8.五大・果ての陸 【岩の地】
-1- 傀儡と成りて
砂の切れ目となるそこは、突如として
数百の面積も無い。ただの広場かと見紛うその場所は、地図で見た“岩の地”であろうと推測できる。けれど、個として名付けられる程の陸でも無い。黄土色の一切が消えているだけで、纏わり付く熱は砂の地に近しい。
唯一不可思議なのは、深緑を生い茂らせた一本の大樹が、何処に根付いているのか遥か下の海原を見渡すよう崖の先端に立っている事。
それの数歩離れた所に降り立ち、カノンは大きく息を吐いていた。
「ちょっと休んだらまた飛ぶ。次は後ろにつかまって」
そう言い、斜め掛けに背負う荷物袋を前方へと回し、中を漁る。あの翼では容易に下ろす事が出来ぬのであろう。閉じて多少は収容されてはいるが、どう動かそうと縦に長い。
短く返答し、
「それは……必要なのか?」
父竜もヒトに姿を変えられたというなら、彼がその姿を混じらせるのも不思議では無い。先程の咆哮を見るに、喉だけを変化させる事も可能なのであろう。
「どれ?」
肩越しに振り向くその頭頂部には、よく見れば
返答はせぬまま、静かに上下を指差す。
「やり方が分からなくて、一緒に出てきた」
幾つか荷を出して地へ置いている。最終的に緑黄色の実を取り出し、ひと齧りしては眉根を寄せていた。……小さな唸りと共に、徐々に角と尾が引っ込む。
「本当は尻尾、あった方が飛びやすい」
恐らくは均衡を取っているのであろう。いよいよ面白い身体になってきたなと、セシリアの喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「……良かった。こっちは穴、あいてない」
腰付近を確認しつつ、実を頬張る。背も気にしているようだが、それに関しては私の目からも翼と人肌の境目が確認出来る程の大穴が開いてしまっている。
「マリスが、よく似合うって言ってくれたのに」
「縦に切り込みでも入れて、整えて貰えれば良いのでは?」
それを頼める者が、砂の地に居ればの話だが。
私も自身の荷を探り、シジュの実を取り出す。少しばかり擦ってから齧れば、予想を上回る水分が飛び出し、思わず前のめりになった。
後に広がった仄かな甘さに
「……ほの……手の、書物は何だ」
ふと見えたそれを捨て置く事が出来ず、口内に残るまま問い掛けてしまう。
三冊ある内の二冊は、文字や言葉を学ぶ為のものであろう。しかし、今まさに仕舞おうとしているその一冊は、どう見ても帝王学に
「セシィが買った。カノンはいつか、ケトネルムの王になるからって」
……話が突飛過ぎる。
大きく育つだの強い存在になるだのと言うておったが、女王を差し置いてケトネルムの王だと?
