-4- ずっと一緒

 シェラムから数刻程離れたチェオの港町。

 既に夜は更け、港町と言えど明りのともる民家は数える程しか存在していない。にぎわうのはとう付近にあるらしい酒場のみ。初めはそちらに近い宿へ赴けば満室だと断られ、仕方無く遠く離れた町の入り口付近である此処へと戻って来た。


 シェラムでの押し問答が無ければもっと早う着けたものを……。

 二軒目の宿の主人に二部屋頼みつつ、内心舌を打つ。


「なあ……部屋さ、一緒にしない? やっぱ緑の地は馬鹿高いわ」


 銀貨三十枚を要求され、仕方無く宝石袋に手を掛けたのと同時に、キッドが隣へ……私の肩にもたれ掛かるように宿帳を覗き込んだ。


「……なかなか、力強い字だな」

「昨夜の詫びだ。代金は出そう」

「いや、そうじゃなくて」


 耳元で響く声が鬱陶しい上、余りの馴れ馴れしさに鳩尾を強めに突いてやる。

 ヤツは小さく呻き、後退していた。


「何故貴様ととこを共にせねばならぬ」

「うぅ……二人部屋にすれば、床は共になんねぇだろ……。ちゃんと節約心掛けないと、この先ホント痛い目見るぞ」


 取り合わず、宝石袋の中を探る。

 ……。

 中には色取り取りの宝石、装飾品が我一番にとその輝きを放っている。そのどれもが、過去に母上の腕や胸元を飾っていたものばかりであった。


「主人、すまぬが貨幣を持ち合わせておらぬ故、これでまかなっては貰えぬか。換金すれば銀貨三十枚は堅いと思うのだが……」


 装飾品の一つを差し出し、その表情を窺う。

 白混じりの顎髭を緩く撫でては黙していたが、やおら柔らかい笑顔を浮かべると、別料金の食事を振る舞おう、と快く受け取ってくれた。

 それに頷き、指定された部屋へと向かう。


「勿体無い……。何なら俺が換金してやったのに」

「貴様に渡す位ならば海へ投げる」


 足早に廊下を歩きつつ、短く言い放つ。

 すると突然、後方へ引っ張られる感覚と共に進行がさまたげられた。

 振り返り確認してみると、目を据わらせ、大男がねた幼子のように私のマントを掴んでいる。


「さっきから突っ掛かるなぁ。ギルヴァイス邸での事、まだ根に持ってんのか」

「……何かと思えば、そのような事」

「屋敷出てから声が低いんだよ! あと、貴様扱い!」


 わめきに対し口を開いてはみたが、返す言葉が思い浮かばずに深く息を吐く。

 確かに、頭から離れない。束縛の術に捕らわれ解放されるまでの間、この身に成す術は無かった。

 しかし、それはこの男への憤りでは無く、自身への苛立ち。


「……悪かったよ。逃げられたもんだから、俺もつい躍起やっきになったんだ」


 それに気付かぬ紺碧の双眸は、何やら間が悪そうに下方へと逸れている。

 ……役人にも突き出さず、私にここまで執心する意図は何なのであろうか。水晶色の髪を頬に落とすその顔からは、窺い知る事叶わない。


 初めは確か、服装でこの身を賊と判断し、口止め料を奪う為に追って来たのであったな。

 ならばあの時、それと紛わぬ衣服を纏っていたなら?……それでも“ヒマだから”と、付いて来たのであろうか。


「お前は一体、何なのだ」

「……は?」

「良い。元より恨んでなどおらぬ。……そうだな、八つ当たりだ。忘れてくれ」


 不意に全てがどうでも良くなり、私は考えるのを止めた。

 ギルヴァイス邸での事。この男の事。

 恐らく眠気によるものであろう。脳は全てを放棄する事を望んでいた。


「さあ、今日はもう休め。その身も疲弊しておろう」

「そうだけど……」


 腑に落ちぬ様子で、ようやっと私のマントを解放する。

 部屋は二階の奥と、それより二つ隣のこの部屋。此処はキッドに貸す事にして、もう一方の部屋へと赴く。小さく欠伸を噛み殺し、着いた先のドアノブへと手を掛けた。


 すると、間延びした掛け声に呼び止められ、返事もせぬまま振り向く。


「隙があったから採取しといたよ。ほれっ」


 投げられた物を反射的に受け取ってみれば、それは二の腕程の水筒。

 栓はしてあるものの、癖のある臭いが鼻を突いた。


「……血?」

「そう。ただし人間のじゃない。それで何とか繋いでみてよ」


 ほう、と感心はしたが、この臭いには覚えがあった。


「ネズミ……」

「御名答」


 これを、飲めと……。

 本日何度目であろうか、口からはまた、小さな溜息が漏れていた。


「じゃ、おやすみ」

「……キッド!」


 思い立ち、今度はこちらから呼び止める。

 言わねばならなかった。こういう状況下でこそ。

 私は今、助けられているのだから。


「ぁ、……り」


 ――……めろっ! 誰か! 助……!


