-8- “人間”
「阿呆」
宿の一室にて。
椅子に背を預けて足を組むその様は、明らかな怒りを湛えていた。
「悪いとは思ってるけど、阿呆は無いでしょ」
片や腕を組み、口を尖らせそれを見下ろすセシリア。
二人用の客室ではあるが、椅子は一脚しか見当たらず、私達は立ち尽くす他無かった。
「阿呆だっつーの。まだ離れるようなら様子見に行くつもりだったんだぞ。……ったく、夜の街を舐めないで頂きたいね、お嬢様方」
「んまー、何よそれ! 二人居れば魔物だって一捻りよ! それに、夕食の時間には間に合ってるじゃない。お説教なら食べた後にでも聞きますっ」
結局、提案した部屋割りは叶わなかったらしい。宿の入口で出迎えて此処へ案内する途中、少し寂しそうにカノンが説明をくれた。
「何で後なんだよ。今聞く方がいいだろうが。それに、俺らはもう食ったよ。混み合う中に居るのはヤだからな」
「えー! 船じゃそんなこと気にしてなかったじゃない!」
「……もういいから、早く食ってこい」
眉間を押さえ、大きく息を吐く。色々と腑に落ちぬ点はあるが、虫の居所が悪いらしい。私は小さく肩を竦め、扉へと向き直った。
「ファルト。ヤな事言うようだけど、俺はお前にこそ出歩いて欲しくない」
セシリアに呼び掛けようとした所で、低い声が掛かる。
「どうした自信家。この身を止める術は持ち合わせておろう」
魔物の徘徊、女の夜道は……などという戯言とは程遠い理由で不機嫌であるのは、最初から分かっていた。
だが、鬼への変貌を憂いているだけでも無いように思える。
「領域外まで守れるほど、こっちは万能じゃねぇんだよ」
「成る程。どうやら常の自尊心は不在のようだな」
一瞥し、そのまま扉を開け放つ。セシリアに声を掛け、次いでカノンにも呼び掛ける。
「女二人では
「うん、行く」
ベッドに腰掛け、ずっと事の成り行きを見守っていた彼は二つ返事で立ち上がる。マントも上着も羽織らぬままの白き装いに、立て掛けていた剣のみを背負って後に続いた。
「……キッド、後で幾つか答えて欲しい事がある」
廊下に出揃った所で、室内へと向き直る。
彼は妙な沈黙の後に小さく、覚悟しておくと漏らしていた。
料理は決まったものが出るらしい。船のように待ち時間も無く、食事か、人数は、と質問されただけで二人分の料理を手渡される。トレイに乗せられたそれを運び、席に着いて早々、セシリアが不満を漏らしていた。
「絶対待っててくれてると思ったのに」
「空腹に耐えかねて、と理由付られた方が彼奴らしかったな」
酒場程では無いにしろ、確かに人は多い。しかし、船内の混み合いに比べれば静かなものだ。これを嫌悪するなど、普段の彼からは考え難い。
「それに、覚悟しておくだなんて、どれだけ後ろめたい事があるんだか」
「キッド、ずっとどこか見てる。話しかけても聞いてない」
愚痴を溢すセシリアの隣で、カノンが呟く。シジュ果汁入りのグラスのみをテーブルに起き、浮き上がる気泡を見つめているようだ。
「カノンが買った実は美味しいって言った。……でも、セシィと寝るのはダメって言った。人間のままで寝るから、キッドも一緒に寝ないって言った」
私達が食べ始める横で、脈絡無くぽつりぽつりと話し続ける。
「仕方無かろう。子竜のままでは咄嗟に剣が振れぬ。それに、何も纏わぬまま動かれると私達も困る」
身を守りたくばヒトで在れと念を押し、多肉植物を調理したらしいソテーを口に含む。……少々青臭い。
「嫁入り前の淑女に紳士の裸なんて御法度なのよ。覚えておいてね」
対し、珍しい食材に目を輝かせ、料理の味を順に見るセシリア。気が回らないのか、幼子には馴染み無いであろう言葉を並べていた。
それでも一応理解は出来たのか、間を置いた返事と共に空色の頭が頷く。果汁を見つめては“裸、ダメ”と呟き続けていた。
「意外に美味しいね。おもしろーい。……これ、カノンちゃん達も食べたの?」
「草……サラだけ食べた。この緑のも食べた」
「サラダ、ね」
「サラダ。……キッドは緑の食べなかった。嫌いって言ってた。カノンが食べないコレとコレを食べた」
魚とスープを指差し、交換したと付け加える。“嫌い”と言う事は、以前食した事がある風にも取れるのだが……。
「でも、旅してるのならそれも当然だろうしなぁ」
同じ事を考えていたのか、ソテーを刺して暫し見つめるセシリア。
「いずれにせよ、後で分かる事だ」
「そうなんだけどね、あーだこーだ考えてる今が楽しいの」
どうやら、考察の幅が広がり難い私とは違うらしい。青臭いソテーの断面を眺めては気難しい大臣のように唸っていた。
