-5- 疑惑の追跡者
暗闇がその意味を成さぬと感じた頃、私は静かに立ち上がる。
「我が身を満たす血の代わりなど在り得ぬというに、愚かな」
晴れた笑みと共に水筒を投げ渡してきた人物を思い、嘲笑う。
乱雑に置かれていた覆面とマントを持ち出し、窓枠に足を掛けた。
――パチン。
刹那、弾けるような音が室内に響き、同時に二隣の窓が乱暴に開け放たれた。
「懲りねぇヤツだな! まだ逃げる気か!」
窓の勢いに沿うよう身を乗り出し、夜更けを気遣わぬ叫びを上げるキッド。
その
「逃げる?……貴様と共に行くと誓った覚えなど無い」
言い捨てて窓枠を蹴り、地へと降り立つ。
そのまま脇目も振らず疾走した。
「はぁ!?……おい、血はどうした!」
瞬きの間に目が
そして、既に宿から数十メートルは離れた身が捉える、術の詠唱。昼間の失態を思い出したのも束の間、今駆ける速度はあの時の比では無い。射程範囲などとうに越えていた。
暫しの時を経て、今度はとある一角から
中に入らずとも、酒煙草や汗の臭気が、この地特有の湿り気ある空気に入り混じる。覆面とマントに身を包み、惑う事無くその喧騒の中へと踏み入った。
如何にもな面構えがひしめく中、一人テーブルに着く者を見定めては近付く。吐き出す煙には目を
「今晩は。お一人?」
突然耳元で囁いてやるも、男は然程驚いた様子は無く、舐めるように視線を寄越した。
「客引きの割にゃ暑苦しい格好だなぁ?」
「執念深いのに追われているの。匿って頂ける?……そうね、貴方の寝所ならば見つからずに済むかしら」
首元から顎へ、長い爪が見えぬよう指を滑らせ、気色悪い程に艶のある声を吐く。向こうは怪しむ素振りも無く店主に代金を渡すと、こちらの肩に腕を回して引寄せ、早々に場を後にした。
酒場の裏手へと回ると、寝所など待たず突然壁へと押し付けられる。
……やはり、何処の大陸でも愚者は同じか。
月の見えぬ夜空、小さく浮かぶ星を眺めては嘲笑う。
男が体勢を低め、もどかしそうにフードと覆面を剥がしに掛かったのを見計らい、その首元へと喰らい付いた。
様々な臭気を纏うそれに僅か眉をひそめるが、程無くして、灰茶色のアレとは比較にならぬ程に濃厚な味が舌に広がる。
「お? お? 何か気持ちいいぞ? 何だお前、変なクスリ、で、も……」
言い終えぬ内に、牙の毒を受けた身が重く寄り掛かる。けれど先程とは違い、指一つ動く気配は無い。
……暫し流れる沈黙のような時間、私の口元だけが卑しく音を立てる。吸い上げるそれが儘ならぬ量となる頃にはその身への興味も失せ、軽く突き飛ばした。
受け身すら取らず、力無く後方へと倒れ込む男。当然であろう。動かす術は、文字通り吸い尽くしたのだから。
「都合良い役割をしてくれる毒でな。どうだ、最高の気分であろう? 永久に目覚められぬのが難点だが」
一人溢し、その場へと立ち尽くす。
緩りと夜空を見上げれば、既に星は見えなかった。
「“意識”に抗うには苦しみが伴うというに……」
いつの間にか戻っていた自身の手を見つめ、そのまま流れるように男を見る。先程まで動き回っていたのが幻かと思う程、
腹は満たされたが、虚無を感じた。
「何故だ、リリス」
元凶が何処にあるのかは分からない。しかしそれでも、口がその名を溢す。
時折、酒場の壁の奥から下卑た笑いが聞こえてくるも、望む声が響く事は無かった。
――ヒュヒュン!
と。突如風を裂く音と共に、光の環が我が身を捕らえる。
程無くして、蒼い影が目前へ降り立った。
「一歩遅かったな。魔道士よ」
「……あの血が駄目なら、何で俺んトコに来なかった」
倒れている男を一瞥し、怒気を
「お前では腹が満たせぬ」
「ふざけんな! 王妃の厚情を無駄にする気か! また血の無い死体作って……バレたら今度こそ終わりなんだぞ!」
空虚な言葉に対し、ヤツは声を荒げて襟元へと掴み掛かってくる。が、ひとたびこちらへ目を向けると、すぐにその手は緩められた。
「なんて顔してんだ……後悔するならやるんじゃないよ、阿呆」
襟元を解放し、整え、次いで静かに術の詠唱を始めるキッド。……私はただ、朧げにその様を眺めていた。
しかし何故か、今し方怒鳴られた台詞が脳内にて反芻される。
キキルの港で聞いた男の言葉をも思い出し、途端に唇が震え始めた。
「討伐……したのか?」
乾いた唇を何とか開くものの、弱々しい声を絞り出してしまう。
術を唱える動きが一瞬、止まったように見えた。
「あの日、城の者達では歯が立たぬ程の術者が町に居ったと聞く。……キッド、もしやお前がそうなのでは?」
言いながら、怒りとも恐怖とも取れる感情が沸き起こる。向こうは怪訝そうな目でこちらを見据え、それでも詠唱を続けていた。
「そうだ、この顔を母に似ていると申したな?
