-5- 四人、共に

 予想に全く反する事無く、中は暑かった。

 病み上がりのセシリアにとっては船上の方が楽に過ごせるであろう。だが、覆面を纏う我が身には少々辛い。早く取り去りたいと思いながらドアノブに手を掛け、しかしすぐに鍵が無い事に気付く。


「ん」


 戻るかどうか悩む間も無く、横から手が伸びる。見れば、当然のようにキッドがこちらへと鍵を差し出していた。


「付いて来たのか」

「気付いてなかったのかよ」


 受け取り、鍵を回す横で首が傾げられる。扉を開き中へ入ると、カノンの服を取りに来たと説明された。


「お前らが直視出来ない様を見るのも楽しいけど、マント返して欲しいし」


 言いながら、自身の荷物袋から少年の物らしきもえいろの服を取り出す。隠し持っていたのかと睨んでやると、今度はベッドから分厚い長身の剣を取り出し、乾いた笑みを寄越して来た。

 大男め、気取られぬよう自身の背にでも収容しておったな。


「セシィが付いて来る時もさ、根性無けりゃシェラムに送り返してやろうと思ってたよ」


 と、突然ぽつりと話し出す。


「でも実際、俺よりもお前の事を癒せる存在になってる」

「何の話だ」

「あいつらを付かせた理由」


 何を尋ねた訳でも無いが、今日のキッドはよく喋る。それに、突拍子が無い。覆面を脱ぐ裏でふと、怪訝さが露になっていた。


「氷の地への乗船許可証なら……シェラム発行じゃなくても俺、持ってんだよ」

「……は?」


 ここへ来て何の告白であろうか。故にセシリアは最初から容認していたとでも言いたいのか。

 ……そのような事、分かり切っておったが。


「お前の旅には、仲間が必要なんだ」

「子竜に関してもその内慣れると言いたいのであろう。もう良い」


 物置台にマントを掛け、背もたれの無い簡素な椅子に腰を下ろす。息を吐きつつ足を組み、汗拭う彼を見た。


「ははは。頑なに“関るな”つって、逃げ回ってた頃が懐かしいな」

「ふ、隙あらば今でも欺いてやるぞ」

「おー、やってみろよ。お前追っかけんの、かなり良い運動になるんだわ」


 と、全く意に介さぬ様で勝気な笑みを浮かべる。

 ……私の勘違いなどで無ければ。

 それはまるで、互いへの信頼から繰り出される言葉。


 かつて軽薄と感じていたその顔は今や、多くの不信を拭い去れるものとなっている。この男が何処から現れた何者なのかすら知らぬというのに。

 そう思えば可笑しさが込み上げ、軽く失笑していた。


「そういや腹減らね? 何か持ってこようか」


 言いつつ、彼は荷物を手に出て行こうとする。


「いや、それよりも喉が渇いた。お前自身の味が落ちねばそれで良い」

「えー……」


 セシリアから飲むつもりでいたが、今は安静の身だ。そろそろ時間の開きも大きくなってきている。余り限界には持ち込みたく無い。


 笑みを引き攣らせつつ部屋を後にするキッドを見送り、深呼吸を一つ。


「潜み黙して久しい気もするが、その無言に裏はあるのか」


 存在すら忘れてしまいそうに思えた頃、声にして内へと問い掛ける。

 否、心地良さを感じた後には必ず貶める存在が在った事を、どうして忘れられようか。


 相変わらず返事は無い。例の朝に貞操は守れと言い捨てられてからというもの、その声を聞いてはいない。

 何奴どいつ此奴こいつも、何を考えておるのか知れたものでは無いな。解放されたと腑抜けさせておいて、後々落とす気であろう。全く、趣味が悪い。


「……」


 それとも、本当に……。


 暫し間を置き、そんなはずが無いでしょうと嗤う声を待つ。

 波に揺られ軋む船体の音が、その呪いをいざなうかのように長く響く。


 それでも声は無い。もはや気味が悪かった。


 ……と、肩を落とした所で静かに扉が叩かれる。

 内心で色々と構えていたにも拘らず、まるで臆するように息を呑んだ。


 妙に早いがキッドが戻ってきたのであろう。ようやっと礼儀作法を覚えたかと、扉へ向かい返答する。

 しかし、開かれた先から見えた背丈は予想に反して低いもの。私は目を細め、強かな面持ちで入室するそれを見据える。


 掛ける言葉などこちらには無い。何用かと訝しんでいると、その後ろに続く萌葱色の影があった。


