-2- 解放しろ

 二つの目が、こちらを見ている。

 悲しむような、哀れむような。

 そして、何かを訴えるような。

 青い硝子玉のような眼。

 静かに、けれどその表情を変えながら、見つめている。


 ……何だ。

 その目で私を嘲笑っていたのではないのか。

 憎み、この身を鬼へと堕としていたのではないのか。

 何故そのような目を向けるのだ。……リリス。






 開いた目が、まるで化け物の如き大樹を捉える。

 かもし出されるその闇に薄気味悪さを覚え、だるげに上体を起こした。


「う……ん」


 意識定まらぬ身を奮い立たせ、欠伸を噛み殺す。


「……何だ此処は」


 思わず、両の腕を大きく伸ばした体勢のままそう溢してしまった。

 横たわっていたのは固い土の上。辺りは月明かりが僅か差し込む暗く深い森。……夜も更けてから、かなりの時間が経過しているように見えた。


 周囲に視線を漂わせると、自らのマントにくるまったセシリアが隣で寝息を立てている。き火跡を挟んだ向かいには、木を背もたれに眠るキッド。

 着替えでもしたのか、いつものちゃかっしょくの服装が一変、自身の髪色に似たこんじょうの上着に成り代わっている。


 何故、宿を取らなかったのであろうか。この地は今、竜とやらが徘徊していると聞いたはずだが。

 思い、やや不満気に周囲を見渡すが、暗く鬱蒼とした木々が取り囲むのみ。寝首を掻かれたらどうするつもりか。


 目も冴えてきた為、掛けられていた布……キッドのマントを剥いで立ち上がる。そして、服の土を軽く払い、もう一度ヤツを見る。


 着替えか。城では一日とて重ね同じ服を着用していた事など無かったものを……。

 然るべき事が不可能になってしまった身を、暫し途方も無く眺めた。

 思えば思う程、気になってしまう。形見だというのに、マントには申し訳が立たぬ程の汚れが付着している。裾や靴にも同様の汚れ。


 どうしたものか。汚れた衣類というのは城ではどう扱っていたのであろうか。身体と同じように洗い流せば良いものなのか。


 洗濯場なるものが城の何処かにあると聞いたが……場をもうける程、何か特別な事が行われていたのであろうか。


 一度迷って中庭の仕切られた箇所へ入った際に、シーツや衣類が大量に干されていたが、あのようにすれば良いのか?