「答え合わせの時の“なるほど”も好きだけどさ、こう、絡まった糸を解いてる感じ。アレが難しければ難しいほど解けた瞬間も嬉しいのよね。……おねーさまも、何かあれば提供よろしく」
そう言い、時に含み笑いを浮かべつつ残りの料理を平らげていく。特に言葉も返さず、私も黙々と食事を続けた。
そうして一息ついた所で暫く、何やら周囲に新たな喧騒が湧き起こる。宿内の食堂ではあるが、酒場との差は特に無い。酒に当てられた何処ぞの戯けが騒ぎ出したのであろう。
聞き流していると、けたたましい音と共に突然、目前のテーブルが勢い良く倒れる。
唐突の出来事に動けぬままそれを見ると、重なるようにして倒れ込む男……と、それらの下敷きになっているセシリアが目に入った。
「セシィ!」
盛大に巻き込まれたらしく、壊れたテーブルや食器類の下で男と呻いている。それに追い打ちを掛けるように、離れた場所から分厚いグラスが飛んで来ていた。
質の悪い喧嘩か、狙われたのは倒れている男であろう。
「あ……」
当たる可能性が、下敷きの彼女にもあるのではと思い至った頃。グラスは男に到達する前に立ち塞がった白い影により、ゴトリと重い音を立てて転がった。
いつの間に手に取っていたのか、カノンが剣の
「あ、りがと……ぐっ!……痛ったぁ……いきなり何なのよ……」
打ち所が悪かったのか、恐々と身体を押さえながら苦し気に呟く。それを掻き消すように、怒号と共に男が近付いていた。
異様に舌が回る物言い故、何を言うておるのかは聞き取れぬが、身を起こしつつある男に向かっているのは明らかだ。店の奥から主人が、外でやってくれと声を掛けるが、怒り収まらぬらしい男は聞き入れようともしない。
これ以上の関わりは避けるべく、セシリアに立てるか問うた所で、背後で剣を抜く音が耳に入った。
「……カノン?」
色々と気に食わなかったのであろうか、殺気立った様子でゆらりと構えている。
その姿に、向かっていた男は一瞬呆気に取られ、けれどすぐさま刀のような得物を抜く。発しているのは相変わらず理解出来ぬ物言いだが、恐らくはカノンを敵と見做し……どうやら、完全に巻き込まれたようであった。
「だ、め……カノ、ちゃ」
細い声で止めに入ろうとしたセシリアの唇を、緩やかに制してやる。
「関わらぬに越した事は無いが、お前をこのような目に遭わせて黙っているのは確かに癪だ」
「同感、だけど、武器は、良くないっ……」
怪我をするのもさせるのも駄目だと言い、止めてくれと懇願してくる。
「さて、どうするかな」
「おねーさま……!」
そうしている内に周囲からは野次が飛び、席を立つ者も現れる。
間合いを詰めて来るのは刀男。
しかし、やはり酔っ払い。足取りが少しばかりふらついている。
「ふっ!」
先手を打ったのはカノン。声無き気合いと共に突きを繰り出す。
男は刀で弾き、一気に詰め寄る。同時に一歩退いて、カノンは男の刃を迎え撃った。
金属が激しく交わる音。圧しているのは体格の差で刀男のようであった。
狭き店内で大きく下がる訳にもゆかず、長き刀身を振り回す事も叶わず、どうにも分が悪いのはカノンのように思えるが……。
重なる刃がいよいよ空色の髪に触れるかという所で、彼の頬が大きく膨らむ。
「!」
一息の間を置いて退いたのは男。
見れば、その前髪に
「あ? え?」
狼狽える男へ鞘の先端を向け、カノンは先程と同じ突きを繰り出す。刀身は収められ、鞘ごとそのまま男の鳩尾へと減り込んでいた。
「ぐっ!」
呻き、膝を折る男。取り落とした得物は悲鳴を上げるかのような音を立て、カノンに踏み付けられた。
「セシィに謝れ! 人間!」
……恐らく。
その言葉に誰よりも動揺したのは私だろう。
けれど、周囲は相変わらず野次と歓声が飛び交い、彼の言動やその奇行を疑う者は居ないようであった。
「ぐ、ぶぇ……」
男は膝を折ったまま手を付き、妙な呻きを漏らし……遂には嘔吐し始める。
「うわぁ、なんか気の毒」
その場で見守っていたセシリアが、哀れみの視線を向ける。
そう言えば、最初に倒れ込んで来た男の姿が無い。混乱に乗じて逃げ失せたか。どのような経緯で起こった騒ぎなのかは知り得ぬが、中々に迷惑な話だ。
カノンは刀から退く事も無く、吐き終わってから謝れと冷たく投げ掛ける。すると男は徐ろに懐に手を入れ、ゆらりと立ち上がる。少しばかり脱力しているようだが、その行動には嫌な予感しか無い。
カノンが、呪うように何かを呟いた気がした。
「バ……」
──キュキュン!
