-3- 深憂拭えぬ夜
陽が完全に沈み、辺りの空気に冷えを感じた頃。何やら麻袋を引き提げ、大き目の手桶を一つ増やしたキッドがようやっと戻ってきた。
「ごめんごめん」
軽く述べて桶二つを洗い場へ置き、調理台下の引き出しからナイフを取り出す。鞘から引き抜いて先程の木の板に重ね、恐らくは埃を払うように水で洗い流していた。
そうして板の上に実と肉を置き、小気味好い音を立てて切り刻んでいく。
「それだけの為にわざわざ?」
「んー? んー……いや、まあ……折角だし」
手際に反する歯切れの悪さで受け答え、麻袋をひっくり返す。中から小粒の赤黒い実と、……何か、とても鮮やかな赤傘の
それを、軽く洗って柄の部分を切り落とす。別の引き出しから鉄製の平鍋と木皿を引っ張り出し、水洗いの後、実と茸を平鍋へ均等に並べる。そこで一旦こちらへと戻り、自身の荷から小さな皮袋を取り出していた。
様子を窺うように傾いていた背筋が、彼の向き直りと同時に素早く伸びる。
「お前は、料理人でもあるのか?」
「……魔道士一筋ですが。この家、俺がやんなきゃ誰が作るんだよ。ばーちゃん目ぇ見えねーし、シェーラはヘッタクソな上に……」
刹那、まるで術に掛かったかのように両者動きを止める。
「味、覚……音痴だったし」
「そうか」
小袋から脂の塊と、何かが混ざった塩らしきものの小瓶を出し、何事も無かったかのようにまた調理台へと立つ。平鍋にそれらを投入し、切っていた干し肉を被せるように並べ、最後に再び小瓶の中身を振り掛けて、火の残る石窯の中へと置いていた。
「まあ、俺もばーちゃんからは味が濃過ぎるって文句言われっぱなしだったけど」
乾いた笑みに次いで、放置してあったシジュの実を木皿へ並べ、フォークを添えてこちらへ持ってくる。
「前菜代わり。……切っただけで料理人とか、本職に笑われるわ」
「そうなのか」
礼と共に受け取り、実を刺す。やはり思うよりも多く水分が滲み出ていた。
……室内に白布が点在していなければ。床に汚れなど無ければ。ただ招かれ、
室内に肉の焼ける匂いが漂い始め、いよいよ頭が混乱する。
「俺もちょっと食っていい? あのキノコ好きなんだよ」
……駄目だ。気を抜いてはいけない。私が居なければ吐くとまで宣ったのだ。幾ら彼が拒もうと、本来なら此処を離れねばならぬ。
そうだ、この後少しだけ多く摂取すれば、恐らく眠りも深くなる。それまではどうにか、意識を他へ向けていてくれれば……。
「焼けましたよ、と」
と。香ばしい匂いと共に
「は……」
しかし、茸の傘色か、はたまた実の色なのか、水分をも多大に滲み出させ、目の前に置かれたそれは……まるで、血の池に肉が浮いているかのような錯覚を起こしてしまう。
「旨そう?」
思わず、何のつもりかと、恐ろしい程緩慢に面を上げてその目を見る。捕われてしまいそうな紺碧に、僅か息が詰まった。
再び緩々と視線を落とせば、茸の傘でさえ血の滴る肉片に見えてしまう。
「吸、血鬼の
「視覚からいけば、飲む量抑えられるかなって」
言いながら、私のフォークを奪い、茸に向かって強く刺す。戦く我が身が、小さく音漏れる程に息を吸い込んでいた。
「ひっ……わ……私は、避けようとし、してるのにっ……隠さ、血を……」
「…………。あー、また最低な事してるよな、俺。やっぱダメだわ。冗談が洒落になってねぇ」
刺した傘を口に運び、深く椅子に腰掛ける。自身の荷の中からパンを取り出し、千切っては平鍋の中に投入し始めた。
見る間に、血の池……では無く、赤いスープが
「ごめんな。先、こっち飲む?」
そう言い、自身の首を指し示す。
未だ消されぬ傷痕が固着していた。
「の……まない」
多少は落ち着きを取り戻しながら、らしからぬ返答をしてしまう。
「じゃ、キノコ後ひとつ貰っていい? 俺、湯浴みしてくるわ」