 暫らく思い巡らせ、そっと耳を澄ませてみる。この場所を選んだだけの事はあるらしい、すぐに流水音なるものを捉えた。


 湿った土を踏みしめ、音の方角へと一歩踏み出す。

 ……その前に、剥いでそのままにしていたキッドのマントを拾い上げ、ヤツには返戻せず、寒そうにしていたセシリアの足元へと掛けてやった。


「ぅふっ、ふふふふ」

「……」


 不気味な笑みが、その寝顔から零れる。

 唐突さ故に、身体が凍り付くように強張った。


「捕まえたぁ」


 何を捕獲したのかは知りたくも無いが、目を閉じながらのそれは、どうやら寝言のようである。


 ……やはり、関わり合いにならねば良かった……。

 寝姿からもそう思わせる彼女に溜息一つ落とし、踵を返す。


 暫らく歩み進めると、木々の合間から小さな池が現れ、揺らぐ月をその水面に湛えきらめいていた。


 山からの雪解け水が少しずつこの森へ流れ着き、幾つかの池を作っているという、かつて城で習った地理学が思い浮かぶ。


 ……雪。

 そうだ、この地では白く冷たいそれが降るとの事で有名だ。ならばこの水、かなりの冷たさではなかろうか。

 近付き、そっと触れてみる。


「……温かい?」


 予想外のそれに、知らず声が漏れていた。

 木々が然程風を通さぬ為か、港と比べて確かに寒さは感じ得ぬ。

 けれど、冷ややかな鉱石を含むこの大陸で、水温だけが上昇する事など有り得るのであろうか。


 ……。

 悩んでも仕方が無い、温かいのであればこちらも好都合。早々に覆面を下ろし、マントの留め金を外す。衣擦れの音を立て、それは地面へと滑り落ちた。


 次いで腰帯へと手を掛け、ズボンを下ろす。そのまま次々と衣服を脱いでゆき、全てを池へと放り投げ、最後にいっ纏わぬ姿となった自身をも水の中へと沈めた。


 水深は腰の高さ程度。身の汚れを落とすには十分である。

 水面に浮いている衣服を手に取り、水の中で軽く振る。暫らくそうした後、水から上げて固く絞る。同様に他の衣類も順に洗い、全て終えた時点で一度池から出た。


 中庭での情景を思い浮かべながら、近くの木の枝に広げるようにして引っ掛けていく。

 下着、上着、靴――


「あっ」


 目立つ汚れが残っていないかを確認していたが、マントを干した時点で代わりの服が無い事に気付く。

 これでは、乾くまで何も着用せぬまま待たねばならぬ。そしてそれは、決して短い時間では無いはず。


 ……まあ良い。乾かずとも着る事は可能だ。

 途方に暮れるのも程々に、今度は自身を清めるべく再び池の中へと身を沈める。久々の水の感触が心地良い。掌を身体に滑らせ、これまでの汗を流す。……愛用していた香水の匂いまでもが流れ落ち、二度と纏えぬ事を思うと少しだけ悔やまれた。