「ちょっとで良いから、カノンちゃんのを飲んで」


 それを前へ促し、腕を差し出させるセシリア。

 子竜から摂取する気は無かったが、万が一に備えさせるつもりか。毒に慣らす為という理屈は分かるが、やはり抵抗を感じた。


「早く飲め。おねーさま」


 仏頂面で突然、そう言い渡される。男声にて低く無機質に響くそれは、若干肌が粟立つ程の不気味さを思わせた。


「……ファルトと呼べ」

「ハ、ルト」

「違う、ファルトだ」


 訂正してやると、彼は眉根を寄せ、口を開いたり閉じたりと突如妙な動きを見せる。


「ゥア、ルト」

「ふざけておるのか?」

「ふざけてない。……フ、アルト」

「あ、今の惜しいね」


 冗談を言える口では無いのは知り得ている。しかし、これは……。

 再び同じ遣り取りが繰り返され、何度か言い合う内に、両者間で徐々に沈黙が流れ始めていた。


「うん。あのね、カノンちゃん、“ローファ”っていうお母様の名前も発音出来ないの。何度も訂正するの可哀想だし、あたし達も諦めたんだよ」


 私が竜共の名を覚えられぬのと似たようなものか。

 だが、姉呼ばわりはお転婆だけで十分だ。


「ならば、ルーナと呼べ」

「ルーナ?」


 彼が口の運動をする背後から、声高に聞き返してくるセシリア。


「幼少期の呼び名だ。舌足らずの子供でも発音出来る」


 言うてやると、何故か彼女は両の手を頬に添え、何それ可愛いと声を漏らしていた。


「ルーナ」

「ああ、それで良い」

「よし、飲め。ルーナ」


 そして、何事も無かったかのように再び腕を差し出してくる。余りにも無表情なそれに、本当にこれから起こる事を理解しているのかと目が細まった。


「カノンとルーナが生きるためにすることだ」


 問い掛けると、やはり表情変えぬままに率直な答えが返ってくる。覚悟とは呼べぬ様だが、何事も受け入れる気ではいるのか。どうなっても知らぬぞと、諦めにも似た気持ちでその腕を取る。


 大剣を得物とするだけの腕力は蓄積されておろう。キッドと比べると中性的な腕ではあるが、やはり筋張っていた。


「お前も、余り柔らかくは無さそうだな」


 溜息と共に唇を寄せる。すると、触れてでもいたのであろうか、セシリアの髪の匂いが鼻を掠めた。


 瞼が僅か引き攣る。自身でも意図せぬ表情。胸に湧いた感情をそのまま認めるとするならば、それは恐らく……。


 目を閉じ、容赦などせぬ勢いでその手首に喰らい付いてやる。毒が回る前に痛みでも感じたのか、彼は小さく呻いた。


 同時にぎゅむと響いたそれは、船体の軋みによるものか、はたまたセシリアの鞭握る皮の擦れか。私の暴走を見越し、その手で止めようと密かに身構えているのであろう。


 薄ら目を開き、滲む血色を見る。毒を回すだけに留めておいてやろうと吸わずに置いたが、やはり味見位はしておくべきか。珠と成り始めたそれを小さく舐め取り、広がる味を吟味する。竜よりも人の味に近しい。悪くは無い。

 けれど、そろそろ毒が回る頃か。


 顔色を窺うと、既にその瞼は閉じられ、緩やかに身体が傾いている。そのまま倒れるのかと思えば、同時に腕が身の中心へと引き下がっていくように見えた。

 やはり、意識を失うと縮み行く体質か。

 手を離し、衣服に埋もれる空色を見守る。間も無く変化が止まるとセシリアが傍に屈み、子竜と成ったそれを静かに拾い上げた。


「お疲れ様。頑張ったね」


 傷消しの術を唱えつつ、そのままベッドへと運ぶ。

 その目に湛えられるは、慈しみ。

 追うように私も席を立ち、彼女の背後からそれを眺めた。


「仲間か? 保護者か?」


 冷え行く頭の中で、無意識にそう漏らす。


「え?」

「子供だからと、無闇やたらと男に触れさせるな」


 肩に掛かる亜麻色の髪を示し、背へと流してやる。襟元を開放した首筋が露わとなり、嫌でも目に付く。


 一層の事、このまま食らい付いてやろうか。

 思う自身の表情には険しさが浮かんでいるようであった。


「それでも、今はまだ甘えさせてあげたいよ。あたしも小さい時はママや乳母にべったりだったもん。……おねーさまはそうじゃなかった? 両親に、七つ上のお姉さん。ずっと前にお会いした事あるよ。優しそうなお方だったじゃない」

