-4- 青碧の眼

 亜麻色の髪が踊り、緩やかに空を仰ぐ。


 マントも羽織らず、丈の短いワンピースから、日焼けも気にせぬ程に惜し気無く白い足を晒している。飽く事の無いその好奇心は、日陰にも留まらず長くそうしていたのであろう。たんこうの後姿に呼び掛けようと口を開くと、それは突然、糸の切れた人形のようにくずおれた。


「え?」


 背負う箱も同じく、けたたましい音を立てて甲板へと転がる。蓋が僅か開き、氷の破片……では無く、多量の水が飛び散った。


「セシリア!」


 戸惑いと共に床に縫い付けてしまった足を、再びそちらへと赴かせる。駆け寄り抱き起こすも意識が無い。汗の量が酷いが、やはり熱にやられてしまったのであろうか。

 舌を打ちつつ彼女と木箱を抱え、日陰へと向かう。


 急がねばならぬ状況を、けれど人目を嫌い、裏側へ。


「んあ? おかえ、り?」


 呆けるそれの傍に彼女を横たえ、水筒を取る。


「突然倒れた! おい、大丈夫か!」

「うへ……だからマント被っとけっつったのに」


 名を呼び、水を含ませるが口の端から零れ落ちてしまう。飲めているのであろうか。


「出来るだけ服緩めてやれ。給水と冷却はこっちで……」

「この箱の中身がそうであろう!」


 氷は既に溶け始めているようだが、今使わずしていつ使うと、勢い良く蓋を開いて中を探――


「っ!」


 けれど、何か妙な感触のモノを掴み、思わず手を引く。


「そっちはまずいって!」


 再び中を探ろうとすると、キッドに取り上げられてしまった。


「今、何かぬるりと……!」

「術者が居ねぇから溶けてんだよ!」

「生温い氷など在るものか!」

「魚だ、魚! いいから服、どうにかしてやれ!」


 取り乱しているのであろうか、背を向けては荒々しい声のまま突然術を唱え始めた。


「レイ・ヴィート!」


 記憶が正しければ、聞き覚えの無いものである。

 セシリアの衣服を脱がせる横でそれを見遣ると、在らぬ空間から小さな水の渦が巻き起こっていた。


 渦は頭一つ分程の球形を成し、弾ける泡の如く消えゆく。すると、中から青を纏う小人が現れた。


「イレスト。セシィを……セシリアな。冷やしてやってくれ」


 子供のようなそれに、キッドが命じる。

 よく見れば、イレストと呼ばれた少女の足は魚のそれと酷似していた。上半身の所々にもヒレと鱗のような皮膚。……水の精霊とやらであろうか。


「ラバングース、ラグも居ると手っ取り早い」

「そんな手に乗るかよ。魂胆見え見え」

「ふふ、残念」


 微笑を湛え、精霊はふわりと水を蹴るような仕草でこちらへ飛んでくる。脱がせた服をそのままセシリアへと被せ、不可思議なそれを凝視した。


「コンニチハ。ラグの吐息が効かぬヒト」

「?」

「そっちはファルトだ」


 何の事かと彼女を見つめていると、背を向けたままのキッドが声を掛けてくる。


「そう。……何にしろ失敗に終わったようね。ラバングースを絞め殺すのは」

「!」


「イレスト、いいから早く」

「成功したら、またルイに埋葬を頼んであげる」

「イレスト!」


 苛立ち含む物言いに、精霊は肩を竦めてセシリアの額へと近付く。人間の指先程の面積しかない小さな掌をそこへとかざし、静止した。


「……キッド、この者は信用出来るのか?」


 相性が悪いと、いつぞやに聞いた。今の流れからもそれは読み取れる。ならば、術者の命に背く、あるいは揚げ足を取るような従い方をする等の背反が無いとも言い切れぬのではないか。ただ“冷やせ”と命じ、体温を奪うような事があっては取り返しがつかない。


