-6- 交渉
瞼裏にて広がる闇の中。
あの時と同じくして、濃厚な感触が喉を伝う。
少女の命と引き換えに得たそれを、今度は男で繰り返す。
…………。
しかし何故だろうか。とても……ヒトのものとは思えぬ程に、不味い。
「むっ!? ぇほっ……ごほっ!」
余りの不味さ故に僅か瞼を開き確認してみたのだが……見なければ良かったと心底悔いる事となった。
「はっはは、こっちが死ぬトコだったよ……」
思えば、術者の生気を吸っているにも拘らず、未だ上空から降下せぬのは不自然であった。
「き、貴様! そっ、そのて、手にっ……持っているモノはなんっ……」
言い終えぬ内に、口を覆ってしまう。気持ち悪さにやられて。
飲んでいた血はどうやら、その物体に流れていたものらしい。本当にヒトのものでは無かった。
「ここら一帯に生息してるシェラムネズミっつってな、草むらに隠れている時にでも入り込んだみたい」
「ぉおのれっ、私にそのような下等の血を!」
「冗談じゃねぇよ。でなきゃこうなってたのは俺の方だ。咄嗟の判断を
そう言い、動かなくなった“無毛で灰茶色のソレ”を地へ向かい放り投げる。いつの間にか地上への距離はかなり縮んでおり、立ち並ぶ樹木と同等の高さにあった。
「それに、元に戻ったからいいだろ。……金に変色する目なんて、さすがに怖いもんな」
この身を魔と理解しているであろうそれでも、キッドは呑気に肩を竦める。
「何度でも言う。命が惜しくば私に関わるな」
俯き、深い溜息と共に呟く。術が解かれ、地へ降り立つのと同時に背を向けた。
「そりゃもう、無理な話だよなぁ」
妙に間延びした声が、相も変らぬ調子で否定する。
……やはり怪物を野放しになど出来ぬか。
自嘲しつつ、久しく風に晒された口元に触れる。そこでようやっと、理由がそれだけでは無い可能性に気付いてしまった。
……そう、“可能性”だ。
顔など、世に知られてはいないはずなのだ。
「あんた、ダル城から逃げてきたんだろ」
「……」
背後の声が、緩やかに移動している。俯けたままの視界に、草地を踏み締める
「賊ではないと言うたはずだ」
「分かってるよ」
けれど、即座に掛かった声と共に手首を掴まれ、僅か引き寄せられる。口元覆う事叶わず、視線までもが
映るは顔を傾け、不敵な笑みを宿すキッド。
……
それ以上、その心情を探る気にはなれなかった。
「自分の城で、何を盗る必要があるってんだ」
可能性である段階は、とうに過ぎてしまったであろうか。
決してこの男に勝てぬ訳では無い。だが、追い詰められるが故の恐怖か、歯向かうなと意思が
「離せ」
内なる様子をおくびにも出さず、挑戦的な視線を打つける。
頭一つ分以上の身長差があっては、自信家を怯ませる事など夢に等しかろうが。
「くくく、ファルト……ファルトゥナ、捻りも何もあったモンじゃないな」
「……」
「ああそうか、名付け親は“レリズ”……はは、読み方変えてはぐらかされたってワケか。何だあんた、リリス嬢に愛称でも貰ってたのか?」
手が、額が、暑さを感じ得ぬというのに嫌な汗をかいている。
名など、真剣に名乗らねば良かったのか。
何としてでも、この男を撒いてしまわねばならなかったのか。
果たして、真に浅はかなのはどちらであったのか。
渦巻く疑念と後悔に、一人静かに苛まれる。
「俺はホントに運がいい。トトの森での収穫は大きかったよ。……さあ、町人に突き出してやろうか王女様。そしたらまた公開処刑の始まりだ。生きながらの身に、無慈悲な火柱が立ち昇る」
刹那、頭の中をまるで一面の
僅かに残っていたやも知れぬ、正体を隠し切る言い訳も、何もかもを忘れて。
「何だ、悔しいのか? 逃げてきた癖に。両親が殺されても尚、町人に復讐する訳でも無く生きてんのに」
「黙れ! 己が生きる価値の無い愚者だという事は重々承知の上だ! だが、母上はこの身に望みを託された! あの方々の為に、今、私は世に存在しているだけっ……」
息巻いていたはずのこの身は、知らず、胸倉を握る手へと顔を伏せていた。
「そんな風には、見えなかったけどな」
「……」
「なあ、分かってんならちゃんと生きろよ。復讐に身を投じずここまで来れたんだろ? だったらもう、これまでの生き方じゃダメなんだよ」
力無くした私の手を払い、
「望み託されたその人を想うなら、易々と血に
「……吸血族に
それを睨め付けるように見据えるも、その顔にはまた不敵な笑みが浮かぶ。
「諭す? 俺がしたいのは交渉だよ」
「……何?」
散々、宣教師染みた御託を並べておきながら、交渉だと?