「……」


 浅ましき思考が、瞬時に紅の髪色を思い起こさせる。


「ビアンカ様、べったりさせてくれそうな母性が滲み出てたんだけどなー」

「幼少の頃など覚えてはおらぬ」


 代わりに、全てを覚えているアレンに幾度かその様子は聞かされていた。

 人見知りの妹姫。その姿が陰であれば姉姫は陽。もう一人の母のように付き従い、見知らぬモノを見るとすぐにその背後へと隠れてしまう。

 確かに、べったりと表すに相応しい様。


「ふふ、あまり似てないよね。国王陛下にも似てらっしゃらなかったけど、妃殿下似?」


「姉上は先代王妃の系統だ」

「そっか。じゃあおねーさまが妃殿下似かな」

「……だから何だ」


「あたし、ローファさんにちょっと似てるんだってさ。顔か雰囲気かはよく分かんないけど、マリス様の御墨付き。他にも何人かに言われちゃった」


 だから、大きい身形の子がべったりでもいいじゃないと、空色の背を撫でつつ柔和に笑む。……喉の渇きが僅か強くなるのを感じた。


「かつての甘え気質故に、か」


 白いその手が少年に触れる度覚える焦燥感は、やはり嫉妬であろう。成長しても変わらぬ我が幼心に自嘲する。


「何か言った?……あれ、おねーさま、目の色おかしくない?」


 こちらへ向き直る彼女が私を捉えるのと同時に、ゆらりと身を寄せる。腰に手を回し、もう一方で後頭部から髪を押さえ、首元へと目を伏せた。


「ひっ……ああああの、あのさ、首吸いってまだ有効なのかなっ? もう隠す事何も無いんだけどねっ……ねっ?」


 目から鼻、鼻から唇と自身の顔を擦り付け、その匂いを肌で感じ取る。


「恐らく私も、お前に強い母性を感じている」

「うんうんうん、……うん?」


 後頭部に添えていた手を放し、襟元を更に下げる。流れ落ちてきた髪を影に、首筋を食んだ。


「ああああ待って待って待って!」

「独占欲……であろうな。その母性を他へ向けられるのが許せぬのだ」

「なにっ? 何言ってるのっ? ひはははくすぐったい! 今無理ホント無理ひひひひ!」

「愛しい、私だけの……」


 言い終えぬ内に強く抱き竦め、歯を立てぬまま幾度も肌に吸い付く。飲みたい気持ちを抑えるが故に、響かせる水音が執拗になっていた。


「んんん、ちょ、ちょっと……」


 身を強張らせ、私の肩を押し遣ろうともがく。余り力が入らぬのか、緩々とただ握り拳を滑らせていた。


「か、噛むなら早く……う、く、んもぅ! くすぐったいんだってば!」

「病み上がりの体に牙は突き立てられぬ。お前自身の血が欠いては困るであろう」


「じゃあ今のこれは一体な、に……うぁ、ねぇ、ほんとにやめっ……」


 か細くなる声に次いで、膝を折る。突如掛かった重みに対処し切れず、均衡を崩してそのまま二人、床へと倒れ込んでしまった。


「!」


 せめて背面に衝撃が走らぬようにと、その頭を引き寄せはしたが、結局は自身の腕ごと打ち付けてしまう。


「すまぬ、大丈夫か?」


 腕で支えながら身を起こし、その顔を見る。……紅潮した頬が目前にあった。

 きつく閉じられていた瞼が薄く開き、我が目を捉えては大きく見開く。困惑の表情で、更に顔を上気させていた。


 胡桃色の双眸が忙しなく動いている。まるで思い詰めたように、唇を引き結ぶ。


「セシ……」


 皆まで言わぬ内に、前方の扉が緩やかに開いた。


「あ」


 部屋へ一歩、大きな足が踏み入ると共に、低い声が漏れる。


「ごめん、また確認忘……」


 見上げると、次の足を踏み出したまま留まるキッドと目が合った。


「れ?」

「あ、待っ、違っ……」

「遅いぞ」


 お前が居らぬと喉を潤せぬであろうと吐き捨て、緩やかに立ち上がる。