 一通り洗い終えると、今度は肺に空気を溜め、頭の先まで潜り込む。目を閉じ闇に浸れば、自身の吐き出す空気と、昼間は恐れていたはずの鼓動の音が静かに鳴り響いていた。


 場所は違えど、この空間はトトの森と変わらぬ。

 穏やかな気持ちで彼の地に思い馳せ、軽く遊泳を始めた。


『もう覗かれていないといいね』


 すると、前触れも無く、微笑を含む声が頭で響き渡った。

 水を蹴るのを止め、顔だけを水面から出し、息を吐く。


「何用か。お前にとって、今の私は偽者と呼ぶべき存在なのであろう」


 昨晩のように狼狽える事も無く、彼女との最後の遣り取りを思い返す。全身の力を抜き、浮力のままに身を漂わせた。


『リリスの求めるルーナさまは一人よ』


 返答になっていない言葉を並べ、少女はただ笑う。


「また私を鬼に変えるつもりか。……何故だ。この身は飢えておらぬぞ」


 呟き、徐ろに掌を夜空へと掲げる。

 指先で戯れるように、欠けた月の形になぞらせた。


『理性の無くなったアレが出てくる前に、リリスがちゃんとしたルーナさまを起こしているの』


 リリスが鬼を抑えているのよと、また空虚な笑みが耳を掠める。


「…………何だと?」


 間を置き、激しい水音を立てて身を起こす。ぬるりとした池の底に、一瞬足を取られてしまった。


 ……全く理解に欠ける。リリスの言い分を頭で描いてみるならば、鬼として動く私が二つ在るという事になる。

 何だそれは。可笑し過ぎるにも程がある。


「ヒトを狩り、食い殺す……お前の行いは今までと相違無い! 否、期間を制御出来ていた私の方がまだ良かった!」


 水飛沫しぶきが高く上がる程に水面を払い、声を荒げる。


『いいえ、違うわ』


 対しリリスは溜息さえ吐き、即座に否定する。


「違わぬ! お前はそれで一体、何を望むというのだ!」


 更に返す私の声は、遂に辺りへと響き渡った。

 しかし、それに答える声は無く、水面だけが静かに揺らめく。


「間が悪くなればそうやって口を……」

『もう、回りくどいのは無しにしましょうか』


 舌を打ち、悪態を吐くのを遮るように、彼女は言い放つ。沈黙を貫くと踏んでいた為、予期せぬ声に思わず息を呑んだ。


 かつての愛らしい声色など微塵も感じさせぬ程、それは抑揚の無いもの。まるで人形のような……少女らしかぬ、低い声。


『“ちゃんとした貴女を起こす”……そうね、そんなのは嘘。私は貴女を操っている。理性の無くなった貴女……血に飢えたアレに出て来られると、何も出来なくなるから』


 一人称すら変え、まるで別人のように話すその声を、ただ宙を見つめては聞き留める。


『何故そんな事をしているのか。……単純よ。貴女の身体を手に入れる為。その足で大地を蹴り、その指で花と戯れ、その唇で想いを歌う為』


 まるでうれいを湛え、声は淡々と述べた。


「は……」


 言葉が途切れて暫らく。微動だに出来ずには居たが、そのもく論見ろみに対して不思議と驚きは無い。自嘲とも言える笑みだけが浮かんでいた。


「そうか、この身が目的……率直過ぎて清々すがすがしい位だ」


 言いながら、緩やかに視線を落とす。

 池の中で揺らめく腕は、それに非ずとも震えているように見えた。


「身体など、いつでもくれてやる」


 遂には昼間願うた忘却を求む想いが、憚るものも無く口を吐いてしまう。この身が震えているのであれば恐らく、全ての記憶を手放せるという救いが見えたからに相違無い。


 ――ちゃんと生きろよ。


 どこぞの変態に、そうたしなめられた気がした。

 けれど、償わねばならぬ相手が望むのであれば、何もいとわぬ。


 彼女を取り込んだ事で生じた凶変。否めぬそれが収まるならば、例え生から目を背ける行為であれど構わなかった。


『まあ嬉しい……けど残念、今は叶わないの』


 感嘆の声を響かせるも、すぐに悔しそうに唇を噛み、顔を俯ける。姿など存在し得ぬが、そう感じた。


「気が変わらぬ内に乗っ取って欲しいものだな」


 肩を竦め、遊泳を再開する。水温が下がってきているようであったが、上気していたこの身には丁度良い。水面を描くように揺蕩たゆたい、また月を眺めた。


『ビアンカさま、見つけなきゃね』


 先程までの声色など嘘のように、鈴のように柔らかい声を溢すリリス。

 この意思が消えてしまおうとも、彼女は姉上を居場所として求めるのであろうか。居なくなるその日まで、二人笑いうていた情景が思い出される。


 帰還し、姉上の事を探し求めるリリスを、私はただ抱き締めてやる事しか出来なかった。


「生きておられると言うておったが……何故そうと分かる?」