「御転婆め、どういうつもりだ」
「王妃になるって言ってた」
「は?」
「セシィは……ひとり? だから、その内決められた人と……なんかするって」
…………。
「婚約や結婚という類の言葉か?」
「多分それ」
一人娘が故に、遅かれ早かれ浮上する話であろう。十五ともなれば、そろそろギルヴァイス公が画策していても可笑しくは無い。手を焼いているのなら尚更。
中々の暴挙ではあるが、そうなる前に己で相手を決めてしまおうという魂胆か。
旅立ちを急いだ理由にも繋がりそうだが……そう言えば、男二人と思うていたにも拘らず私達に付いてきたのであったな。よもや婿探しも兼ねていたのではなかろうか。
何処の馬の骨とも知れぬ者を、ギルヴァイス公が許すはずも無いが。
……故に、カノンを伸し上げる? 否、それではギルヴァイス家の跡取りはどうするつもりか。
「確かに、このままでは王家血筋が途絶えてしまうのは免れぬが……いずれにせよセシリアが勝手に企てている事だ」
「カノンに子ができたら、最後にルーナの子とケッコンすればいいって言ってた」
………………。
「吸血族の血、薄くなってからがいい?」
アレは本当に、何を考えておるのだ。
幼子同然のカノンに結婚だの子だの、理解が追い付かぬであろう。
「それは、そうだが……」
そもそも母のように付き従い、自身も子のように接する間柄でそういった関係を築けるものなのか。
「そしたらマリスの血も絶えない。王族は無くならない。カノンもそれがいい」
それすらも御転婆から聞き齧った知識なのであろうが……彼なりに噛み砕いて理解はしているのか。
もはや私には考えが及ばぬ。こちらが何を言うたところで、アレの心が揺らぐ事もあるまい。
「ならば、お前が本当に伴侶を……最後の時まで一緒に生きるヒトを選べる歳になるまでは、その書物でよく学ぶ事だな」
「うん」
母子のようではあるが、カノンがセシリア以外の女性に懐く姿も想像に難い。幼子同然は侮り過ぎやも知れぬなと、僅か笑みを含みながら歩み出す。
何も無いこの地に少しばかり興味が沸き、前方の木へと近付いていった。
水も枯渇しているような場で、この成長度合いは不自然極まりないが、吸い上げられる程に根が下まで伸びているのであろうか。
薄鈍の大地にあっては鮮やかなそれに、手を伸ばす。
「……ん? 何?……さ? は?……ルーナ、離れて!」
「え?」
幹に触れたところで、何故か焦りの声が掛かる。
何にも対処出来ぬままに呆けていると、久しき樹木を感じる指先へ、僅かな熱が伝い始めた。
『あの男はどこ?』
「!」
刹那として脳内を巡る低い女声に、身の毛が弥立つ。
「お、まえ、は」
今まで遠ざかっていたそれ。ほんの少し前まで、確かに欲していたはずの声……だが。
『どうして貴女だけなの』
今となっては、我が身を脅かすものに他ならぬ。
思わず後退るも、足がもつれ、動転そのままに尻餅をついてしまった。
「ルーナ、どうした!」
『竜の子? この短期間に何の間違いが起きたというの』
「に、げ? ここがそうなのか!」
背後から駆け寄る足音。それと同時に、目前の幹が揺らめく。
『……。そういえば、素敵な目をお持ちだったわね』
次いで薄らと、鋭い爪を伴った細い指先が生え、伝うように腕が伸びてくる。息を呑んで目を奪われていると、透けた掌が私の足に触れ、靴を隔てているにも拘らず妙な熱を宿した。
『……そう。…………本当に、最低ね』
顔を含め、胸元辺りまで身体が現れている。緩く癖のある金色の髪を肩に落とし、青の衣服を纏った、女が……。
「おまえ……誰だ。おまえがコイツの言ってる“あの人”か」
見覚えは無い。けれど、その
『そうよ。……貴女にも見えているわね?』
笑むように細められた眼差しが、こちらへと向けられる。赤に彩られた唇が、言葉に連動する。背後のカノンが、自身の口の中で同じ台詞を反芻させているのが耳に入った。
『お初にお目にかかりますわ、亡国ダルシュアンの姫君、ファルトゥナ殿。このような半端な姿でごめんあそばせ』
触れたままの手が、靴を撫でる。止まらぬ熱が、じわりと足から膝へと滲み出す。
まるで、侵食されるかのように。