「えーと、……え?……えっ!?」


 次いでセシリアに手を貸そうと腕を差し出した所で、彼の困惑の声が上がり、何故か突然術の詠唱が始まる。

 周囲の状況を把握するよう視線を送りつつ、後ろ手で扉を閉めていた。


 何であろうか。強張った顔で唱えられる術。私に向けられているように思える。音の流れからして聞き覚えのあるもの。……嫌な術。


「な、何? 何でいきなり束縛の術っ?」


 私の手は取らぬまま身を起こし、セシリアが問い掛ける。


「……やはりか」


 捕らえられては厄介だと、術の完成など待たずに飛び掛かり、唱える口を抑え込んでやる。どういうつもりかとこちらが口を開く瞬間に、けれど手刀が振ってきた。反射的に弾けば、自由になったその口から再び術が紡がれる。


「おい、気でも触れたか」


 癪であったが、狭き部屋で動き回るのも暑苦しく思え、仕方無くそれを待つ。


「バイン」

「ちょっとちょっとちょっと!」


 今度は間にセシリアが入り、完成間近の術を留める。

 キッドの正面へと向き直り、両頬をつねり上げ、中断の声を上げさせた。


「いへっ、いはい! おいへひぃ!」

「終わり! おにーさま終わり! 何なの突然、意味分かんないよ!」

「阿呆! 金目はヤバさの象徴だろうが!」


 彼女の腕を掴み、次いで鎖骨辺りを何やら確認しながら怒鳴り散らすキッド。


「やー! どこ触ってんのよ変態!」


 怒鳴られた調子と同じくして叫び返すセシリア。


「変態言うな! やられたのはカノンだけか!?」

「金の目だと? 何を言う、自身の感覚は保っておるぞ」


 鼻を鳴らし、物置台にあった小さな鏡を覗き込む。……紛う事無き明光が、紫紺の隙間から睨め付けるようにこちらを見ていた。


 思わず間の抜けた声が漏れる。兆候があった訳でも無い、例の不快な笑みに誘われた訳でも無い。流れるように掏り替われど、その先を支配される感覚も無い。


「何だこれは」


「カノンちゃんの件はこっちから頼んだの! あたしの事はちゃんと体調気遣ってくれて、噛みたくても噛めないとかで何かもう……あーもーあーあー! 多分アレだよ、飲み足りなくておかしくなってたとかそういう事だよね! おねーさま!」


 襟元を掻き合わせつつ、セシリアが上擦った声で捲し立てる。


「何でもいいから、早くお腹一杯にしてあげて! おにーさま!」


 と、横たえたはずの子竜を無造作に引っ掴み、逃げるように部屋から出て行ってしまった。


「……」


 後には、揺らぐ船体と波の音。そして、呆気に取られるキッドと私が残される。


「……何か、あったのか?」


 警戒は解かぬまま、紺碧の瞳が動く。


「可笑しくなっていたつもりは無いが」


 再び腰を下ろし、とにかくそろそろ喉の渇きが限界だと訴える。彼は怪訝な表情を浮かべながら一瞬首元を掻き、躊躇った後腕を差し出してきた。

 それを、物言わぬまま明らかな不満と共に、視線を返してやる。


「や、首はもういいだろ。カノンバレたし。暑いし。金目怖いし」

「……金、か」


 全く正規の感覚のままの変貌など、これまであっただろうか。喉は渇いているが、獣のように欲するでもない。女が応えぬ事と何か関係はあるのか。

 けれど、これはこれで久しく自身を取り戻したような心地良さがある。解放とはこういう事のように思えた。


 ……目前の肌に手を遣る。先程まで中性的な腕を見ていたからか、一際大きく感じられた。

 長きに渡り、柔らかい首元から飲む事が許されていただけに、やはりその箇所が恋しくなる。だが、金の目の私にそれほど嫌な思い出があるのか、彼は強張った表情を崩さぬまま、静かに腕を伸ばし続けていた。


