-8- 王女の名

 ひとしきり波を見た後、今度は遠く地平線に目を遣る。

 最後に父上と御一緒した、あの晩の事を思い出していた。

 料理の名も忘れる程、久々に食したあの瞬間に、幾人の者があの場に並んでおったか……。


 料理長を始めとする数々の料理人、雛鳥ひなどりのようにお喋りが絶えぬ侍女達。予定が無ければ自室へ篭り切ってしまう大臣でさえ、私が食事をすると聞き付けたらしく、部屋の外でこちらをうかがっていたな。


 ……。

 皆、無事であろうか。

 何より、あのような別れで終わってしまったあの男。何事も無ければ良いが……。


「すまない、アレキッド……」


 あの時の記憶にらちながらも想い馳せ、トトの森から飛び抜けた塔を目印に、城の方角へ向かい呟く。

 すると、突然目の前が闇に覆われ、耳元で微かに息が掛かった。


「気にしてませんよ」

「!」


 この上無い程、心臓が跳ね上がる。

 ……まさか、どうやって、そんなはずは……。此処まで追ってきたというのか?

 あらゆる不安と期待が交じり合い、目を覆うその手に指先を伸ばす。


「……っ」


 違う、錯覚だ。

 諦めの悪い欲念が生み出した、有り得ない幻聴。

 げんに今しがた聞いた声……よくよく思えばアレンのものでは無い。


「何の用だ」


 頭では否定しつつ開いた口は、僅かに震えているようであった。


「冷たいなー。今、俺に謝ってた素直さは認めてやろうと思ったのに」

「……」


 馴れ馴れしく目元に触れている男の鳩尾と思われる箇所に、思い切りひじを食らわせてやる。覆われていた視界が、妙な呻き声と共に開けた。


「貴様はキッドなのであろう? 私が詫びた相手はアレンだ」

「ぐほっえほっ、俺もっ……それで、呼ばれてたっつーの……いってぇ」

「案ずるな。不本意だが手加減は加えたつもりだ」


 それでも、人間の女が本来出せる力では無いが。


「用が無いのなら声を掛け……いや、用があっても近寄るな。貴様が居ると不穏が過ぎる」

「何だよそれ。そんな事言われたら余計近寄りたくなるわ。つーか、あんたホント悪口ばっかだな」

「ならば文句の一つも言いたくなる、そのにやついた顔をやめろ」

「にやついてねぇし! 元からこんな顔だよ!」

「……」


 相手にする事も億劫おっくうとなり、男には目もくれず船内へと向かう。

 ……海原を眺めていたい気分だというのに、全く……。


「おっと、どこ行くんだ? 俺を無視する余裕、恐らくあんたには無いはずだけど」


 と、今までとは違う調子で、受けた痛みなど忘れたように、男……キッドは低い声で言い放つ。

 みじかな普段であったならば、すぐさま頭に血を上らせ、口走った人間を否応いやおう無しにとうしていたであろう。


 だが、勝ったのは好奇心とその滑稽こっけいさ。二度と見るつもりは無かったそちらへと向き直り、静かに嘲笑してやる。


「薄々感付いてはいたが、お前の脳内では危険な生き物を飼っているらしいな。早々に野へ放つ方が身の為では?」

「……言葉つつしんで貰おうか。そのマント姿の正体、警備兵にバラしてもいいんだぞ?」


 言われ、その意味を理解するのに数秒の時を要した。……遂には血の気が引くのを感じる。

 平静を装い、何とか応対しようと口を開くも、出でた声は情け無くうわったもの。気不味い思いの中、不自然な咳払いを生んでいた。


「役人の使いか? 私を捕らえ、彼らと同じ刑に処す気か」


 声の震えを悟ったのか、キッドは薄笑いを浮かべ、風に靡く水晶色の髪を掻き上げる。


「どうだろう。罪にも色々あるしな。あんたの態度……つーか、俺の気分次第って事でどうよ」

「いつから目を付けていた?」

「さーな。それより、景色の良い所で話でもしようぜー」


笑みを貼り付けたまま私を見下ろし、突然何か……術と思わしきものを唱え出す。

 推測としていたが、やはり魔道士か。景色云々うんぬんと言うからには己を舞い上げる気であろう。……ともすれば、この身も。


 発動させようとしているものが本当にそうであるかはさだかでは無いが、未知の恐怖心が一歩、この男から後退させていた。


「ウインディスタ」


 程無くして術が完成し、辺りからは不自然な風が巻き起こる。それは踊るようにヤツを包み、引力など物ともせずその身を宙へと引き上げ……突然、こちらの腕を引いて腰を抱え込む。


「はっ、な! 何をする!」


 風をまといて我が身をも巻き込み、瞬く間に帆柱の頂点へとさらっていた。


「何って、こうしないと飛べないし」

「離せ!」

「いやいや、この高さから離したら擦り傷一つじゃ済まないだろ」

「構わぬ!」


 共に風を纏う事は測っていたが、密着までは想定しておらず、情け無くも気が動転してしまう。冗談交じりに笑うヤツを尻目に、今し方踏みしめた柱を蹴った。

 しかし、逃がすまいと抱え込むように腕を引かれ、留められてしまう。


「あっぶねぇな! だからってホントに行かれるとすっげー困るよ!」

「触れるな! このままでは晒し者ではないか! そちらの方が迷惑極まりない!」


 既に、甲板に出ている一部の乗客らがいぶかしげにこちらを見上げている。会話を内密に行うには適切……なのかどうかは解せぬが、目立つ事だけは避けたかった。


 力任せに振り解けば、体勢を崩してしまうであろう。それこそ、本当に“擦り傷一つでは済まない”事になりねない。ならば相手を怯ませるか。解放されるのであれば方法など問わぬ。