「って質問が出てるけど、どうなんだ? イレスト」

「ふふふ、ご心配なく。レイは召喚者に味方する」


 セシリアの額に掛かる髪を愛おし気に流し、彼女は続ける。イレストと呼ばれていたはずだが、レイと言うのも自身を表すのであろうか。


「ならばここで、その娘を瀕死に陥らせる事など無いと誓えるか」


「彼女がそれに値する罪が無いなら、どんな召喚者、理由であろうとそんな命は受けない」


 穏やかな表情を見せ、今度は唇へと手を当てる。


「要は自分で判断して動くってことさ。俺は冷やせとだけ言ったけど、必要なら給水させるだろ」


 今、行っているのが正にそれであろう。妙な光景だが、セシリアの口元で小さく水飛沫があがっている。飲めぬはずの喉を通……いや、それとも直接胃へ移動させているのか。


「……」


 自身がされている訳でも無いというのに、喉に違和感を覚えた気がした。


「ラバングース、もう背を向ける必要は無いわ。塩は持ち合わせているわね? レイの役目は終わり」

「おー、ありがと」

「あら珍しい。使役を当然とする貴方が感謝の言葉を吐いている」


「……そうだな。つーか、お前らの存在に関してセシィから散々どやされたよ」

「ふふ、最近は精霊を脅かしてはいないようだし、精神的な不安は緩和されるようになってきた?」


「そうかもな。……ま、大人になってきたってことさ」


 穏やかに笑んでいたはずの精霊は、キッドのその言葉で僅か眉間に皺を寄せる。


「若気の至りとやらで源を消されたのでは洒落にならないわ。彼女が倒れている間は氷の面倒も見てあげないからそのつもりで。……皆の愚痴も、もう暫くは続きそうね」


 口早に言い残し、再び水と共に消え去る。冷ややかな視線の裏に、微かだがこの男の事を見直したように読み取る事も出来た。


「ティレスト以外呼ばねーもん。つーか未遂だろ。何ちょっと消されたみたいな言い方してんだよ。ほんっと疲れる」


 当の本人はまるで大人どころか幼子のように口を尖らせ、木箱の肩掛けとしていた布をセシリアの後頭部に敷いている。


「ごめん、気分悪くしたよな。俺ちょっと恨まれてるから。……ったく、あのお喋り風精め。……ん? 埋葬話があったから結局土精もか。はーあー」


 文句を垂れながらズボンから小袋を出し、中身を一粒差し出してくる。白く不透明な硝子玉のように見えた。


「塩っつーか飴。こうなりたくなけりゃ舐めとけ」

「……」


「あれ、こんな時何て言うんだっけ?」


 受け取り、口に放り込もうという瞬間にそう言い渡される。


「ぁ……ありがとう」


 やはり、不思議と何のわだかまりも無く口に出す事は出来るようだ。……が、妙に気恥ずかしい。

 紛らわせる為に視線を周囲へと飛ばし、ある物に目を留めた。

 それは術者を失い、遂には隙間から水を滴らせている木箱。


 先程の不審が蘇る。魚の傷み易さなど、私でも知り得ている事だ。生温かいとなれば食す事も叶わぬ具合であろう。

 それに、幾ら冷やせるからとは言え、このような熱帯に持ち込もうなどと考えるのは妙だ。


 飴を口へと放り込み、気取られぬよう体重を移動させつつキッドの背後を狙う。


 一体何を入れているのであろうか。生温かく、ぬめりのあるもの。……この先の旅に必要な物とは到底思えぬ。


 程無くして、目の前のセシリアが鈍い動きと共に呻き出す。気が付いたのであろうか。けれどそれは隙と見做し、即座に木箱へと駆け寄った。


「のわっ、ファルト!」


