-4- 夢

 二週間余。

 何事も無ければと願う、それすらも叶わぬというのか。


「なんっ……何の、つもりだっ……」


 ベッドの上で毛布を抱え込み、反射的に問い掛ける。

 当然のように、返答は無い。


「ふざけるな! お前の仕業だという事は解り切っておる!」


 三日目までは自身の生んだ幻だと思えた。けれど四日も続くとなれば……。


「何が目的だ! あのようなもの、妄想も甚だしい!」


 鼓動が速い。汗が不快感を助長する。毛布を更に強く抱いては顔をうずめた。


 夢だというのに、その感触は余りに生々しい。日を追う毎に酷くなるそれは、本当に何のつもりか順序良く見せられている。これ以上の続きを見ればどうなるか……考えたくも無い。


「あ、あのような、ものっ……」


 アレンでは無い。


 しかし、その名を口に出す事すらも憚れ、私はただ、立てていた膝を打った。






「また眠れなかったの?」


 廊下での出会い頭、連日のように欠伸を噛み殺すこの身を案じ、セシリアが覗き込む。


「夢見でも悪い?」


 それに他愛無い相槌で返すが、全く以てその通りであった。

 眠さの余り、思考が途切れる。けれど、夢の内容を思うとベッドに近付く事すら躊躇われた。


 何とも言えぬ苦い感情に、唇を強く引き結ぶ。

 “彼を見せる”……数日前の言葉の意味があれか。あのような紛い物で何を得ようというのか。あれでは最後に触れ合うた記憶さえ、背けられるものとなってしまう。


 目の乾きを感じ、暫し瞼を閉じる。


 ……温かい手。紫紺の髪を撫で、頬に触れては顎へと伝い、引き寄せるように添えられる。


 その表情は優しい……はずだ。恍惚の境地になど無かったはずだ。

 次いでこの身を倒してなどいない。卑しく首筋を食んでなどいない。


 ……やめろ。穢すな。違う、その記憶は可笑しい。


 抱き竦められてなどいない。口付けられてなどいない。胸を開かれてなどいない。


 ……やめろ、やめろ。そのような事、アレンは……。


 ――姫様。


「やめろ!」

「おっと」


 手を払い、触れた指先に目を遣れば、いつの間に現れたのか目前にキッドが立っていた。


「いやぁ、だって何度呼んでも無反応だから、落書きでもしてやろうかと思って」


 術でも唱える気でいたのか、掌が手印を象っている。


「もー、可哀想だよ。眠れないって言ってるんだから。……それに、そんなコトで精霊呼んじゃいけないんだよ」


「養成所っつートコでそう教わったなら、そこ精霊の敵じゃね? あいつらも楽しい事は大好きだし魔力は食えるしで、喜んでやってくれるよ」


「でも、みんなと仲悪いんでしょ? 苦手な水精ちゃんに色水でも作ってもらう気?」


「別に悪いワケじゃねーけど……ここはえてティレストで土化粧を……」

「最っ低。女の子の顔に泥塗る気だったの? そういう事するから引っ叩かれるのよ」


 遣り取りの最中、未だ乾いた目でヤツを睨み付ける。声にならぬ言葉が、呪うように口から漏れた。


 つまらぬ事を抜かすからだ。キッド、貴様が。


「違、う」


 此奴に泣き付いた私が愚かであったのか。


「……分からない」


 アレンを忘れなければ良いのか。思い続けていれば良いのか。

 何故だ。会える保証すら無いというのに。

 ……だから、夢を見せる?