「何?」


 問われ、我に返るのと同時に、ゴトリと水筒を落としてしまう。別段慌てるでも無く、静かにそれを拾い上げた。


「ファルト?」


 緩やかに視線を戻すと、怪訝そうにこちらを見ている目と打つかる。


「いや……これ、すまぬな」


 ドアノブを回し、お休みと言い残すと、早々に部屋へ入り込む。扉は後ろ手に閉め、明かりも灯さぬまま、抑えていた息を吐いた。


 縋るような気持ちで耳飾りに触れようとすると、再度水筒を取り落とす。遣り切れぬ思いが酷く押し寄せ、自身も床へと座り込んでしまった。


「一言、まだ言えぬか……」


 呟くも、その声は小さく上擦っていた。

 息を吐く度に唇が震える。

 呼吸も、いつの間にか異様な乱れをきざしている。


 ――バケモノ……来るな!


 声は思い出せない。

 小さな口だけが、その形に動く。


 この場から逃げ出したいような、強く当たり散らしたいような、おおよそ苛々とした感覚が胸の内で渦巻く。


 首を傾けると、倒れた水筒が目に入った。無造作にそれを掴んでは乱雑に開け放つ。瞬時に放たれた汚臭とも言えるべきそれは、嫌な事をも覆い尽くしてしまうように思えた。


「このようなものが無ければ生きられぬとは……」


 目を閉じ、緩りと口付ける。

 無遠慮に生々しい音を立て、一息にそれを飲み干した。


 ……。

 後に残るは、虚無。

 顔をしかめる程の不味さにも拘らず、荒々しい呼吸も、唇の震えも、幻のように鎮まっていた。


 重い腰を上げ、ようやっとベッドへと向かう。今の瞬間で疲れ切ってしまった身体を休める為。……全ての事から目を背ける為。


 覆面とマントを脱ぎ捨て、侍女も控えておらぬというのにお休みと独り口癖のように呟くと、闇の降りる青白いシーツへと沈んでいった。






 小さな足が、見覚えのある草地を駆けている。

 視界は非常に思わしく無い。気分を害す程の白い霧。これが夢だと確信するのに、そう時間は掛からなかった。


 そうなれば、覚めるも堕ちるも自由である。好奇心の赴くまま、事の成り行きを見守る事にした。

 ……思う間にも、足は駆ける事を止めない。見慣れた風景のはずだが、知らない場所から逃げているような足取り。


 そして気付く。まるで幼子にでもなったかのように、地面が近い。


 ――ドン!


 視界不良故か、辺りを見回しながら走っていた所為か、勢い良く何かに打つかってしまう。尻餅をついて途方に暮れていると、唐突に手が差し伸べられた。


 それを伝い、潤みを帯びた眼で相手の顔を見上げる。


『大丈夫かい?』


 声は聞こえない、口の動きも見ていなかったはずだが、その相手の言葉を理解していた。


 ……ああ、そうであったな。これは夢。ただの夢。

 差し伸べられた手を取り、立ち上がる。

 その瞬間、あれほど立ち込めていた霧が、空に吸い込まれるようにして消えていった。


 視界に飛び込んできたのは、火の地特有の草花。頑丈な灰白かいはくしょくの石材から成るダルシュアンの城。


 そして……。そして優しく微笑む、栗色の髪の青年。

 夢と理解していても目が離せない。

 けれど、常ならば頭一つ分程しか身長差が無いはずの彼。今の目線の高さには、ももがあった。


『ありがとう』


 ……!

 背筋が凍るのを、我が意思は確かに感じ取った。

 先程と変わらず声は聞こえない。この夢世界には音が無い。


 けれどこの口は、はっきりと動いた。

 言えぬはずの言葉を、躊躇いも無く吐いた。

 ……夢、だからか? しかし……。


『迷ったのかな? 素敵なドレスをお召しだね。あなたはどちらのお嬢様かな?』


 こちらの背丈に合わせるよう跪き、その深い礦石こうせきのような瞳を覗かせる。


 ……夢の世界であるのならば、今ここで彼に抱擁を求めても咎められぬであろうか。

 この想いを無限に囁いても、許されるであろうか。


「アレン」


 ――プツ。


 と。繋ぎ留めていた意識を手離すかのように、一切の景色が失われる。

 咲き誇っていた草花が、ダルシュアンの白い塔が、目の前にあった優しい笑顔が。


「ぁ、アレン?」


 呟いた言葉は、恐ろしくその空間に響き渡った。

 ……お前は独りだと、知らしめるように。

 先程まで草を踏み締めていた足も、もはや何も捉えてはいない。


「……だめ」

「何故だ! 夢の中でさえ、彼奴を想う事は許されぬと言うのか!」


 聞こえた言葉に、なかば反射的に声を荒げる。

 まるで抵抗のような生暖かい風が吹き寄せ、霧散した。


「見ないで。貴女には何も渡さない」


 静かな憤りを混じらせ、声が食らい付く。それに怒り覚えるのと同時に、これはいつでも覚められる夢だという確信が戻った。


 例え夢と言えど、深層意識に近い。

 そうだ、思い出せ。この声は何度も聞いている。血を欲する際に強く関係している。これの所為で、抑え切れぬ渇きに侵された。声の存在が“何か”を知れば、以前のように抑制出来るはず。


「お前は……何者だ」


 虚空へ向かい、言い放つ。先程のような虚無の響きは無い。未だ暗闇ではあったが、足が地らしきものを踏み締めていた。


 世界が再び構築されているような感覚。

 暫し待てど、返答は無い。


 ……声はいつから聞こえた?