 やはり警戒はしていたのか、反応早く声が掛かる。また取り上げられては気が晴れぬと、急ぎ蓋を開き中を覗き込んだ。


「ピギャ?」


 目が合う。……箱の中身と。


 そこに食料など入ってはいない。ましてや魚など入る隙間も無い。あるのは敷き詰められた干し草と溶けた氷。そして、空色の爬虫類。


「まっ……!」


 叫ぶ拍子に誤って飴を呑み込んでしまう。息が詰まり、視界が滲むも次の瞬間には忘れ、混乱と共に顔を引き攣らせていた。


 名前が思い出せない。だが忘れもせぬその姿。見上げる細い輪郭が、こちらを窺うように小さく傾く。


「子竜め、何故ここにっ……、き、貴様ら!」


 二人の方へ大きく振り向くと、治ったと思い込んでいた首が微かに痛んだ。


「えっと……非常食だよ非常食。丸焼きにしたら美味うまいって噂聞いてさ」


 後頭部を掻き、苦笑を浮かべながらキッドが言う。その背後でセシリアが気怠そうに身を起こしていた。


「非常食?……確かに、不味い血では無かったが」

「ギャウ! クルァウオゥ!」

「ちょっと、二人とも冗談やめてよ」


 溜息と共に抗議が湧く。案ずる気持ちと怒りとが交差して彼女への発言を躊躇っていると、突然目の前で木箱がみしりと音を立て、弾けた。


「カノン食うつもりだったか! キッド!」


 首向きを戻すと、空色の髪の少年が怒声を張り――


「!」


 慌て、今度は身体ごと後方へ向ける。セシリアも同じく視線を逸らしているようであった。


「んなワケねーだろ。それに“カノン”じゃない。“オレ”って言え」


 脇にあった自身のマントを少年へ投げ、キッドが言う。


「駄目よカノンちゃん。“ボク”って言って。こんな大人になりたくないでしょ。あと、お願いだからいきなり変身しないで」


 カノン。そうか、そのような名であったか。しかし、此奴は氷の地へ居らねばならぬ存在のはず……それが何故。


 服に袖を通すセシリアを睨みつけ、今度こそ問い質してやる。


「ごめんなさい、どうしても連れて行きたくて。……でも言ったら反対したでしょ。だから砂の地に着いてから言おうと思ってた」


「それが既成事実になるとでも? 戯け、此奴は送り返す。ケトネルムから使いを寄こし……いや、お前達の事だ、陛下は説得済みであろう。ならば此奴一人でも帰す」


 言いながらキッドのズボンから小袋を奪い、一粒差し出す。面食らい受け取らぬ彼女に、キッドが塩の飴である事を説明した。


「……帰さない。一緒に旅をするの。彼はもっと大きく育つわ」


 受け取った飴を、しかし口に含まず握り締め、淡い唇は強か言い放つ。が、病み上がり故か常の覇気は感じられない。


「セシィ、舐めとけ。痙攣起こすぞ」

「この者は竜の、それも長の子だ。行く行くはあれらを束ねる者。それを連れ出し、折角芽生えた国との絆を歪めてしまう事があればどうする」


「それなら尚のこと外に出るべきでしょ。その子は人間でもあるの。両者を理解して、どちらにも歩み寄った判断が下せるヒト。世界を知り、成長していつかケトネルムに帰った時、その子は本当に強い存在になる」


「は! 国を出でては竜の観に疎くなるのではないか? 成長とやらに如何程の月日を掛けるつもりか知らぬが、その間我が牙が此奴を穿たぬと思うてか! ヒト型が幾ら大きかろうが、本来は矮小な身であろう!」


 耐えられるはずが無い。変貌せぬ自信も無いと一気に捲くし立て、勢いに任せたまま飴袋をキッドへと投げ付ける。自身でも無意識の行動であったが、彼は軽い動作で受け取り、再びセシリアに飴を促していた。