 思考が矛盾を生む。もう、訳が分からない。


「何か、さっきから変じゃね?」

「眠さ最高潮かな? パパの持病発動前もこんな感じでイライラふらふらしてるよ」


「……セシ、リア」


 柔和なその香りと母なる女性の声に誘われ、肩へともたれ掛かる。


「ひっ、ちょっ、朝食にはまだ早いんじゃないかなっ?」

「おー、俺の方が近かったのになぁ」


 ふわりとした感覚が身を覆う。気休めでも、悪夢からの解放を感じる。……ヒトの温もりはこんなにも優しい。まやかしでそれを与え、想いを留め続けようなど叶うはずも無い。


 アレン、……アレン。

 お前は、居ない。温もりも、永遠に感じる事は出来ない。この身はもう、お前の呼ぶ“姫”という存在ですら無いのだから。


 かつての笑顔が、最後には悲痛へと塗り変わり、闇に消えゆく。思う意識は混濁しながら、それを追うように引き込まれていった。






 指先が、流れるように身体を滑る。

 触れる度に躍動する私を楽しんでいるのか、弄ぶように撫でてはその感触を確かめている。……時に強く、時に羽のように。その合間にも、彼は何事かを話していた。

 しかし、それを聞き取る事は出来ても理解する前に忘れ、私は躍り続ける。


 いつしか指であったそれは、吐息と共に湿り気あるものに成り代わり、覆うように胸へと降りてきた。


「!」


 叫んでしまいたいような、けれど、その声を無理にでも押し殺してしまう程に、奇妙な感覚が駆け巡る。頭を振りつつ逃げるように身を捻ると、這わせるそれを胸元から首筋へと移らせ、彼はそのまま強く抱き竦めてきた。


「逃がしませんよ」


 囁く声すら、今や鞭のように感じられる。

 そして、本来ならばこの唇が幾人もの獲物に虐げてきたはずの行為。それが、自身へと宛がわれる。


 堪らず、今度こそ小さく悲鳴を上げ、揺れ動くその肩を押し遣った。

 けれど、従来の彼からは想像出来ぬ程に強い力で、逆にこちらの手を押さえ付けては抑制の言葉を吐く。


 それに戸惑うよりも早く再度首筋を舌が這い、卑しく音まで立てて吸い上げられ、既に躍動すら許されぬ身を強張らせた。


 合間に、優しく呼ぶ声が耳を掠める。何度も、何度も、不必要に。

 縛められていた腕はいつしか解放され、唐突に腰を撫でる感触が宿った。


「姫様」


 その手は徐々に、腿へと滑りゆく。

 頭が、この上無い程に冷えるようであった。


「や……」

「愛して、おります」


 影を落とすその表情は、幼少から知り得る優しさのどれにも当て嵌まらない。

 彼を見つめる私の目はただ、怯えていた。






 ――ドサ!


「はっ、ぁぅ……!」


 失っていた呼吸を取り戻すかのように、荒く息を吐く。唐突に開いた目を夢中で動かせば、此処がダルシュアンの自室で無い事だけは理解出来た。


 軽い安堵と共に背面に衝撃が走る。まるで、高所から叩き付けられたかのような痛み。

 けれど、それより思うは夢の内容。

 何という事だと、身は起こさぬまま両の手で顔を覆う。


「……セシリア?」


 ふと、最後に身を預けた彼女の事を思い出し、鈍い動きでようやっと起き上がる。周囲を見渡せどその姿は無い。此処は……そうだ、与えられた部屋だ。

 運び込まれたのか、忌まわしきベッドが横手に見える。


「夜?」


 不可思議さ故に、思わず声が漏れた。

 部屋には元より窓が無い。けれど、陽光無くとも昼間であれば多少の物音は捉えるはずである。今、辺りを漂うのは静寂のみ。そして纏まった睡眠でもとれたのか、今朝方から続いていた頭痛も緩和されていた。


 夢はやはり見てしまったが、恐らく見始めてそう長いものでは無い。眠気は未だあるものの、ここ数日に比べると遥かに良い。普通の食事はとり損ねたが仕方無かろう。文句も言われまい。


 ひとしきり思案した後、立ち上がり、扉へと目を向ける。同時に、細く長い溜息が鼻孔から漏れていた。


 ……また、行くべきか。

 悪夢から覚めた後は必ず、風を受けるあの場へと赴いていた。

 部屋に居れば知らず眠りに付いてしまう。……そうなれば確実に続きを見る。夢はもう、行き着く所まで行き着いている。


「あのようなもの、これ以上見るべきでは……」


 言い知れぬ想いに頭を振りつつ、部屋を飛び出す。

 間も無く例の微笑が、脳内を不快に駆け巡った。


『アレンじゃない? アレンはあんな事しない?』


 ここ数日、語り掛けても全く反応を示さなかったその声の主。歩みは止めぬまま、私はその笑いを聞き流す。

 まるで屈辱を受けるかのように、表情は歪んでいた。


『嘘吐き。本当はずっと求めてた。あの日、ヒトを殺めたその唇が彼のモノと交わされる事になろうとも、かつての貴女なら拒む事など無かった』

「……」

『だから貴女の望む彼を見せた。けれど、心で愛でる素振りを見せながら夢で拒絶するのは何故? 彼への想いなどとうに忘れてしまっていたというの?……まあ何と切り替えの早い事』