叫ぶ口は、どうやら怒りよりも恐怖に偏っているようであった。
……町人と共に城を攻めるキッド。
かつて華麗だと感じたその術の数々で皆を薙ぎ払い、焼き尽くす。生々しく思い描いては身を震わせ、足が退いた。
けれど後ろは壁。身も戒められており、逃れる事など不可能。
「食い殺したと言う母の嘘を見抜き、私を捜し当て、どのように始末するかを模索しておるのではないのか!?」
ともすれば、今唱えている術こそがその方法やも知れぬ。
「お前はっ……最初からこの身を虐げるつもりでっ……」
「レリィワーズ」
恐怖を押し殺すよう尚も続ける言葉を遮るかの如く、術が解き放たれる。それに小さく悲鳴すら上げ、身を強張らせた。
しかし、思うような攻撃性は感じられず、戒めの環が光を失うように掻き消え、解放される。
「怒り狂ってドルクスみたく暴れるダルシュアンの連中。人喰らって生き永らえてた癖に、肝心な時に無抵抗なマリエ王妃。……上から見てたけど、どっちにも加担出来なかったよ」
戸惑う私にフードと覆面を被せ、淡々と言い放つ。
「それに、いくら俺でも一国の宮廷魔道士らを相手取るほど
最後に宥めるように軽く頭を撫で、紺碧の双眸が深く覗き込んできた。
「なぁファルト。俺の事、まだ信用出来ないか?」
安心させるようにするそれすらも、疑わしく見えてしまう。
「見ず知らずの者が人殺しを匿うなど……理解出来ると思うてか」
全ての成り行きを、この男はただ傍観していたと?
ヒトであるなら民に加担しそうなもの。ドルクスのように狂っていたとしても、私達吸血族は排除されるが正しい。……己が命を、脅かすだけの存在なのだから。
深く息を吐き、覗くその目よりも遠く、地へ伏す男に視線を移す。ヤツはそれに沿うよう振り返って男へと歩み寄り、屈み込んで暫し観察する。……首元に手を当て、何か術を唱えているようであった。
そして緩りと担ぎ上げ、再び目前へと戻って来る。無言のままにこちらへ手を差し出していた。
困惑の目でその手と顔を交互に見ていると、
「はっ……何を」
「来い。こいつ、埋めるから」
そう言い、私をも担いで飛翔の術を唱え、夜空へと舞い上がる。
……言葉を、失わざるを得なかった。
これまで当然のように行ってきた酒場での“食事”。ならず者だからと、長きに渡り食い捨ててきた。
しかしそれは、決して行ってはいけない命への
彼等が倒れゆく中で感じてしまう虚無の理由など、最初から明白であった。
そうだ、人生のやり直しなど利くはずが無い。一度絶ってしまえばそれ切りの命。愚者と決め付けてきたそれすら誠であったか定かではない。
殺める事までもを自身の都合で解釈し、詫びも感謝も無いこれまでであった事に、深く打ちのめされてしまう。
せめて墓でも作ってやるのが、ヒトを糧とし、それでもヒトを半身として生きるこの身の義務ではないのか。幼少時に学んだ食前の祈りは、その命を削り我が身となり
……隣で同じように運ばれているであろう男。しかし、これだけ後悔の念を抱いても尚、
港町から少し離れた森へと降り立ち、キッドはまた詠唱を始める。程無くして術は完成し、何やら小さい光が現れていた。
よく見ると、ヒトの形をしている。先程話に出た精霊というものではと直感した。それに
「……食い殺したって言った後に、娘が生きる世を願ってたんだよ」
深く掘られた穴に男を横たえ、ぽつりと言う。
「自分が死ぬって時に、それはもう、つらつらとな。……吸血鬼だろうが何だろうが、俺はそこまで想われていたあんたを死なせたくないと思った。……幸い、今は“ファルト”として生きられる。ちゃんと加減すれば、殺さずに済むはずなんだ」
穴から出で、待機していた光に合図を送る。土が滑るように流れ、男と共に跡形も無く埋め尽くしてしまう。
後に残った光は祈りの言葉を残し、静かに消え去っていった。
「群衆に追われる辛さは俺も知ってる。それに伴った死の悲しみもな。あんたにはそうなって欲しくない。世で罪とされてようが、生きる手助けがしたいんだ」
最後に黙祷を捧げ、キッドはこちらへと向き直る。
「……その為なら、何だって隠してやるよ」
その瞬間、風が大きく吠えた。
木々がそれに応えるよう、激しく揺れる。
……ヤツの眼は冷たい。
男を弔う反面、その死の事実を隠蔽したからか。
「さあ、戻ろう」
先程と同じように、手を差し伸べてくる。私は首を振り、その手を取る事無く歩き出した。
脳内でキッドの言葉を繰り返す。役人へ突き出さず、私に付く理由がようやっと判明したというのに、返す言葉が無い。
「……すまない」
歩みは留めぬまま、聞こえているかも分からぬ声で、私は謝罪する。
身体の変化の事、男の埋葬の事、母の想いを
これが、全てに対して唯一、返せる言葉であった。
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