脇のセシリアが聞き覚えのある術を唱えようと手をかざした瞬間、突如金色の環が渦中の二人を捕らえる。
男の足元には、やはり短刀が落ちていた。
「何やってんだよ」
辺りが一瞬静まった所で、術の主が低く声掛けてくる。
妙に響いたそれは、周囲の視線を集めながら喧騒の輪へと入ってきた。
「どっちも逆切れは良くないなぁ」
嘔吐物を避け、カノンの足を叩き、刀と短刀を拾い上げるキッド。
いつから見ていたのであろうか。それとも、状況を読んだのか。
「とりあえずアンタさ、謝ってもらっていい? 事故とは言え、女の子に怪我させたんだしさ」
いずれにせよ説明は不要のようである。けれど、その格好は予想していたものとは違い、フードまで被った暑苦しい出で立ち。夜間は多少冷えるとは言え、室内で……しかも、ヒトの多いこの場では、私のような素性でも無い限り不自然な姿である。
「……」
「あー、んじゃカノン、お前が先に謝れ」
「何で! 悪いのはこいつだ!」
拘束されたまま食って掛かる彼に、褐色の影が詰め寄る。
「お怒りはごもっともだよ阿呆。けどな、抜いちゃ駄目だろ。喧嘩売ったんだよお前。そりゃ向こうも怒るわ。だから謝れ」
「でも、セシィが!」
「だからそのセシィに!……セシィだけじゃない。ファルトにだって、この刃先が向かう可能性があったんだぞ。守る者が多い中で、無闇に斬り合うな」
「……」
始まった説教に興醒めしたのか、周囲を取り巻いていた者たちが各々の席へと戻っていく。中にはセシリアを案じて声掛ける者も居たが、大事に至らぬ事が分かると、軽い挨拶を残して去っていった。
「…………めんなさい」
「……るかったな」
と、目を離した隙に小さな謝罪が飛び交う。視線を戻すと、未だ拘束された男へ得物が返却されている最中であった。
「アンタも、乱闘起こすまで飲み過ぎるのは良くないって教訓になったろ。常習者ならちょっとは悔い改めてくれ」
肩を叩き、術の詠唱を始めるキッド。男はようやっと怒りを収めたのか、それの顔をじっと見つめ、黙していた。
「……お前、アレンか」
だが、沈黙は早々に破られる。
否、もしかすればその声は、当事者にしか聞こえぬはずのものだったやも知れぬ。
突如として捉えてしまったそれに、条件反射の如く頭が冷える。いい加減、慣れねばならない。同じ名であるなら、呼称も自ずとそうなる。……だが、今その名を聞くのもまた違った意味合いが含まれる。
顔見知り、なのであろうか。言われた当人の顔はこちらからは見えない。術の詠唱は一瞬だけ、留まっているように思えた。
「……な。逆切れして良い事なんて、何も無いだろ?」
二人の拘束を解き、それだけを返答する。
次いでこちらへと向き直り、セシリアの前へ屈んでは腹を庇うその様を観察していた。
「動けねぇくらい痛むなら部屋で治す」
「……お願い」
「変態がどうのとか言うなら、どっちかに頼め」
「……いい、連れてって」
遣り取りの最中、男に視線を戻すも既にその姿は無く、心配そうにこちらを見つめるカノンと、仕方無く後処理を始める店の者が残っていた。
「戻るぞ」
セシリアを抱え、返事も待たずに歩き出すキッド。
我に返り、私も後を追った。
階段に差し掛かった所で、未だ気が晴れぬらしいカノンへと声を掛ける。
「止めずにいた私にも非がある。すまなかったな」
「……ルーナは悪くない」
「悪くないこたねぇよ。こいつも調子に乗りすぎ」
横槍を入れるそれに肩を竦め、再び話し出す。
「セシリアに再三止めろと言われたが聞き入れずにいた。理由はお前と同じだ。……それと、その大剣でどのように動くのか興味があったのでな」
存分に発揮出来たとも思えぬが、僅かな時間の中でも面白いものが見られたと含み笑う。
「ただの冷風を、よくぞ半日足らずで育て上げたものだ」
よくやったと、前方には聞こえぬよう声掛け、その背を軽く叩く。やんわりと笑みが浮かび、無垢な返事と共に小さく頷いていた。
「だが、……カノン」
折角持ち直し始めた気分に、水を差しているとは思う。それでも、恐らくは言うておかねばならない。
「ヒトと己を隔てたくなくば、相手を“人間”と罵るのは止めておけ」
確か、出会った当初の第一声もそれであった。
今や和らいだとは言え、やはり根底には恨みがある。人間の穢れを目にする度、忘れ得ぬ憎しみが呼び覚まされるのであろう。
気持ちは理解出来る。痛い程に。
「お前は、鏡やも知れぬ」
陽の二人に付いていると霞んでしまう事だが、陰に対峙すればすぐさま己に反映する。
「出来れば、光を湛えていて欲しい」
同じ合いの子として、それは自身への救いでもあった。
「うん」
小首を傾げながらも頷く。理解したのであろうかと苦笑すると、“カノンも人間”と、多少的を射た呟きが後から耳に入ってきた。
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