 白々しく話すそれすら聞き流して歩み進めると、遠くに闇の広がりが見えた。

 それと同時に、蒼い影をも浮かばせる。こちらの気配は察しているのか、その視線は既に私を捉えているようであった。


『ねえ、“抱く”の意味は父親に優しく包まれるだけじゃないのよ? 夢での行為だってそれに当て嵌まるわ』


「やっぱり、眠れなかったのか」


『ドルクスでの夜を覚えてる? その男はそれに加え、陵辱する意味で抱いて良いか訊いていたのよ』


 見計らうかのように、女はキッドの言葉を挟む。

 案ずる彼を、まるではかる者のように見せる。


『冗談としていたけれど、本当はどうなのかしらね?』


 それに連日問い掛けていたにも拘らず、私は小さく、黙れと言い捨てた。


「ん? 何か言った?」

「お前は、何をしておるのかと訊いた」


 肩を並べ、闇に覆われた大広間を見下ろす。

 燭台の灯りが申し訳程度に配されているそこは、いつかの接戦など忘れ去られたかのように静まり返っていた。


「誰かさんに与えられる昏睡のお陰で、ちょっとした不摂生。それより、セシィに礼言っとけよ。うなされたら宥めるの繰り返しで、一日中お前の事てたんだぞ」

「……そうか」


「ああいうのを“母性愛”って言うのかな。十五のクセに。まあでも、あの部屋で食う方が会食の席なんかよりずっと落ち着けるわ。そのままごろ寝しても楽しいかと思ったけど、一緒に寝ると危険だとかで夜には出たんだ」