 危険など無いと、今なら自信に満ちた主張が出来るというのに。

 信頼がどうのと甲板で散々言い合うた数時間前が今になって思い出され、私は苦い笑みを溢していた。






 夕食を終えて暫く。だるような暑さは何処いずこへと潜み、多少は過ごし易い夜が訪れていた。


 キッドの格好もまた、袖のあるものへ。対してセシリアは、普段のワンピースの代わりになりいろの丈の短い服を着用している。足は変わらず晒したまま。……中々、令嬢のする格好では無いなとつくづく思う。カノンに関しては幾分涼しくなったとは言え、萌葱色のマントを羽織った暑苦しい格好のまま。


 人数も揃えば体感温度も様々なのであろうか。覆面だけを纏う口元で、ふと息が漏れる。


 私も、カノンと同等の暑苦しさになるはずだったが、マントを手にした途端、多分必要無いとキッドに言い渡された。


 万が一を考慮せぬ理由ばかりを並べられたが、何とは無しに従ってみた。髪だけはセシリアに後頭部へと結い上げられ、変装とも言えぬが普段とは違う装いで過ごす事となる。


 そして、皆でぞろぞろと向かった先は此処、喧騒鳴り止まぬ食堂。現在は酒場と化しており、赤ら顔の民各々にグラスが握られていた。


「ほどほどにねー」


 酒の呑めぬ三人で特産の果汁とやらを嗜みつつ、民衆と同じくして赤くなっているキッドへ度々視線を送る。どうも、何も考えぬまま胃へ流し込んでいるように見えた。


「おい、明日に響くのではないか?」

「響かねーよ」


 機嫌は良さそうだが、如何いかんせん口が悪い。

 これだから酒というものは。


「やっぱこの味に限るわー」


 言いながら、見た目は私達の果汁の色と変わらぬそれを一気にあおる。そして豪快にグラスを置き、再び同じ物を注文していた。


「うわぁ。カノンちゃん、真似しちゃ駄目よ」

「分かった」


 そう言われるのが癖であるかのように、彼は間も置かず素直に頷く。その視線の先には自身のグラス。横から僅か覗き込むようにして何か……恐らく、果汁内で浮き上がる気泡を見ている。時折目が輝いているように見えるが、面白いのであろうか。些細な行動はやはり幼子のそれであった。