 見えぬ地に目を泳がせ、深く思案する。


 シェラムの入り口で、あの男が癒しの術を唱えた際に一度……? 違う、そんな最近では無い。

 リムドーラ森林で眠った時……否、その前の村で少女の血を見た時か。


 瞬間、足元から薄暗い地面がなぞる様に現れていた。驚くより先に、新たな記憶が呼び起こされる。


 ……待て、違うぞ? ファルトゥナを名乗れずにいた際にも聞こえたはずだ。


 ふと、地面の赤い土が視界に入る。……そうだ、火の地でも聞いた事がある。それも、幾度となく……。


 徐々に踏み入れてはならぬ領域に思考を漂わせながら、地を見つめる事を止め、顔を上げる。


「どうして忘れていたの?」


 そこで、ようやっと答えが返ってきた。

 しかし、今度はこちらが言葉を失い、目前に佇む人物に視線を釘付けられる。


『穢れ無き御子の願いだ、喜んで貰い受けよう』


 紫紺の髪を額に落とすその顔が、無機質な微笑を浮かべている。音の無い世界の……酒場から漏れる明かりを背に。

 小さなこちらの手を強い力で握り、金の瞳を閃かせ、その女は。


『私の命となり、永遠となれ。尽く事無き愛で慈しもう』


 や……嫌っ……――


「やめろ!……ぅぐっ!」


 背面に鋭い痛みを感じ、目が大きく見開く。

 視界に飛び込むは女では無く、点々と妙な染みを付けた木造の天井。そして、今し方重みを掛けていたベッドの、乱れ食み出でたシーツ。


「……落ちる、など」


 溜息と同時に吐いた言葉は、酷く掠れていた。

 夜はまだ明けておらず、疲れすら取れてはいない。


 何が“覚めるも堕ちるも自由”だ。明らかに翻弄ほんろうされていたではないか。

 落ちた体制のまま、先程の夢を思い返してみる。

 ……最後に見た女、あれは……私。


 何故今まで思い出せずにいたのか。あの声の主を。あの夢を見た、本当の人物を。

 否、あれは夢ではなく、記憶。生気を吸い、血以外のものまでもを我が身としてしまったのか……。


 そこまで思うと居た堪れなくなり、身を起こす。部屋の端の洗面台へと立ち、備え付けの水瓶みずがめからおけへ中身を移し、顔へと打ち付けた。


「リリス……」


 傍らに置かれていた手拭いで顔を覆い、口の中で小さく呟く。


『なぁに? ルーナさま』

「! なっ……!?」

『どうして驚くの? ルーナさま言ったじゃない。リリスとずっと一緒だよね』


 全く予想だにしなかった声に、息が詰まる。

 生前と全く変わらぬ無邪気さを湛え、それは脳内へと響き渡っていた。


「まさかっ、本当に……私の中でっ……」


 少女の笑う声が肌をあわたせ、まるで喰らうかの如く不気味に全身を駆け巡る。


「違う! 私は望まなかった! このような事……決して!」


 後退り、辺りを見回しながら、存在せぬはずの者へ向かい叫ぶ。


『今のルーナさまはニセモノなんだよね。かわいそう。いつも自分じゃない自分に操られて』


 小さな溜息と共に、声……リリスは意識の中を浮遊する。

 まるで、自身でも把握し切らぬ深層で無邪気に腰掛け、しかし外の何処からかじっと見られているような感覚。


『でも大丈夫だよ。ちゃんと起こしてあげる。リリスのルーナさまはただ一人だもん。……さぁ、起きて。ネズミの血なんかでごまかされちゃだめ。気高い吸血族の名折れよ』


 幼子の言葉かと疑問に思う程の饒舌な口振りを、深い深いあの意識が捉える。

 同時に、身体にてつも無い重圧が掛かった。


「……!」


 声にならぬ苦痛と共に、心臓が跳ねる。……信じたくは無かった。

 徐々に焼け付く喉。渇望の兆し。それらが全て、リリスの意のままにされている。

 鬼の意思が、純真であったあの少女により引き出されている。


「リ、リっ」


 息も出来ぬ程に圧迫され、堪らず床に倒れ込んでしまう。すぐさま脳が強烈な眠気のようなものに襲われた。


 意識を保てない。あらがえば苦しい。身も動かせぬまま、視界が暗転する。

 この口は遂に、愛しい名を皆まで呼ぶ事は出来なかった……。



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