 しかし、悲しみに浸る間も無く、いずれにせよ未だ続くであろう旅に対し、小さく息を漏らす。


 そうだ、声は確かに断言した。誰にも見つけ出せず、消息すら不明であった彼女をだ。悲しむよりは寧ろ喜ばしい事。


 それに、思い直せばこれまでの事には疑問が多い。野放しにせず、一つ一つ解いてゆかねばならぬ。


 ……そう頷いてはみたものの、同時に二度と見たくもない灰茶色のアレも思い出され、飲んでいる訳でも無いというのに口の中で生臭い感覚が広がる。

 情け無くも、一瞬だけ気が遠退いた。


『吸血族の意識には共通している部分があるのよ。……昔からね。……ふふ、ルーナさまには分からないわ』


 ……。

 取り込まれた事で、彼女もそれと成ったのであろうか。

 私よりも鬼の内側を知り尽くしているかのような口振りに、妙な違和感を抱く。


『待ち遠しい。今度こそ……だわ。早く、早く見つけてね』


 更にまだ何か続けていたようであったが、背後で何やら物音を捉え、私はその方角を凝視していた。


 池から素早く出で、掛けてあったマントを身体へと巻き付ける。しかし、予想以上にそれは乾いておらず、地面に近しい箇所に関しては肌に張り付く程であった。


「ったく、もういけるかと思って結界張らなかったらこれだ! わっかりやすい波動放っといて、俺から逃げられると思うなよ!」


 こちらの焦りなど露知らず、地面と靴とが擦れる音を大袈裟に響かせ、それは近付いてくる。


 ……忘れもせぬ。ギルヴァイス邸でもあのような事を抜かしておった。全く、あの強い自信は一体どこから来るのか。


 咄嗟に、足に触れた拳程の石を拾い上げ、見計らう。一呼吸の間を置き、ぶつぶつと文句を連ねるその方向へと力一杯投げ付けた。


「くぉらー! ファルとぇっ!?」


 木の背後から姿を見せた途端、驚愕しつつ顔面へ迫る石を極限で避ける。

 構わず、今度は干してあった靴を投げ付け、私は叫んだ。


「戯けが! 逃げも隠れもせぬわ!」

「うわっ、ちょ……おいっ」


 二足共に顔の前で受け止め、そのままの格好で凍り付く。

 距離にして五歩も無い。

 我が身がどのような姿でいるか、見えぬはずも無かった。


「え……あ、水浴び? あれ、こっち池の方向……だっけ?」

「何故そういう行動は読み取れぬか! 早う去れ!」

「は……ごめん」


 拍子抜けの様子で、背を向けるキッド。

 持ち上げていた二の腕程の石を放り捨て、知らず、乱れていた息を整えた。


「何この靴。濡れてるけど」


 すると今度は、防ぎそのまま持っていた赤靴を背中越しでひらりと振り、問い掛けてきた。


「池で衣服の汚れを落とした。それもその内の一つだ。……早う去れと言うに!」

「その内のって、靴まで洗って……あんた替えは? どうするつもりだよ」


 こちらの抗議などまるで聞かず、深い溜息を吐く。

 しかし、やはり何かが間違っていたのかと、私も妙な衝撃を受けてしまった。


「もしかして、着てるやつ全部洗った?」

「……」


 怒りすら失せ、干された衣類を見遣る。愚かしいのは自身故に、唇を固く噛み締めて押し黙った。

 いつかにすれ違った侍女、それが持っていた衣類の山の行方を、この身は一度でも追っていれば良かったのか。


「俺もさっき入浴してたけどよー、それは替えがあるからしたワケで……」


 否、汚れを落とし、干すまでは良いはずなのだ。乾いてしまえば完璧と言えよう。

 恐らく……その“替え”が無いだけであって。


「そういや、あれから結構経ってんじゃね? さすがにもう冷めてたろ」


 そう言うと、キッドは小さく術を唱え始め、池に向かい発動させた。

 手印のままに突き出した掌からは、頭部程の火の玉が現れ、ジュウという耳をつんざく音と共に水中へ沈み、消えゆく。


「まあ、宿は取れなくても良かったかな。こっちのが広い」


 池からは白い湯気が立ち上り、辺りには熱気すら漂ってきた。

 ……。

 けれど池の温度など、もはやどうでも良い。


「つーか赤土ならともかく、こんな寒い大陸で水浴びなんて風邪引くぞ。服も朝には乾くかどうかだし」


 先程から頭を掻いたり首を捻ったりと、何も返答せずともヤツは一人で延々と喋っている。

 どういうつもりであろうか。こちらとしては身や衣服の心配よりも、この場に居られる事の方が迷惑なのだが。


「他の手段なぁ……あんまし呼びたかねーんだよなぁ。……俺の服着る? 前着てたやつ。……でも、せっかく綺麗にした体に汚れモノはなぁ」


 完全に独り言へと転化しているそれに段々と苛立ちを覚え、後頭部を睨み付ける。けれど、視線は徐々に耳の後ろ、結い髪の根元、肩へと移ろいゆく。慌ててそれから目を逸らし、地面へと視線を落とした。