「カノン」


 意を決し、その名を呼ぶ。

 幼子らしかぬ低い声で、何だと返って来た。


「昼間はすまなかった」


 そう言うと、少々間を置き、紺碧と胡桃色の目が妙に見開いてこちらを見る。どちらも何も言わぬまま、グラスに口を付けていた。……キッドに至っては空であるが。


「実は加減などせずにその腕を喰ろうた。痛んだであろう」


 気泡の観察を止め、彼もまた視線を寄越す。小首を傾げ、数回瞬いていた。


「よく噛みなさいってセシィに言われた」

「は?」

「ルーナはよく噛んだ。間違ってない」

「……いや、それは」


 声を漏らすのと同時に、両隣りで噴出される。


「うん……うん、言った。確かに言った。偉い偉い、カノンちゃん偉い」

「良かったな、ファルト…………うぁん? ルーナ?」


「お前が意に介さぬならそれで良い。すまなかったな」


 横の二人は捨て置き、再び詫びを口にしてからそっと右手を差し出す。だが暫く経っても手を取る素振りを見せず、何故か大口を開いて顔を寄せてくる。

 そんなカノンを見て、キッドと何やら話していたセシリアが慌てて右手を差し出させた。


「あーくーしゅっ。仲良しの証っ」

「……」


 腑に落ちぬ和解となったが、とりあえずは良しとする。

 元より少年は頓着せぬ性質らしい。ならばこちらもそれに倣うだけだ。


「お前も、すまなかったな」


 と、今度は手を取らせる彼女へ向かい、そう詫びる。何とは聞かず、流れからして同じく昼間の事であろうと悟ったのか、突然視線を逸らしてはまたグラスに口付ける。


「思えば、金の目であったのなら多少は理性の利かぬ状態に置かれていたやも知れぬ。節度なく無様な姿を晒してしまった事を許して欲しい」


「全然っ、気にしてないし! びっくりはしたけどっ……でもやっぱり、首は止めてねっ」


 肩を竦め、その要求を聞き流す。簡易に巻いた覆面の下で、私も果汁を飲み干した。


「……仲良しの証は?」


 話題の途切れた所で、カノンが首を傾げる。先程のように謝罪の果てに握手を交わすのが決まりと解釈したのであろうか。


 物言わずグラスを置き、セシリアに向かい手を出してやる。何やら説明しようとしていた彼女は一瞬呆気に取られ、戸惑いながらも小さく握り返してきた。

 それを上下に軽く振り、解放する。


「これで良いか?」

「うん」


 僅か口の端を吊り上げ、満足気に頷く。初めて目にしたやも知れぬその微笑みは、やはり幼さを残したものに見え、懐かしい無垢を感じた。


「俺も俺も」


 新たなグラスをあおり、キッドが両隣りの私とカノンへ手を差し出して来る。酔っ払いの相手は面倒だと私はその手を撥ね退けたが、カノンは律儀に応じていた。


 次いでセシリアにも求めようとテーブルを這い出した手の甲へ、素早く器用にグラスが乗せられる。大男の口から泣き言が漏れた。


「ぬえー、優しいのはカノンだけかよー」

「絡まないで酔っ払い」


 項垂れるそれの投げ出されたもう片方の手の甲へ、私も空いたグラスを置いてやる。そして未だ少量しか口を付けていないらしい酒を半分ずつ注ぎ、放置した。


「おおい、何しやがるっ」

「一滴でも零せば、以降延々と首からの摂取とさせてもらう」

「げ」


「あー面白いねそれ。すみませーん、シジュ果汁一つお願いしまーす」


 立ち回る店員に急ぎで、と頼むセシリア。後に本当に素早く運ばれてきたそれを満面の笑みで受け取り、両手のグラスへ等しく注いで八分程の量にする。


「あああ、酒が薄くなる……」


 合間にもどう抜けるかうわ言を漏らしていたキッドだが、セシリアが注ぎ終えた時点で脱力していた。


「飲み過ぎた罰だよ。大切な旅費を酒代なんかに注ぎ込まないでよね」

「俺の金なんだけど」

「戯けが。四人で旅をする上でその理屈が通用すると思うな」

「えー」


「キッド、人間の女は怖いって、父さんが言ってた」

「……おう、何かズレてるけど、よく分かってんじゃねーか。ちゃんと肝に銘じとけよ」

「うん」


 テーブルに伏しながら苦い笑みを溢す。諦めたのか、深く息を吐いて目を閉じていた。


 やはり、飲み方に無理があったのではなかろうか。このまま放って置けば寝入ってしまいそうな程に項垂れている。


「ちょっとおにーさま。薄くなったって誰も呑めないんだから、頼んだ分は残さないでよね。……ほらほらぁ、どっちのグラスにも乙女の口付けが施されてるよぉ」

「阿呆。何が乙女だ。お転婆の小娘共が」


「この状況下で挑発とは良い度胸だな。……カノン、此奴の脇腹をつついてやれ」

「分かった」


 素直な返事と共に、少年の指が言われるがまま動く。途端、奇妙に身を捻らせて喚くキッド。笑いに怒声を入り混ぜる様が可笑しく、釣られて私とセシリアも失笑していた。


「うは、ちょっ、こぼれる! だー! もう! 首からでも何でも飲みゃあいいだろ! 降参っ、ふっははは降参だって!」


 楽しくなってきたらしいカノンの激しい手付きに耐え切れず、焦り吐き捨てる。相分かったと自身でも理解出来る程の上機嫌で両のグラスから解放してやれば、報復とばかりにカノンを擽り返す。

 聞き慣れぬ笑い声が周囲の喧騒と混じり、更なる賑わいを生んでいた。


「あはっ、なんでっ、カノン、ルーナの言うこと聞いただけっ……ふふはっ、くすぐったい!」

「“オレ”って言えつってんだろ」

「だめ。“ボク”って言うの」


 ……四人。


 幼子と変わらぬが、同じ男が居る事でキッドも少しは落ち着けるものがあろう。独特の噛み合わなさが有れど、カノンも馬鹿では無い。成長を見守る母親の代わりも居る。

 悪くは無い。……そう思う程に、時の流れが惜しくなる。


 彼らと共に在る未知の旅路が、好奇の念を揺さぶるものだとしても、今この心地良さも長く味わっていたい。

 ……表裏で物を考えるのは悪い癖だ。

 思い、手招く仄暗さから目を背ける。隣り合わせであろう悲運を見て見ぬ振りで遣り過す。


 それが何時まで許されるのか、今だけは心深く押し込める事にした。


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