。余り布が掛からぬそこは調理場であろう。陶器の縁が見える箇所からは、置かれたままのおけが見える。目前の壁には幾つかの調理道具。隣には、砂岩を組み込んで作られたいしがまが備え付けられていた。


 そこへ屈み、蓋としている正面の木板を開き、中へ向かって紙を放り投げる。横に置いてあった木片を手に取り、窯の中へ置こうとして……思い止まって元に戻していた。

 かつての習慣だったのであろうか。代わりに小さく術を唱え、直接中へ火を放つ。


「……リレスト、今更ここで話す事なんかねぇよ。鬱陶しいだけだから消えろ」


 そして、唐突に何者かの名を交えて悪態をも吐き出す。そのまま立ち上がるでも無く、暫し窯の中を見つめていた。


 私も一歩踏み出し、そちらへと赴く。途中、黒茶の床板の一部にも布が被せてあるのが目に入った。敷物にしては不自然な麻布に踏み止まると、我に返ったかのようにキッドが勢い良く振り向く。


「下……それ、砂だらけだから踏まない方がいい。ここ、あんまり片付けてねぇから」


 妙に歪な膨らみが目立つと思えば、砂か。

 砂浜を目前とすれば入り込むのにも納得はいく……が。これは、そういう量では無かろうな。


 思い馳せる前に目を逸らし、北側に残る部屋の一画を見遣る。黒茶を基調としたこの小屋には出入り口以外の扉が無い。


 丸太の形そのままの壁が区切りらしきものを付けてはいるので、全部屋を見渡せる訳でも無いが、数で言うならば先程まで立っていた祖母の部屋、現在キッドが居る調理場含む食堂、そして、白布が一番多く目立つ北の一室。多少の広さはあれど、この三部屋しか無いように見えた。


 彼の生活の痕跡残る布の下が気にはなるが、恐らくは全てがそのままなのであろう。白布と称するには、夕陽差し込む窓によって、影を落とす橙と化していた。


 どのような気持ちで、彼は此処を出たのか。それを推し量るなら、一刻も早く家から立ち去るべきだと思えた。


 今、目の前にしている麻布の下は恐らく、血混じりの砂が隠れているのだから。


「キッド、燃え尽きたのなら行こう」

「……なんも訊かねぇの?」


 窯に再び蓋をしつつ、緩やかに立ち上がる。


「しかし……」


 何に触れて良いのかも見出せぬ中、おいそれと質問など投げ掛ける訳にはゆかぬ。考えあぐね、地に視線を落とせば例の麻布が目に入る。そちらからも目を逸らし、開け放たれたままの外を見遣れば、水平線と夕陽が重なりつつある様が見て取れた。


 このままでは日が暮れてしまう。


「そう言えば、セシリアとカノンはどうした?」

「カノンは……酷い有様だったからセシィ連れて宿で待ってろって言い残してきた。まったく大した男だよ。俺が思うよりずっと強く逞しく成長してやがった。……お前にぶん殴られた時よりも痛かったし」


 軽く笑み溢しながら、食堂の一画にだけ被せられていた白布を取る。


「情けないキッドくんは粗方聞いてすぐに飛んできたモンで……実はセシィには会ってない」


 けれど、すぐにばつが悪そうに苦笑へと転じ、姿現した椅子を引いて腰掛ける。同じく現れたテーブルに荷物袋を置き、水筒とパンと干し肉の包み紙を出していた。


「腹減ってるだろ? こっち来て座れよ。扉だけは閉めといてくれ」

「……」


 硬そうな干し肉を咥えつつ、テーブルの端に纏められていた小物の中から大き目のランプを引っ張り出すキッド。油脂の残量を確認し、ひとたび動きを止めると、大袈裟に息を吐いてマントと茶褐色の上着を脱いでいた。


「この家、火打ち金ってあったっけ」


 それらは椅子に掛け、一人溢して立ち上がり、付近の引き出しを漁り始める。


「……よお、久し振りだなフィレスト。火は欲しいけど、お前はもう一生呼ばねぇ。失せろ」


 先程と似たような悪態に次いで、物色は早々に打ち切られる。再び石窯の前へと座り込み、今度こそ木片を投げ、火起こしの術らしきものを唱えていた。


 囁きに等しい声音のそれは、精霊に語り掛けているのであろう。火精の名だけは覚えていた身が、僅か拳を握る。


 木片が着火すると、石窯横に掛けてあった火かき棒で取り出し、ランプの芯へと近付けた。


「何突っ立ってんだ。今夜は風が強くなるから閉めてくれ」


 振り返り、視界の端に私が映ったのか、火元から目を離さぬまま言い渡される。

 ……陽はまだ沈んではいない。


 徐に足を運んで扉に手を掛けると、火の粉が爆ぜたのか背後で小さく声をあげていた。

 本当に、ただ家で過ごしているだけにしか見えぬ状況に、妙な錯覚を起こしながら扉を閉める。


「……港から次の村まで半日掛かるつったよな? ここ、それに加えて二時間は掛かんだよ」


 浴びせられた声に振り向けば、ランプは部屋の中央上部へと引っ掛けられ、再び椅子に腰掛けて干し肉を噛みちぎるキッドが見えた。次いでパンをひと齧りして、水筒に口を付ける。


「でもな、枯渇覚悟でぶっ飛ばせば、三時間くらいで着く」

「……すまなかった」


 ようやっとそちらへ赴き、私もテーブルに荷物を置く。


「何で謝る。どうせ港へも村へも飛べねぇから、ここで休もうっつー話だよ。砂漠で野宿よか良いだろ。何なら入浴もできるし」


 そう言いながら指差した先には、出入り口以外の扉が存在していた。先程立っていた場所からは死角となっていたのであろう。

 仕方無くマントを脱いで椅子へ引っ掛け、斜め向かいの席に着く。


「それとも、こんな埃っぽいトコで二人きり、一晩なんて過ごせねぇって?」


「そうは言うておらぬ。ただ、お前は……良いのか」


「俺?……へえ、何の不満があると思う? 相思相愛、願ったり叶ったりよ」


「しかし……」


 冗談めかすそれに、先程と同じように言葉濁し、向こうの麻布をちらと見る。気取られぬよう、すぐに視線は戻したが、頬杖をついてパンを押し込む紺碧と目が合ってしまった。


「……ここに根付く呪いとやらは、燃え尽きたんだろ?」

「それで、お前の哀傷が癒えるとは思わぬ」


 膝の上で拳を握り、硬い肉すら押し込んでいく様を眺める。すると、口をもごもごとさせながらこちらの荷を漁り、肉の包み紙とシジュの実を取り出してテーブルへと並べた。


「確かに、戻って来るつもりなんて無かったよ。多分、一人だと色々思い出して……吐いてんじゃねーかな」


「……私は、野宿で構わぬ」


「俺ぁヤだね。魔力切れかけてる中であんな危ないトコ、無駄にうろついてられるかよ」


 並べた食料を早々に持ち出し、またもや席を立つキッド。調理台の前に立ち、掛けてあった木の板を手に取り……突然、洗い場の桶のみを持って足早に戸口へと向かった。


 何処へと問う間も無く扉を開け放ち、先程より影の降りた空の下へと去ってしまう。


「キッド……」


 知らず、声が漏れていた。

 桶を持ち出したという事は、水でも汲みに行ったのであろう。

 私も何か食しながら待つかとテーブルへと向き直り、シジュの実と干し肉が調理台に置かれたままであるのを認め、小さく息をついた。


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