 すると、先程捨てた石が視界に飛び込む。


「……」


 月明かりの下とは言え、ヒトの夜目。例の三撃を避けられた事が引っ掛かっていた。


 魔道に長け、動体視力にも優れていると? そのような卑怯な身体など在ってなるものかと、遂には石を拾い上げ、もてあそぶように軽く上下させる。

 打ち負かしたいという欲が沸々と湧き起こっていた。


「キッド」

「んぁ?」


 呼び掛けると、何の躊躇いも無くこちらへ振り向く。

 即座に、持っていた石をその顔目掛け、投げ付けてやった。


「のわっ!」


 驚きながらも残像すら残し、またしても極限で避ける。結局ただの一度も当てる事叶わず、私は肩を竦めた。


「戯けが! いつまでそうしておる! 思案ならば此処で無くとも良いはずだ! 私が今どのような姿で居るのか、解せぬ訳ではなかろう!」


 力任せに空を切り、慌てて背を向けるキッドの後頭部を再度睨み付ける。……視線もまた、同じようにあの箇所へと滑り落ちた。


「ああもう分かった! 分かったから石投げるな! で、顔を狙うな! 怪我すんだろうが!……ほんっとお前、もう少し考えてから行動しろよな!」

「……“お前”だと?」


 かつて、父上にだけ許されていた自身への称。

 親しみと優しさが込められ、安堵すら感じていたそれを。


「貴様……昼間のこいつ扱いといい、この私をろうしておるのか!」


 易々と穢すこの男に、思い掛けず怒りが達した。


「どのワタシがそんな口叩けんだよ。大体俺、二十一よ? 王女であっても無くても、お前みたいな小娘に貴様呼ばわりされて、それでも腹立たねぇつったら嘘になるわ」


 飽くまでも小馬鹿にするその態度に、瞬く間に上気してしまう。呼吸をも荒くさせ、今度は空では無く、傍にあった樹木を殴り……次の瞬間、足が地を蹴っていた。


「いっ! 何すんむぐぅ!」


 鬱陶しく垂れる後ろ髪を引っ張り、不快な言葉を並べる口を塞ぎ、そのまま叩き付けるよう後方へと押し倒す。


「むっ! んぅぅ……んむぅ……」


 固い土に後頭部を強く打ち付け、軽薄なその顔が苦痛に歪んだ。

 同時に私の怒りは頂点を通り越し、妙な目眩をも引き起こす。そして、遂には自身の格好も忘れ、ヤツへ馬乗りの体勢を取ると、両の手をその首へと滑らせていた。


「自分がどんなに重い罪を犯しているか、知りもしないくせに!」


 しかし、この口から放たれたのは、自身に有らざる妙な言葉。


「絶えさせやしないよ……解放しな!」


 更には、覚え無きぞんざいな口調で以て紡ぎ出す。

 ……何だ、この口は。何を言うておるのだ。

 

 たかぶっていた気持ちが瞬時に冷め、自身の腕を凝視した。

 正規の感覚では無いそれは、何のつもりか容赦無くヤツの首を絞めている。


 どこでどう移り変わったのであろうか、いつの間にか意思と身体が引き離されていた。


「ぅ、ぐ……」


 ――お前の仕業か?