返事も聞かぬまま、再び大き目の傘を刺す。大口を開けて放り込んだかと思えば、茶に染まったパンをも素早く食し、フォークを差し出してきた。
「ここまで赤くはしなかったけど、結構な頻度で作ってたのはホントだし、旨いから食ってよ」
無言でフォークを受け取り、肉にするか迷った所で茸を刺し、薄く目を閉じて齧る。……美味ではあるが、確かに味が濃い。シジュの実と食せば丁度良いように思えた。
次いで肉を刺したのを見届け、キッドが浴室と思われる扉へと向かう。
「なあ、ファルト。……お前、何に導かれてここに来たんだ?」
と。唐突に言い渡され、口を開き留まったままその背を見遣る。
“何”と言うならば。やはり岩の地のアレしかない。カノンからは聞き及ばぬままであったのか。
忘れかけていたその名を口にしようとした瞬間、彼は再び歩んで扉を開く。すぐ横手にランプが置いてあったらしく、また石窯から火種を取り出して着火していた。
「やっぱいいや。落ち着いてからにしよう」
そのままランプを手に、浴室へと去っていく。
「……」
後ろ姿を見送り、暫く。今まで呼吸を我慢していたのかと思う程に大きな溜息が漏れてしまう。
恐らく、一番恐れていた事態は避けられた。……そう、思うていたのだが。
このままあの地を捨て置く事も出来ぬ様に、再び訪れるやも知れぬ恐怖に苛まれる。吸血族を呪いとするならば、我が身をも絶やさねば、この地は……彼は、解放されぬのではなかろうか。
刺したままであった肉を口に運び、徐に咀嚼する。一度乾燥させた事によって味が凝縮されていたにも拘らず、更に塩を振った所為で、それは顔をしかめる程の辛みを感じさせるものとなっていた。
おおよそ最低でも一年前の物と仮定して、使用出来るのであろうか。……いや、既に同じ棚にあった手拭いは借りてしまっている。それに、私の荷を取るまでで良いのだ。
浴室手前の棚ばかりが並ぶ小部屋にて。下着すら着用せぬまま佇む自身に、この家に来て幾度目かの溜息が漏れる。
せめて女性物があれば良かったのだが、整頓されたそれらは皆大きい。仮にあったとて、故人の物を勝手に着用するなど無礼も甚だしいのだが。
なら、キッドの物であれば良いのかと言われれば……。
「はぁ」
もう止そう。無駄に時間だけが過ぎてしまう。
謝罪なら後で幾らでも出来るだろうと、置いてあった
序でに、半袖にも拘らず二の腕が全て隠れる。丈は膝上程度だが、下を借りるのは流石に無理があろう。紐は緩めたままのブーツを履き、洗って絞った形そのままの自身の衣服を手に、扉を緩りと開く。
彼は椅子に腰掛け、切り分けたシジュの実の一つを口へ放り込み、読書に勤しんでいるようであった。
「ほかえり」
頁上で目を走らせ、咀嚼するまま短く声掛けられる。見られていないのなら好機かと、下がってきた服を胸元で掻き合わせ、やや足早に自身の荷へと向かった。
ふと遠目に光源があるように思え、北側の部屋に視線を遣ると、先程は無かったであろうランプが置かれていた。東側の祖母の部屋にも同じ物がある。……白布の数が減っているように見えた。
「やっぱ物語は性に合わねぇわ。そういやお前、飲み忘れてるけど……」
再び掛かった声で我に返り、視線をキッドへと戻せば、下方をじっと見つめられた後に目が合う。
「ぁ……すまない。すぐ、返すから……」
「ああ。また思い立って服洗って、手持ちが無かったんだな」
焦りつつ荷の口を開き、中を掻き回す。
食料の類をテーブルに置いた所で袋ごと持ち出せば良いのだと思い至り、持ち手を引っ掴む。……乾き切らぬまま無理矢理纏めた髪が肩に落ち、重みで更に服が下がっていた。
「血」
と。浴室へ振り返ろうとした瞬間、本を閉じる音と共に腕が強く引かれる。妙に勢い付いたそれと、緩んだブーツに足が絡まり、腰掛ける彼の膝元へ跪くように転んでしまった。
「ごめんごめん。……飲んでよ」
拍子に、荷が手から離れる。
「い、今は良い」
