-3- 鞭、踊らせて

 ――さあ、もう良いわね? これ以上は、さすがに私も倒れてしまいそうよ。


 瞼の奥で、かつての記憶が映し出される。私の頬を撫で、姉上が笑っていた。

 そうだ、この身はもう十分に満たされた。これ以上は許されない。

 けれど止めるに忍びない。それほどまでに、今という時が惜しい。


 ――ヒュン!


 安らぎに浸るこの耳を、唐突に風切り音が掠めた。

 程無くして、キッドの体が揺れる。


「本性を現したわね!」


 次いで怒気を含む甲高い声が、森へと響き渡る。思わずキッドの首元から離れ、そちらを凝視した。


「っ……セシリア……!」


 姿を確認するのと同時に、その手に握られていたむちがしなやかに踊る。衝撃はすぐに予測出来たが、何故か身体が反応しない。慌てふためいていると、寄り掛かっていたキッドが勢い良く引き剥がされた。

 安全確保の為、先に引き離したのかと思うたが、見れば彼女の目は私を捉えてなどいない。


 ……始めにキッドの体が揺れていた。それが、鞭による最初の攻撃であった事に気付いたのは、その身が人形のように宙へ舞った後であった。


「キ……っ」


 無意識にその痛みを予期し、身が強張る。眠り付く者が受身など取れようはずも無い。

 鈍い音を立て、それは数歩先へ……やはり何もせず、ただ固い地面へと転がった。


「フローズンシャワー!」


 鞭をその手に携え、更には術が解き放たれる。何も無い空間から突如無数の氷の粒が現れ、やはり私では無くキッドへ向かい降り注いだ。


「く……」


 衝撃を受けても尚目覚めぬという事は、やはりただ眠りこけている訳でも無かろう。


 “粒”とは言え、幼子の拳程度には大きい。降り注ぐ速度と合わされば確実にただでは済まない。見過ごせぬ事と即座に判断したものの、未だ足が応えない。仕方無く、反応出来た手で自身のマントを剥ぎ、キッド目掛けて広げるように投げ付けた。


 無意味かと思われたそれは、奇跡的に幾つかの氷を受け止め、ヤツへ降り掛かる事無く弾ける。残りは害の無い箇所へと減り込んでいった。


 陥没した地面の先で、尚も彼女は術を唱え始める。

 ……この男相手でも、この術は相応だと言えるのか? 明らかに度を超えているではないか!


「止めろ! セシリア!」


 このままでは本当に取り返しの付かぬ事となる。慌て発した制止の言葉は、自身でも驚く程に上擦っていた。


「おねーさま! 大丈夫? 変な事されてない?」


 こちらの声に反応して駆け寄るそれは、やはり私の身を案じてのものであった。


「ぇ……ぁ、ああ、助かっ……た?」


 咄嗟に受け答えるも、自身でもよく理解出来ておらず、語尾が何処かへ飛んでいく。

 吸血の場面を見られたかと思うたがどうも違うらしい。


 ……“変な事”?

 言葉が、脳内で反芻される。行いはこちらからだというような弁解が幾つか喉元まで出掛かるが、慌てそれらを飲み込んだ。


 吸血以外の行為を当て嵌めたとして、あれほどの密着で作り出せる理由など限られている。仮にそう仕向けたとして、その嘘を貫き通す自信は無い。


 仕方無く沈黙を守る事を選び、その場へと座り込む。

 そうだ、顔を覆うものが何も無い。それどころか、唯一纏っていたマントすら投げてしまった。

 そう気付いては深く俯くように、彼女から顔を背ける。


「怖かったよね……もう大丈夫、大丈夫だからね」


 それを、どう受け取ったのか自身の翡翠色のマントで私を包み、昼間と同じくしてまた後頭部を撫でてくる。代わりとなる最もな口実も他に思い当たらず、されるがままに身を任せた。


 “助かった”……反射的にそう答えたが、何ら相違無い。セシリアの介入がその命を取り止めたようなもの。


 仰向けで微動だにせずとも、僅かに呼吸するキッドの上体を確認し、静かに胸を撫で下ろす。

 けれど、毒の効いた人間がいつ覚醒するかは見当も付かない。不安は未だ拭い切れなかった。


「でも、まさか本当に変質者とは思わなかった!」


 ……すまぬ。

 誤解を受けてしまったそれに、心底詫びる。

 ………………。

 しかし、それよりも言わねばならぬはずの言葉は、心内でも伝える事叶わなかった。


「やっぱりね、いくら微妙そうな仲でも男女二人旅なんてちょっと何かあると思うじゃない? だから二人居なくても気にしないでおこうと思ったけど……怒鳴り声がしたんだもん、放っておけなかったよ。見に来たら押さえ付けられてたし」


 最後の一言は事実無根ではあるが、誤解されている方がまだ良いのやも知れぬ。それら全てに言い立てられる適切な言葉は、やはり思い浮かばない。


「……服を」


 次いでキッドへの文句を連ね始めたそれは聞き流し、干してある衣類を見遣る。先程まで纏っていたマントは湿り気を帯びるまでに乾いていた。ならば、それよりも軽いものは例え湿っていても着用出来ぬ程では無いはず。


 顔は背けたまま立ち上がろうとした私を、しかしセシリアは庇護ひごするように制した。


「大丈夫、持ってきてあげるから」


 ……遣り辛い。

 思いながらも再び腰を下ろす。それに納得して、彼女も私の元から離れていった。


 セシリアが視界から外れると、今度は未だ倒れているキッドに目が移る。私の放ったマントが頭部を含む上体を覆っている為、その顔色を窺い知る事は出来ない。辛うじて生存しているだけで、本当は虫の息なのやも知れぬ。