 この男の出現と共に潜んだ彼女に、内心問い掛ける。……半ば予想はしていたが、返答は無かった。

 しかし、夜目が利いている。爪が、獲物を狩るそれとなっている。兆しがあった訳では無いが、その時の如く身が変化していた。


「ぐ、るしぃ……って」


 ヤツは抗うようにこちらの手首を掴み、引き剥がそうとしている。しかし、やはり力では敵わぬのか、鬼の腕は揺るがない。息も絶え絶えに、玉の汗を浮かべるだけであった。


「…………スリ……ゥ、ブレ、ス!」


 そのような状況下でも、辛うじて何かの術を解き放つ。

 弱々しく放たれた手からは、私の髪をも踊らせる程に強い風を招き、次の瞬間、翡翠色をした小さなヒト形を目前に出現させていた。


 昨晩にも見たがねいろのヒト形とよく似ている。女人の姿を模した掌程の物体。これも、精霊たる者であろうか。

 考えていると、妖艶な顔をしたそれはこちらへ向かい、深く甘い息を吹き掛けてきた。

 むせ返るような濃厚な匂いに、思わず眉をひそめる。しかし、まるでいざないを思わせるその香りは意外に何の影響も与えず、ただ霧散する。


 ひとたび間を置き、小さきヒト形は肩を竦め、今度は微かな風と共に消えていった。

 ……この身は拍子抜けしたように、暫し動きを留める。

 苦しむキッドの目を細く見つめ、さも可笑しそうに口端を吊り上げた。


「んっふふふ……自信家がとんだ失敗をするもんだねぇ。その術は人間か、亜種なら雄にしか効かないはずだろう? それとも、半妖である事に賭けたのかい?」


 全く記憶に無い術の知識までもが、唇から滑り落ちる。しかし、その手元が緩んでいたのを見計らうと、ヤツは私を強く突き飛ばし、何とか苦痛から逃れていた。


「ごほっ……ふ、はっ……なん、なんだよっ!」


 荒く咳き込み、保護すべく喉に手を当てながら、それでも素早く立ち上がってこちらを睨む。

 苦悶に歪むその顔は、我が目を捉えるなり徐々に驚愕へと塗り変わっていった。


「金の目……くそっ、いつの間に……つーか何だよ、その喋り方っ……」


 取り乱すその様を楽しむかのように、この口は粘り気ある笑みを形作る。


「これくらいやんないと、あんたは聞かないだろう? 全く、面倒な事をしてくれたねぇ」


 続けてまた、解放しろと声を張り上げる。……その、笑む口元とは反対に、目だけは無機質にヤツを冷たく捉えていた。


 これまでのような、血を欲する雰囲気でも無い。

 狂った鬼とは違い、明確な意思を持っている。

 今まで味わった事の無い得体の知れぬそれに、私は少なからず恐怖を抱いていた。


「意味分かんねぇ……解放? 何だよそれ」


 ようやっと余裕を取り戻したのか、慣らすよう微かに体を動かし始めるキッド。

 互いにこうして対峙するのは初めての事。石を避ける事は出来たようだが、此奴に私を止められるのかと不安が過ぎる。


「分かんない?……心外だねぇ。あんたが今縛り付けているモノは一つしか無いだろう!」


 言葉を口切りとし、この身は再度飛び掛かっていた。

 刹那、動揺しながらも、ヤツは素早く後方へと退く。

 そして、今し方自身が立っていた場所に私が踏み張ると、見計らって強く腕を掴んできた。


「おいこら走るなって!……前、はだけるから!」


 !


「……今更気にする事かい?」


 しかし、動いた口に驚き恥じる様子は無く、鬼はヤツの苦い顔を鼻で嗤い飛ばした。

 そのまま、掴まれていた腕を逆手に取り、捻じ上げては背後へと回り込む。やはり近距離には弱いのか、呆気無く勝敗がついたように見えた。


「今更って……ファルトは気にしてたぞ。つーか本当に何なんだよ。ばーちゃんみたいな喋り方して、気持ち悪ぃ……」


 捻られた腕など物ともせぬ口振りで、ヤツは肩越しに吐く。

 けれど、その手は逃れようと必死に力んでいる。

 鬼の目には、冷汗滲ませる顔すらも鮮明に映る。平静を装ってはいるが、無理に動かせば関節が外れかねない。

 打ち負かしたいという欲は、今になって満たされていた。


「余計なお喋りは終わり。さあ、解き放ってもらおうか。……でなきゃこの指、一本ずつ折ってやるよ?」

「……」


 非道な提案に動きを留め、口達者が押し黙る。術に頼った時点でも、この身はそれを実行するであろう。


 しかし、そうまでして叶えたい“解放”とは一体何なのか。このような状況下でも好奇心が胸を掻いた。


「解放、解放って、何を?……お前を、か?」


 まるで代行するかのような間合いで、ヤツがぽつりと溢す。


「そうさ。……いや、違うね。あたしを解き放つんだよ」


「……は?」


「あんたなら、今この場で出来るんじゃないかい?……アレン」


 ……? アレン? この男を?

 同じ名前とて、その名で呼ぶ事は皆無であった。

 何だこの身体、誰の意思を持っている?


「……っざけんな!」


 訝しむ頭も真っ白になる程、唐突に身体が強く揺れた。

 この身を上回る力……それを発揮し、腕を振り解くキッド。こちらへ向き直ると、間を与えず両の肩に激しく掴み掛かる。


「誰だ! 答えろ!」


 目を大きく見開き、近くの樹木へと押し付けてくる。

 怒りにも似た形相で声を張り上げるそれは、酷く動揺しているように見えた。


「何の為にキッドから…………いや、船で呼んでたヤツと重ねてるだけか!?」


 掴まれた肩には痛みすら走る。


「違うよな!?……誰だよ! 何なんだよ!」

「ぅぅ、ぅ……」


 しかし、どれほど叫ばれようとも、それに応じる口は失われていた。

 それどころか、まるで敵わぬ強者にかくする獣の如く、奇妙な唸りを上げ始める。不都合による逃走か、激しい剣幕に思わず引っ込んでしまったのか……妙な口調の人格が現れる事は、以後無かった。