見下ろしてくる視線を今度は交わす事も出来ず、その膝と、掴まれたままの腕を支えに立ち上がる。椅子の後ろへ落ちてしまった荷をどう取るか考える間に、腰に手が回っていた。
「湯上りには水分をとらないと」
「でも……わっ」
それすらも引き寄せられ、自身の肩に私の顔を押し付ける。
辛うじて踏み止まるも、首が締まりそうな体勢を嫌い、その両肩を持って顔を上げれば……腰の手が僅か下がり、裾付近の腿が撫でられた。
「はっ……ふ、触れるな!」
「だから早く飲めつってんのに……お?」
手は裾に入り込み、腰部側面で上下する。
「おー、すげぇ。思い立ったとしても下着くらいは持ってけよ。俺の服無かったらどんな格好で出てくるつもりだったんだ?」
「ぅ、仕方無かろう! だからっ……離して……」
こちらの懇願など聞き入れぬ様で、側面から背面へと伝い、遂には緩々と撫で回してくる。
身が跳ね、押し寄せる波のように粟肌が立っていた。
「こりゃマズいな」
「ひ、やめっ……こ、の変態!」
低く呟かれた声を切っ掛けに、大口を開けてその首へと食らい付く。
「いってぇ!」
十分に牙も立たぬままのそれは皮膚も穿てず、傷痕に残る
「おまっ、いって……加減しろよ!」
「私にも頃合いというものがある!」
肩を押し遣り、何とか距離を空ける。
服が乱れ、胸元が露となっていた。
「うっわ、それもマズいな」
視線は釘付けられており、今度はそちらへ手が伸びようとしている。
「痕も結構残ってるし……」
もはや殴るしかないと拳を作った所で、首元の傷痕から微量の赤が滲み出しているのが見えた。……見えてしまった。
飲む気など更々無かったはずの身が、瞬時にそこへ飛び付く。同時に唇を寄せるも吸い上げる事叶わず、焦燥感に駆られながら傷を舌で押していた。
「おー、それそれ。そしたらこっちも遠慮なく出来……ってぇ!」
押せど肝心の穴は塞がっていると気付き、再び……今度は確かな牙を充てがう。
ほぼ同じ箇所を穿てたらしく、普段よりも早く甘美な熱が舌に纏わり付いた。
「ふ……ふっ」
多少は治まっていたはずの全身が、再び総毛立つ。自身の口元以外からも水音が立っている気がした。
恐らく、自身の手は彼の何処かに触れ、私も何処かしらに触れられている。けれど、意識が首へ集中し過ぎて他が覚束無い。それでも肌だけは敏感にその手を感じ取り、息を詰まらせる。不規則に溢れる吐息が彼と血の匂いに混ざり、目眩を覚える程の芳しさを誘う。
まるで、毒のように思えた。
「愛してるよ、ファルト」
……その、響かせる低音すらも。
いつの間にか、吸わずに口付けているだけとなっていた首から顔を離せば、床に足が着いておらず、彼の膝上に腰を下ろしていた。
そしてやはり、逃げてしまいたくなるような箇所に指が触れており……もう、何も見ない振りをして目の前にあった胸へと目を伏せる。
「ぅ……私も、……ぁ、愛している」
呆けている頭では無い証明になるかと、羞恥を捨てて応える。髪に手が触れ、僅か胸元から引き離された。
隙間を縫うようにその顔をこちらへと寄せ、再び我が視界を独占する。
先程向こうが食していたシジュの実と、今まで飲んでいた血が絡み合い、薄ら甘い味わいを共有していた。
……そうだ、これで良い。
暗然たる過去に囚われる位なら、彼も私に触れ続けていれば良いのだ。そうして塗り替え、忘れてしまえば良い。かつて孤独となった日や、今尚追い立てられる瞬間。
呼吸が追い付かずに首を引けば、たくし上げられた背面から回り込んで胸が抱かれる。もう片方の手は下顎へ添えられてはいるが、指先が逃すまいとして密かに力んでいるようであった。
捕らえ、貪り食うかの如きその様こそ真に吸血鬼のようであり、今だけ自身が、命絶える運命を待つただの人間と成ってしまったかのように思えていた。
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