「結局はそこなんだね。何で信じられないかなぁ。……じゃあコレ、おねーさまが認めてくれるまで舐めない」


「勝手にしろ。倒れた後にでも放り込んでやる」

「ファルト、極限まで対処しないのは駄目だって」


 自身も飴を含み、次いでもう一粒を少年へと投げつつキッドが口を挟む。それを認めれば思い起こされる、かつて緑の地の港でパンを頬張っていた無責任な姿。


「黙れ傍観者。二人して私をたばかりおって、何が“隠す間は首から”だ。全く以て見合わぬ」

「おいおい、一応差し出してんのは命だぞ? 見合わんこたねーだろ」

「戯けが。こちらとて勝手の分からぬ幼子と連れ添うなど、……色々と代償が大きい」


 子竜の命だけでは無い。仲間の信頼、吸血本能に対しての自信、これまでのものが全て……崩れてしまう。

 本当は何もつちかっていないのやも知れぬ。それでも、進歩していると感じなければ、恐らくこの身はまた折れる。


「平気だ、案ずるなと根拠無く吐けるお前達が不可解でならぬ。特にキッド、お前は一度死にかけておるのだぞ」


「でも生きてる。そんなモンだよ。別にお前のせいじゃなく、全然関係ないトコでこいつみたく熱射病で死ぬ確率だってある。……俺が居る限りそれは無いけど」


 今回は傍観に徹する気は無いのか、不機嫌そうにこちらを見遣っては話し続ける。


「お前が居るから死んでしまうかも知れない、でも俺らが居るから助かるかも知れない、どっちの可能性も大きいはずだろ。二の足踏むのも分かるけど、とりあえず弱気に考えんなよ。お前を止める術を持ってると思うから、こっちは“大丈夫だ”って言えるんだ」


 そこで先程セシリアが溢したように、何で信じられない、と彼も肩を竦める。


「あたし達の決意を知らないね。信じてるなら連れていけると思うんだけどなぁ」


 お前こそ理解しておらぬ。信頼が大きいからこそ失う事への怖れも肥大するのだ。

 歯を食い縛りつつ内心で反論するが、もはやそれには取り合わず、今度は少年へと呼び掛けた。


「……お前には、陛下を頼むと言い残したはずだが」


 額に汗滲ませているというのに、彼は褐色のマントを毛布のようにして包まっている。


「ウァバクに頼んだ。カノンは父さんの子だけど、長じゃない。ウァバクが次の長になる。強いぞ」

「ワ……?」


 知り得ぬが、竜の名であろう。以前よりは多少滑らかな喋りで、彼は青碧の眼を瞬かせる。気の所為か、少年と称するには少しだけ歳を重ねたように見えた。

 調整が利くのか、はたまた一週間余りで成長する身体なのか。


「だが、竜共や陛下を置いてまで旅をする必要がどこにある」

「もっと強くなりたい。旅をしたらなれる。だから付いて行く」


 お転婆の言い分そのままである。何と浅はかな事か。

 深く吐いた息が少なからず覆面の中で淀み、不快さを際立たせていた。


「それに、セシィが居なくなるのは寂しい。一緒に行きたい」


 眉根を寄せつつそう言うと、立ち上がって彼女の傍らへと座り込む。倒れたのか、大丈夫かと声を掛けながら、頬や額に手を当てる。そう案ずる彼の頭を緩やかに撫で、セシリアも安心させるように笑んでいた。


「……其奴に、母の面影を重ねておるのか」


 その役目は女王だと思うていたが……いつの間に懐いたのであろうか。故郷の歌とやらは、それほどまでに母を想わせるものであったのか。


「……」


 似付かぬはずだが、母と共に在った最後の瞬間が脳裏に浮かぶ。

 正しい判断はどこにあったのかは分からない。けれど、やはり生きて欲しかった。守りたかった。

 例えそれが、手に余る存在だとしても。


「死なせるな……決して」


 知らず、そう溢していた。

 誰に向けたとも分からぬ言葉であったが、セシリアとカノンが同時に頷く。


 ……もはや信じる他無い。未だ信用に値せぬ己自身すらも。こればかりは恐らく仕方の無い事だと、不快際立たぬよう小さく息を吐く。


「知らないかもだけど、カノンちゃんとも特訓してたんだよ。強いんだから」


「……大男を引き摺る腕力と、迷う事無く敵に剣を向ける度胸が有るのは知り得ておる」


 かつて、セシリアの同行を許したのも自身の手緩さ故。その根底には母への想いがあった。

 惹き寄せ、包み込む優しさが彼女には在る。幼子である彼も、それに惹かれてしまうのは然る可き事と言える。


「竜の後援無くとも、それが霞まねば良いがな」


 私の手緩さも、彼らとの出会いによって増しておるのであろう。


「そうだな。あの剣、結構重いわ。んでセシィ、そろそろ舐めとけって。手、べたべたになるぞ」

「うん、もうなってる。……おねーさま、ありがとね。あと、また倒れちゃってごめんなさい」


 手に張り付いた飴を口に含む様を見届け、腰を上げる。もう暫く休んでいろと言い残し、一人船室へと向かい踵を返した。


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