「……っ! かっ、は……ぅ」


 それでも鬼である事に変わりは無いのか、次いで焼付くような喉の痛みに襲われる。


「……今度は、何だよ」


 燃えるような瞳はいつしか消沈し、困惑へとその色を塗り替える。この口は呪いの術を唱えるかのように、ヤツへ向かって血を欲する言葉を繰り返し始めた。


「…………お前も忙しいヤツだな」


 怪物相手に、まるで幼子の我儘でも見るかのような溜息を吐くキッド。

 しかし、その腕は目を疑う程の力にて我が身を抑え込んでいる。血を求め悶える身を。何の加減も出来ぬはずの鬼の身を。


 時にして長く、そうしていたであろうか。ヤツは困り果てた面持ちでこちらを見つめ、押し黙っていた。

 鬼の意思ですら遂には敵わぬと悟ったのか、抗う事をやめ、一切の動きを見せない。


「あぁもう、仕方ねぇなっ……よし、飲め!」


 向けられた恐怖の眼差しには気付かぬ様子で、それは意を決したように突然服の袖を捲り上げた。

 思い掛けず解放されたこの身は、けれど全く動こうとはしない。……否、いつの間にか自身の感覚が戻っていた。

 喉は酷く渇いたままだが、焼付く痛みはもう無い。


「太い血管通ってりゃどこでもいいんだろ。ここから飲んでくれよ」


 どうぞと述べ、長い腕を差し出してくる。唐突であるはずのその行為は、いつだったか同じような光景を脳裏に蘇らせた。


 ――私が良いと言うまで、ね?


 潮風に靡く紅い髪を押さえ、その白い腕を差し出されていた姉上。貴女は加減を知らないからと、あの日彼女は困ったように笑んでいた。

 私はどのような気持ちで、あの細い腕に牙を当て交うたのであろうか。それを思い出す事は恐らく、彼女を求める旅路と同じく難しい。


「飲むのはいい。但し、制御しろ」


 記憶の波を漂う意識の奥で、キッドの声が静かに響いた。


「その体ん中に何人宿しているのかは知らねぇが、吸血鬼の意識は全て……ファルトゥナ、貴女がしょうあく出来るはずだ」


 宙を漂っていた視線が、思わずその目へと戻る。

 口が呆けるように節度無く開いていたかも知れない。


 久々に……けれどもヤツの口からは初めて聞いた、自身の名であった。


「……悪かったよ、傷付けるような事言って。お前があれこれ無知なのは当然なのに、こっちも苛々して……あ、“お前”って呼び方が駄目なのか。ごめんな、蔑んでるワケじゃ無くて、こりゃもう馴れから来てんだわ」


 苦笑しながら二度も詫び、もう一方の手で頬を掻く。

 いつもの様子とは程遠い、まるでどこぞの世話係のように頼りない様であった。


「俺育ち悪いし、まともな口の聞き方なんて期待されるとちょっと困る、かな」

「……もう、良い」


 視線を、差し出されている腕へと移し、そっと自身の手を伸ばす。温かな肌の感触を期待したが、指先よりも鋭く醜い鬼の爪が真っ先に触れてしまう。


「対等……否、それ以下であろうとも。その扱いは正しい」


 奇しくも、それを見る目は陰っていた。


「王女であろうと無かろうと、私はただの化物なのだから……」


 そうだ。幾年を重ねようとも魔は殲滅せんめつされるに値する。

 自身でさえも願う。この身は人々への脅威。平穏を乱すのであれば、消えてしまえと。


 ヒトとしてのことわりから外れゆく幼少期に、幾度吸血鬼というものを呪った事か。


「あれ? 意識戻ってる?」


 と、その腕が不意に下ろされそうになる。考えとは裏腹に、身体が本能的に動いた。

 逃すまいとして素早く掴み、こちらへと強く引き寄せる。


「ほぁっ……」


 均衡を崩し、戸惑いと共に覆い被さるようにして倒れ込むキッド。広いその背を抱き止め、背面から襟元を僅か引き下げた。


「あの、ファルト……さん?」

「腕は硬くて好かぬのでな。ここから貰うぞ」

「へっ?」


 言うが早いか、露となった首筋へと素早く喰らい付く。途端、情け無い悲鳴を上げてもがくキッドであったが、すぐに意識を失い、身を預けてきた。

 加虐心をも煽るその様に、まるで拍車が掛かる一心で喉を動かす。漂う匂い全てを取り込むかのように、満たされる想いで吸い上げた。


 途中、幾度も咽せそうになり、呼吸を荒くする。昨晩とは全く違う心地良さに、身体が先走る。

 一滴でも零すまい。思い、瞼を閉じる。直前に見た景色には闇が戻っていた。

 突き立てていたはずの牙も役目を終え、収縮している。けれど、歯止めをかける理性が……無い。


『……レン』


 ヒトの身体を取り戻しているにも拘らず、獣のように食む……その頭のどこか遠くで、悲しい声が聞こえたような気がした。



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