 手っ取り早く男を突き落としてやろうと考え至り、強く足を踏み留め、その目を見据える。


「おっと、立場忘れんなよ? 秘密、ホントにバラされても良いのか?」

「……」


 微かに舌を打ち、それでも何か逃れる策は無いものかとあんする。


「ならば申せ。貴様の言う“私の秘密”とやらを」


 そして今一度、この男が役人の使いかどうかを改める事にした。

 全大陸を渡る事も覚悟……にしては、ばなくじかれつつある。得意分野では無いにしろ、冷静に判断出来なければ先行きに不安が募るばかりだ。


「へぇ、疑ってんの? 俺、目ぇ利くよ?」


 しかし、もはや狂言者の態度では無いという事は一目瞭然である。

 細められた目が、我が群青色のマントを舐めるように見る。僅かに感嘆の声を上げ、布地を軽く撫で上げた。


「あんたの着ているこの服の数々、どう見ても普通の旅人のモンじゃないんだよなー。このマントも、何の素材か分かって着てる?」


 試すような問いに応える言葉すら持ち合わせておらず、ただその顔を眺める。


「“すなの地”生息のサンドジャッカル。食ってるモノこそ腐ってるが、奴等の毛皮はかなり上質だ。……しかもこのマント、それだけに留まらず加工と染色に“こおりの地”生息のニシキコドランのうろこを使っている。たとえ雑巾ぞうきんにしたって言い値で売れる事間違い無し。んで、そのズボン、旅にはえらく不似合いなシルク地だなぁ? 余程急ぎの用があったとみえる。……例えば、逃走とか」

「!」


 胸の内に潜む罪悪感故か、冷静さを欠かれ思わず顔を背ける。


「服だけで……正体を見抜いたと言うのか?」


 更に、うわ言にも似た言葉が全ての罪を物語ってしまっていた。


「服で分かるんだよ。そういう高価な代物を着用する旅人なんてそう居ない。どっかの城のお偉いさんが外出時に着てるくらいでな。……そ、例えば王や王妃、王子に姫……」

「もう良い!」


 言い逃れなど、最初から不可能であった。

 城から抜け出でた所を見られていたとも思えるが、明らかに浮いているというこの服だけで全てを見抜かれている。


「じゃ、名乗ってもらおうか。俺にあれだけボロクソ言ったんだ。こっちにもその権利はあんだろ」


 名乗る? あの時はただ勢いで吐いただけなのだが、根に持たれる程酷い事を口にしたか。

 しかし妙な言い草だ。正体を見破っているのなら名を知っていても良いはず。それほど、“名乗って罵倒”という行為にこだわっているのか、単に王女の名が知られていないだけか。

 どちらにせよ、今更ダルシュアンを名乗る気にはなれず、溜息と共に頭を垂れた。


 ――ルーナさま!


 すると突然、手に掛けたはずの幼き少女が、記憶の中で蝶のように舞う。


 ――途中で切れないし、ちゃんと歌えるよ!


「……そう、だな」


 それでお前と“ゴカクのショーブ”であったな。

 顔を上げ、何やら待ち構えるキッドの目を静かに見据える。いつの間にか乾いてしまった唇を薄く開き、意を決した。


「ファルト……ファルト=ウル=カーミラ」


 短く、しかしはっきりと、ダルシュアンを捨てた名を、口にする。


「……」


 向こうも視線だけをひたすらに寄越し、ようやっと罵倒の言葉でも思い浮かんだのか、大きく息を吸いつつ口を開く。

 が、声は発せられず、諦めたようにゆっくりと閉じ……更に三度程それを繰り返していた。


「何だよ畜生。あんたみたく重ぉく響くようなイヤミが浮かばねえっつーの。くそっ」


 偽名に対する言葉は何も無いのか、それとも、やはり王女の名を知らなかったのか。悪態を吐き、後頭部を掻きながらヤツは呻いた。


「じゃあもう代わりに、ばーちゃんの変な口癖のアレにする。……良い名……いや、これは省こう、ものすごくしゃくだわ。……こほん。親御さんの名も教えておくれさ。あんたの幸せと共に祈……らせて……おく、れ」


 少し声色を高め、キッドは身振り手振りを加え丁寧に礼をする。その後すぐに自身の頭を抱え、今度は嘆いていた。


「うわ、違っ……コレじゃねえ、もう一つの方だ! ああもう!」


 ぐしゃぐしゃと髪を踊らせるも、以降罵倒らしき言葉がその口から放たれる事は無かった。

 沈黙に次いで、吹きすさぶ潮風だけが私達の間で鳴り響く。暖かな陽光ともあいまって、多少の心地良さを感じさせていた。


「……妙な口癖だな」

「入れ替り立ち替り、人が来る時期があったんだよっ」


 ぽつりと溢すと、瞬時にくされた声で返されてしまう。腕を組んで大袈裟に溜息を吐いては、指先が忙しなく自身の腕を突いていた。


「レリズ」

「あん?」

「名付けではあるが、我が母だ。その祈り、天に居る彼女もきっと喜んでくれよう」

「……ああ。……そうかよ」


 読み方を変えてその名を述べ、そっと祈りを捧げる。

 リリス、どうかそのたまに、安らかな眠りが与えられん事を、と……。


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