「今後、生きる為に最も邪魔なものは?……あんたの正体を知った俺だよな。火の地の重罪人を引き渡し、多額の礼金せしめてやろうって商売気全開のキッドくんよ」
「……貴様」
「殺すか? いいや無理だね、俺はあんたを止める術を知ってる。何なら試してみる? 自慢のその動き、ほんの十秒もあれば封印出来るよ」
誠、饒舌な口振りである。
恐らくは本気であろう。確かにこの身、ひとたび封じられればそれまでやも知れぬ。解呪すら扱えぬ身なのだから。
しかし、どうであろうか。
かつて城の魔道士らを相手取った際、彼等に我が身下す事は叶わなかった。それが手加減の上であるなら、無意味な確証だが。
この男とてドルクオーガを不得手としていた。だが、こちらにはあの緑の巨体を上回る動きが在る。
いよいよ対峙せねばなるまいかという所で、けれど深く息を吐き、私は静かに目を伏せた。
「望みは何だ。金か? この衣服か?」
自身でも馬鹿げていると思う。
降伏し、その交渉とやらに応じようというのだ。
「それもいいな。……けど、今俺が満たしたいのは物欲じゃ無くてね」
言いながら、私のフードを剥ぎ、マントの留め金を外す。
夜も深みに入る頃、生物の気配すら無い鬱蒼とした森の中で、
「結構気になっててさ、人前に現れないお姫さま。顔を知る人も少ない。……けど、その“知る人”は必ず言う。王女が普段姿を見せないのは本当に残念だ、ってな」
耳元に鼻先が触れ、低く囁かれる。この身がそれに動じる事は無い。
ともすれば、呆れる程に冷めた感情だけが広がりゆく。
「王妃によく似てるな。確かに評判通り。……あー、すっげぇいい匂いする」
流れる紫紺の髪を手に取り、軽く
影となった口元に笑みを含ませ、ぽつりと溢していた。
「抱いていい?」
「……」
下らぬ望みだと、内心物足り無さすら感じる。
どのような酷い仕打ちも覚悟の上であった。愛する者が受けた苦しみは、計り知れぬものなのだから。
「好きにしろ」
いずれにせよ、アレン以外の男に抱かれようが何も感じ得ぬ、
「へえ。何だ、もっと
指先から髪を溢し、次いでその手は肩を撫でる。親指の腹が鎖骨に触れ、僅か下へ滑らせていた。
「慣れるものか。……だが、幼少の頃ならば、父によくそうして可愛がられたものだ」
言い放つ私に、突如一切の動きを止め、何故かヤツは
「何だ、抱くなら早くしろ」
「…………ぶっ!」
暫し肩を震わせたかと思えば我が身を解放し、不可解に
「これで脅しになんねぇとか、とんだお子様だ! 何あんた、ホントに分かってねーの?」
何をそこまで笑う事があるのか、嘲るようなその言葉はこちらの不満を大いに煽る。
「冗談だよ、冗談。気取ったお前さんの怯える姿でも見れるかと期待したんだけどさ……ふ……父親って! ふっははは!……ああ、ごめんごめん、そんなムクれんなよ。ったく、あんたホント可愛いなっ」
「わっ……」
その気は無いと言うておきながら、ヤツは突然、満面の笑みすら
髪を乱すように頭を撫で回し、自身の胸へと押し付けてくる。
「やっ、やめ……」
「あー、やっぱいい匂い。こりゃ間違いなく癒しだわ。ぐっすり眠れそう」
あの鼓動は、起きぬはずであった。
けれど、唐突の出来事故に身も心も追い付かず、胸が静かに高鳴る。
『言い訳?』
頭のどこかで、
「辛いだろうけど、王妃の遺言をちゃんと守れ。それが本当の条件だ。でも、あんた独りじゃ貫き通せない。だから俺を連れて行け。絶対、力になってやるから」
「何を、勝手に……」
「条件だっつってんだろ。もし本当にあんたがこの世を
……それは、少々助かるな。
温もりを感じ、次第に目が閉じられる。
「んで、あんたの食事、耐えられるなら動物のを調達しろ。ダメなら、俺のを飲んでいいから」
「……正気か? これまで幾人も例外無く殺めてきた鬼なのだぞ?」
「だから、死なない程度に飲め。そういう訓練すること。守れなけりゃ……そうだな、俺があんたをムシャムシャ食ってやるよ」
……自身が絶えた後にか?
強気に
「なんか、脱力してね?」
「……すまない、暫らく、このまま……」
それが、この口が発した最後の言葉であった。
向こうもそれ以上は物言わぬ故、風の流れに意識を漂わせる。
幼少の頃に受けたあの
眠りに誘われてしまうまで、ずっと。
ずっと――
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