「キッド……」


 口の中で小さく呟く。

 生きる手助けをしたいなどと言うておった。しかしそれは、自身の命を賭してまでも貫きたい事であったのか。


 あの時の、深く静かな眼差しを思い浮かべ、唇をきつく噛み締める。遂には堪える事も出来ず、ようやっと動いた足でそちらへと駆け寄っていた。


 顔を覆うマントを剥ぎ、心無しか白んだ首に手を当てる。呼吸をしているのなら然るべき事ではあるが、脈は微弱ながらも一定の間隔で打たれていた。


 安堵し、確認の手を引込めると、今度は赤みを帯びた傷が視界に飛び込む。考えるまでも無い、それは先程自身が穿った生々しい牙の痕。それが、襟元からこれ見よがしにと覗いている。


 かつて、その痕は生を奪った証としてこれまでの者達に固着していた。目の前にしているものとは違い、傷周りも鬱血出来ぬ程に吸い尽くされて。


 しかし、……それでもこの男は、生きている。

 腫れているのは恐らく、体内に血が残っている証拠。

 熱を持ち、生命を宿す、確かな証明。

 力み上がっていた肩は落ち着き、ようやっと静まっていった。


「うん、さっきから動かないとは思ってたんだけどね。打ち所が悪かったのかなー」


 私の服を抱え戻ってきたセシリアも、向かいへと屈み込む。同時に、気付かれぬようそっと襟元を引き上げた。


「でも自業自得だから助けてあげない。……ていうか、あたし回復使えないんだよね」


 棘を含むその物言いは、全て私の胸に刺さっていった。

 何か他に上手い言い訳は無いものか。これでは余りに気の毒だ。


「それより、持ってきたよ。どうぞ」


 本来なら深刻であるキッドの状況をいとも簡単に流し、服を差し出してくる。私もどう対処すべきか思い浮かばぬ故に何をしろとも言えず、無言のままそれを受け取った。


「……何か、したのか?」


 渡された服は、何故かほんのりと暖かい。


「うん、まだ湿ってたから乾かしてもらったの。あたし、水精ちゃんとは通じてるから、風の消費だけで出来るんだよ」


 ……。

 キッドですら乾かせぬと悩んでいたものを。この娘、魔道に関しては未熟だと謙遜けんそんしていたはずでは?


 理解出来ぬ説明に眉をひそめつつ、衣類を身に着けていく。傍らで気を失っている男の目は、もはや気にするまでも無かった。


「それ、何で被ってるの?」


 覆面を着用した時点で、そう声掛けられる。遠く無い内に聞かれると、覚悟はしていた。


 領主曰く、我が王家とギルヴァイス家は過去に少々繋がりがあったらしい。しかしどうであろうか。私は父上や姉上とは違い、謁見えっけんの間であろうが如何に大事な貴族の集いであろうが、顔を出す事は避けていた。……街中へ降り立った際、円滑に“事”を済ませられるように。


 現にギルヴァイス家の人間とは全く面識が無い。顔を知られるような肖像画等も、他者の目に付く場所などには飾っておらぬ。

 そうしてあらゆる可能性を潰しつつ、探るように口を開いた。


「顔を見られるのは、好きではない」


 覚悟していた中で思い付いた言い訳は、口にしてみればとてもつたないものであった。


「そうなんだ。かーわいいのになー」


 それで納得はしたのか、彼女は不気味な笑みを湛えながら左右に体を揺らし始める。巡らせていた心配事に何一つ掛からず、安堵するよりは拍子抜けしてしまった。


「身長ほぼ一緒だけど、声低いからもっと大人なのかと思ってた。……ねえ、歳もあたしとそんなに変わらないんじゃない? 幾つ?」


 しかし、昼間忠告しそびれた代償がやはり回ってきてしまったと、小さく肩を落とした。

 口煩い侍女と似て異なるその態度は、どうにも妙な気疲れを引き起こす。

 静かに自身の年齢を呟き、再びキッドの傍らへと屈み込んだ。


「一つ上だったんだ、良かったー。こっちが“おにーさま”なもんだから、流れで“おねーさま”とか呼んじゃったけど、違ってたらどうしようかと思ってたんだよねー」


 立てた膝の上で頬杖を付き、私とキッドを交互に見つめる。言葉にも視線にも応えず、この先の事を思案していた。


 空が薄らと白み始めている。十分に休息出来たとも思えぬが、くだんの竜は昼行性なのやも知れぬ。休んでいる間に襲われると厄介だ。もはや発つしかあるまい。


 しかし、この男が目覚める気配も無い。

 ……本当に大丈夫、なのか。


「襲われた割には心配してるね?……それとも、あたしは何かとんだ思い違いをしてるのかな?」

「……このままにしておくわけにもいかぬ。戻るぞ。仕度出来次第、出立だ」

「ええ! もうっ? 早すぎてまだお腹も空かないよ!」


 唐突に的を射た言葉に肝を冷やすも、意外に平然と返答出来ていた。

 そして、人形の如く四肢を投げ出すキッドを抱き起こし、肩で担ぐ。緩りと立ち上がり、元来たと思われる道へ歩み始めた。


「わー、力持ち。もしかして魔具かな。……でもどこ行くの? 戻るならこっち」


 ……。

 無言で徐々に軌道修正しながら、正しく示された道を辿る。

 セシリアも駆け足で後に続いていた。


「……方向音痴?」

「黙れ」


 ぽつりと言った彼女の言葉と、低く放った私の一言は、ほぼ同時であった。



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