「……」


「あ、違うぞ。俺じゃなくてセシィだからな。寝言で部屋凍らせるらしいんだよ、あのお転婆」

「……ふふ」


 手摺りの上で腕を組み、笑み溢す。

 夢の中でも戦い続けているという彼女らしさが、妙に可笑しい。


 だが、気付けばそれとは逆に、何故かキッドは真剣な眼差しをこちらへと向けていた。


「お前、笑うようになったよな。卑屈な笑みじゃなくて、本当……素直にさ」


 言いながら、その顔にこそ無邪気な笑みが浮かぶ。けれど、どうにも見続ける事が出来ず、すぐさま前方の闇へと目を逸らした。


「相手を生かしたまま自分も生きられる。俺らにも懐いた。よく泣き、よく笑い、よく食べる。……お前は今、良い方向に進んでるんだよな?」


 口元が徐々に、緊張を帯びる。首は縦にも横にも振る事が出来ない。

 この身には数多の鬼が潜む。姉上の消息すら未だ掴めぬまま。

 良い方向と呼べぬ確かなものが、在り続けている。


「王妃は、報われたんだよな?」


 質問は尚も続く。

 それに答える権利など、恐らく私には永劫無い。顔を俯け、やはり無言のまま、手摺りの隙間から覗く闇を見つめる。

 すると、彼は指先でこちらの頭を小突き、大袈裟に息を吐いた。


「お前はすぐに明るみから目を背ける。幸せになる努力、しろよ? それを望む人が居るんだからさ」


 ……。

 口の中で、その言葉を反芻してみる。

 それはずっと……今も尚、否定し続けている事。皆に不幸を虐げておきながらこの身だけ光を求めるなど……。常にそう考えてきた。


 逃げ出したのは、生きろと言われたから。

 旅をしているのは、目的にしろと言われたから。

 そして身を明け渡せと言われた今、消えるつもりで居る。それが償いだと信じて。

 肉体だけでも生き永らえれば、母上との約束は守れるものだと“思い込んで”。


 ……そうだ、本当は理解している。そのような理屈、喜ばれるはずが無い。彼女の願う“ファルトゥナ”が居ない。

 最初に、必ず幸せになれると断言までされたはずなのに、この身はそれだけを拒んでいる。


「私が……求めても?」


 知らず、声が漏れていた。

 昏冥こんめいに漂う自身を、本当は断ち切ってしまいたい。母上の遺言を今こそ……、僅かでも良い、光明に……身を置きたい。

 そう思う心が、無意識に口をついてしまう。


「でなきゃ、また生きる意味を見失うぞ」


 次いで、頭を軽く撫でられる。逸らしていた視線を戻し、柔和なその顔を見つめた。


「キ……」

かせはリリス、かな?』


 けれど、見出し掛けていた光なるものが、瞬く間に遠退く。

 幸せを掴むには罪深い身だと、少女の声が戒める。


『約束、破っちゃう? リリスの事なんて忘れて、幸せになる?』

「…………私はもう、ゆるされたい」


 徐々に潤む目を彼に向けたまま、抑える事もせずに答えた。

 懺悔ざんげは無意味と知りつつ根底で願うていたそれは、言葉にして何と滑稽な事か。自身が殺めた者に赦しを乞うなど、この上無く愚かしい。


『身体はくれないって事かな? それでリリスへの罪は赦されるのに? ルーナさまって、やっぱり矛盾してるね』

「分かっている……、分かって……」


 滲む視界もそのままに、繰り返す。

 言葉は在らざる姿の者へと放たれていたが、視線は目前の者へ……まるで、救いを求めるかのように向けられていた。


 逸らされる事も無く受け止める紺碧の瞳が、怪訝そうに細められる。彼は顔を傾け、緩やかに口を開いた。


「中に居る誰か、か?」


 小さく頷くと、溜まっていた涙が零れ落ち、赤い絨毯へと吸い込まれていった。


「そうか、辛いんだな。……なあ、中の誰かさん。もう解放してやってくれ。こいつは十分苦しんでるだろ。吸血族が、それに伴わせてしまう死を心底後悔する程に」


 私を見つめつつ、リリスへと言葉を向ける。救済と思える確かなそれに、涙が一層溢れた。


「それでも削って取り込まないと、こいつは生きられないんだよ」


『……うるさい』


 けれど、一際低く呟くその声に、息を呑む。

 解り合える事など無いと、瞬時に悟った。


「死以外の罰ならとっくに下されたと、部外者の俺でも分かるけどな」

『知った風な口、利かないで』

「こいつの嘆きも苦しみも、中に居るんなら全部知ってんだろ?」

『分かっていないのはどっち?』


 視界が淀む。聞くに堪えない。


「……キッド、もう良い」


 静かに首を振り、私はまた、大広間の闇へと視線を移した。


『リリスは恨んでなんていないよ? こうなる事を望んだのは他でも無い、ルーナさま』

「ああ、私が口走った事だ。……もう、良い」


「おい、何だその諦めたような口振り。まさか、まだ“身を支配させる”だなんて事、そのままにしてねぇよな?」


 もう良いと言うに。

 だが、撥ね付けようとした口を噤み、首を振るだけに留めた。


 この男にリリスの声は届かぬ。わざわざ対立を伝える必要も無い。私の罪は自身の体を明け渡す事によって赦される。それで良い。……それしか、無い。

 彼女が私へと成り代わるのであれば、真しやかに入れ替わるのが望ましい。この意思はただ、静かに消えゆけば良い。


 ……母上、どうかそれを、ファルトゥナの生とお受け取り下さい。


 再び涙が一筋、頬を伝う。これが最後だと自身を戒め、密やかに心を鎮めた。