『我が名はアーシュレイン=リリス=イグレシア。此処より遥か遠くの地より参りました、齢二百程度の
「そ、んな」
『如何にも。貴殿の母君と接触し、その御身貰い受けようという矢先、
「ルーナ、行こう! ここはダメだ!」
未だ転げた体勢のまま動けぬ私を立たせようと、カノンが肩を掴む。しかし意図せず、その手を強く弾いてしまった。
「ルーナ!?」
「ち、が」
足元に留まらず、全身に奇妙な熱が巡っている。痺れるかのように、指先に震えを感じる。未だ靴に触れ続けている女から離れるのはおろか、視線を外す事すら叶わない。
『美しい翼ね、竜の子。在りし日の我が身を思い出すわ』
哀愁すら漂わせる声音と共に、柔らかい笑みを形作る。けれど、薄められる目にそれは宿しておらず、ただ空虚に映った。
『少しだけなら、私も与えてあげられる。……寧ろ、そうしなければあの男も動かないでしょう。真似事で繋ぎ止めておけるかと思っていたけれど、とんだ腰抜けのようね』
暫くすると熱が頭に集中し、突如激しい痛みを引き起こす。顔を歪めて透けたその手を見れば、まるで爪が食い込むかのように、靴の中へと減り込んでいた。
「は……ぅぐっ」
『私はね、囚われの身なのよ。二百年余り
響くそれにすら苦痛を感じて耳ごと頭を抱えるも、鮮明なまま語り続け、女は口惜しげに声音を落とす。
『妙な誤差が生じて、魂を置いてけぼりに身体だけが先に世に
鳴り止まぬ警鐘の如き頭痛と共に、今度は背面にも痛みが走る。
『二百年耐えた。あと数年なんて、耐える内にすら入らなかったのに……あの男が此処に留めた』
「がっ……ぁ……!」
語気を強めるそれに伴い、引き裂かれるような痛みが襲い来る。
「ルーナ!」
「カ、ノ……はな、れ」
このまま、自我の無い怪物と変貌して彼を傷付けてしまうのではないかと、背後から両肩を掴んでいる手に触れる。
押し遣るつもりのそれは、ただ震うだけで即座に滑り落ちてしまった。
『貴女が少女の血を取り込んでしまった事は、咎めないでおくべきなのかしらね。
引き裂かれ続けるそれに、息が詰まる。痛みによる涙が自然と流れ、まるで流血しているかのように赤い服へと染み付く。
『ねえ、知っていて? 彼女、ずっと付いてきていたのよ? 届かない声を響かせて、ずっと。その健気さに免じて教えてあげるけれど、最初から貴女の中に居るのは私一人よ』
「ひ、あぐっ」
肩に触れる彼の手が、僅か離れる。
「ルーナ…………羽、が」
戦き退く声に、視線だけがそちらへ赴けば、弾かれたように怯える様が見て取れた。
『真性のものとは程遠いけれど、
声に次いで、ゆらりと立ち上がる。駆け巡る痛みが徐々に薄れ始めていた。
『未練がましい。呪われた彼処こそ、燃やしてしまうべきだったのよ』
「どこ、行くの?」
『あら残念。もう私の言葉を知る気は無いらしいわね』
身体が、ひとりでに動く。戸惑うカノンを一瞥の後通りすがり、背の感覚に集中した。
「竜の子、ついてくるのは得策ではないわ。ファルトゥナの命は私が保証してあげるから、戻ってあの男を殴ってきて頂戴な」
私の振りをするでも無く、言葉を紡がせる。
同時に、調子を確認するかのように、知らぬ箇所の神経が動いていた。
「お前は酷い思い違いをしている、とね」
嘲笑い、それでいて明らかな憎悪を向けながら、静かに言い放つ。
『捨て置いた私にも非はあるわ。……解放されるかは賭けだけど、やはり最初の段階で殺しておくべきだったかしら』
薄れども伴い続ける痛みの中、背の肉が引攣られる感覚と共に風が巻き起こる。顔を向ける事すら許されぬ
「……分かった」
彼にも思うところはあったのか、意外にも素直な返答で以て見送られる。
無意識なのか、それとも女の意思なのか、僅か微笑を浮かべて
常ならば声の一つでもあげていそうな状況だが、それすらも自身に在らぬのか、風を受けて舞い上がる身をまるで他人事のように眺める。視線だけは動いたようで、風に揺れる大樹を下方に捉えていた。
広大な海原を見渡せる静寂の地。……何を
血塗られた運命から解放されるのならば、私もあの樹のように何にも侵されず、ただ静かな時を過ごしていたい。
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