「……。よし、じゃあ今日はもう寝る事。睡眠だって幸せの一つなんだからな」


 そう言い、彼は踵を返す。

 悪夢を見る我が身がそれに続く事は無い。代わりに、おやすみと溢しては手摺りに顔を伏せる。

 冷えた感触に、目頭の熱も少しずつ治まっていった。


「……ん? おーい、ここじゃなくて、部屋で寝るんだぞー」


 遠ざかり始めていた足音が留まり、尚も声が掛かる。

 応えず無言の間を置くも、一向に進み出す気配は無い。

 ……退ける為には何か答えておくべきか。

 思い、少しだけ顔を上げ、微かに流れる風を吸い込む。


「もう暫く、此処に居たい」

「却下。寝ろって」


 無難な返答と確信していたのだが、何故か間髪入れずに言い渡され、眉をひそめる。


「一人になりたいのだが」

「ベッドの中でもなれるだろ。毛布被ってりゃそのうち眠れるから、部屋へ戻れ」


 無愛想な物言いである。……案じているように見えなくも無いが、幸せの一つとまで称すそれを無理にでも取らせるつもりか。


「……夢見が悪い。部屋にもベッドにも近付きとう無い」


 真実を述べる他無いと悟り、手摺りへ置いた腕に顎を乗せる。幼子の我儘のようなそれに、キッドはやっぱりと呟いて大袈裟に息を吐いていた。


「俺らが部屋出る直前までうなされてた位だしな。ありゃもう病人だ。結局眠れてねぇだろ」


 そう言い、何食わぬ様で突然私の腕を引き、そのまま廊下を進み出す。驚き抵抗すると、大人しくしてろと理解し難い叱責が飛んだ。


「は……何の真似だ!」


 思わず怯むも立ち止まる事すら許されず、徐々に部屋へと距離を詰める。


「今朝みたいなのを繰り返したくなけりゃ、今ちゃんと寝ろ。これじゃあ天候落ち着いたって発てやしねぇ」


 話す間に辿り着いてしまう。……が、扉が開かれる事も歩み留まる事も無く、更に続く廊下を突き進む。


「ど、何処へ……」

「俺の部屋」

「なん、ふざけるな!」


「今度は本気。お前はアレだ、どうも人の温もりに弱いみたいだから、くっ付いてればぐっすり眠れるんだろ。そりゃもう三回くらい実証済み」


 ……。

 妙な物言いだが、それらに該当する出来事が沸々と思い起こされる。情け無いが、城を出てからは確かに幾度も人の胸で眠っている。今朝とて然り。

 寧ろ、自身から床に着いて取れた睡眠時間など微々たるもの。そして、身を寄せ合うていたこの男との夜こそ、正確に明かせたという事。


「だからと言って……」

「もうさ、たっぷり抱き合った仲だし、添い寝くらい気にすんなよ。……それとも、寝床を共にする意味くらいは知ってた? だぁいじょーぶだって、なぁんもしねーから。人の事“変態”呼ばわりするけどさ、こう見えて結構、節度ある男の子なんだぞー」


 軽く笑い飛ばし、とある一室の前で立ち止まる。すぐさま扉は開かれるも、そこへ一歩踏み入ったのは彼のみ。

 今までの強引さが嘘のように不意に解放されたこの身は、一人廊下へと取り残されてしまう。


「引き摺り込むなんて野暮な真似はしないからさ、自分で入ってよ」


 そう述べ、開け放った扉を背に、ドアノブに手を掛けた状態で私の入室を待つ。


「……貴様、此処まで引いておきながら今更何を……」

「そうお思いならどうぞお入り下さいな」


 僅かに頭を垂れ、うやうやしく右手が招いた。

 軽口を叩くそれを睨み付け、掴まれ皺の寄ってしまった袖を正す。だが、普段なら自信に満ちているはずの双眼にそれは宿っておらず、ただ静かにこちらを見据えるのみ。


 ……調子が狂う。

 小さく息を吐き、どうしたものかと悩んでいると、視界の端で同じように息を吐く彼が映った。


「本当に今更だけどさ、別に戻ったっていいんだよ。非常識なの十分理解してるし。でも多分、……まだ滅入ってんだろ。あの日の王女様が」


 言葉濁すように言われ、暫し間を置く。

 呆れにも似た声が自身の口から漏れた。


「何だそれは」

「お転婆の方が適任だけど、氷漬けは困るから俺が癒す」

「は?」


「今のお前には甘えられる対象が必要なんだよ。……さあおいで。可愛い天使。眠れるまで物語を読んであげよう」

「…………気でも触れたか」


 まるで唐突な気色悪さに、あからさまに怪訝な視線を送る。


「俺ん中の、精一杯の父親像」


 肩を竦め、妙に赤らんで苦笑を浮かべるキッド。

 どうにかして招き入れようと考えあぐねているようで、私も少しだけ顔が緩んでしまった。


「不気味さに拍車が掛かるだけだ。やめておけ」


 笑みを誘う一連の様に、もはや深く考える事は止め、赤い絨毯の続く室内へと踏み入る。


「ははは。恥を忍んで演じた甲斐はあったかな」


「これでまだ夢見が悪いようならば……そうだな、お前が食事中に嗜む酒、あれを止めてもらおうか」

「仰せの通りに。……ようこそ、お嬢様」


 調子は戻ってきたのか、ゆったりと頭を垂れ、そっと扉を閉じる。消さずに置いていたらしい燭台の灯りが、誘うように揺らめいていた。

 内装は、私の使っている部屋と何ら変わりは無い。敷き詰められた絨毯と洋服ダンス、……ベッド。全てが来客用であろう。自室の物と似たそれから目を背けると、卓上には簡易の燭台と、大量の書物が積まれてあった。


 城からの借り物であろうか。自然とそれらの背表紙を追うが、どれも妙な紋様を象ったものばかりで文字らしい文字が見当たらない。……否、恐らく文字が在ったとて、私には理解出来ぬであろう。


「魔道書か」


 中の一冊を手に取り、軽く目を通す。

 学びの物以外での件の文字は、何故か全て糸が並んだようなものに見える故、解読し辛い。言葉として耳に入れようとも意味が頭に留まらぬ。加えて、呪文が扱えぬ身だと言い渡されてからは、脳がそれ関連の会得全てを放棄していた。


 無理だと言われれば意地を見せる性分だが……やはり読めぬようだ。


「ん? ああ、王室書庫なんて滅多に来ねーし、どんなモンがあんのかなと。……何? 如何わしい本でも読み漁ってると思った?」

「……いや」


 図解が多数占めているとて、何故このような代物を幾つも読めるのかと目が細まるが、頁を捲る内にその感情も薄れゆく。


「演じといて何だけど、読んでやれる物語も無いわ」


 指先に紙の感触が伝わる。思考がそれに応え、懐かしき日々を想う。目はもはや、文字など捉えてはいない。


「ばーちゃんの訳本も読んだ事無かったしなぁ。物語にはてんで興味無し。ま、今持ってるそれも書いてる事は基本的に同じ。応用がどうの……って、お前はこの手の話、ダメだったか」


 尊ぶべき日々であったはず。

 あの日もそうだ、彼奴が楽しそうに読みふけておったが故に、私も共有したいと思い至ったのではないか。


 ……そう、自身に言い聞かせてはみるものの、唇はまるで仇を思うかのように苦々しく引き結ばれている。記憶の中の彼は、もはや知り得ぬものへと変わりつつあった。


 本を置き、目頭を押さえ、傍にあった椅子へと座り込む。心はもう、思い出す事すら嫌悪しているというのか。


「何でそっちに座んのさ。寝るんだよ」

「え?……ああ、そうであったな」


 何気無い呟きと共に、ベッドへと向かう。

 そうだ、セシリアの温もりはあの夢を見せなかった。妙な体だが、何者かと接触しておれば夢からは遠ざかれるのであろう。


 ……。

 だが、先に腰掛けていたキッドを捉えるなり顔が上気し、足が縫い付けられたかのように留まる。


「何だ、今更」


 気取られぬよう口の中で呟き、軽く咳払いをしつつ靴を脱ぐ。……が、そのまま妙な呻きを一つ漏らし、ベッドを目前に立ち尽くしてしまった。


「…………」


 何が“たっぷり抱き合った仲”だ。こう改められると動けぬではないか。


 俯き、今すぐ部屋を飛び出したい衝動と、しかし後には引けぬという意地が葛藤する。

 すると、目の前のそれが唐突に立ち上がり、こちらへ一歩、音も無く詰め寄ってきた。


「……お子様と思ってたんだけどなぁ」


 高き目線に否が応でも威圧感を覚え、相対するように後退してしまう。


「やっぱりさ、こういうのに心の準備とかあっちゃダメだよな。逆に意識したりしてさぁ」


 こちらと同じ緊張がその胸にも在るのか、へらりと表情を崩し、後頭部を掻くキッド。しかし、高鳴る心臓を鎮めるが故に返答する事も出来ず、私の口からはやはり妙な呻きが漏れるのみ。


「まあ、えっと、……真に受けるぞ? つーか、元々そのつもりで入ったんだろうし、殴るのだけは勘弁してくれよ?」

「ぇ……」


 意を決したようなそれに、尚も足が下がる。射抜かれる強き視線がいつしか、あの日の青年と重なって見えていた。


 鬼の力に及ばずとも遥かに大きな手、……栗色の髪を目蓋へ落としつつ、緩やかに伸ばされる。

 ……熱を含む、眼差しと共に。


「ぁ、ア……」


 頭が、急激に冷え込む。その名も発せられず首を左右に振るそれは、紛う事無き拒絶の意を表していた。


 けれど、想い空しく、強か身が包まれる。


「や……」

「ファルト」


 耳を掠めた声に次いで、水晶色の髪が視界に映る。

 その瞬間、深い安堵と共に青年の幻影が……消えた。


「……キッ、ド」


 名を呼び、更に確信する。

 私はとうに、あの青年を忘れ始めていたのだと。

 強く想うていたはずの心はいつしか、“永遠に会えぬ者”と彼を割り切り、その存在を深く沈めてしまっていたのだと。


 ……そうだ、これで良い。

 あの日、この口は確かな別れを告げた。心がようやっとそれを受け入れた。……やっと、受け入れたのだ。


「おやすみ」


 詰まっていた息が、細く深く流れ出る。目を閉じ、広いその背に腕を回すと、それが合図とでもなったかのように、私たちは静かに身を横たえていった。



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